2017年9月15日金曜日

第7.5章 対人恐怖の精神分析 ③

Andrew Morrisonの恥の理論

コフート理論の影響下で対人恐怖に類する病理を自己愛との関連で論じられるという方針を明快な形で示した論者としてAndrew Morrisonがあげられる。彼が1989年に著した「ShameThe underside of Narcissism 恥-自己愛の裏の面」は精神分析における恥の理論に大きな影響を与えた。その主張は次のように非常に明快である。「恥とは自己愛の傷つきである。Kohutははっきりとは言っていないが、彼の理論は恥の理論である(「恥の言語で綴られている。」Morrisonは恥の体験はコフート的な意味での自己の病理として捉えられるとした。
ここでMorrison に倣い、コフートの自己愛の理論から対人恐怖心性について考えてみよう。
Kohutの中心概念 (Kohut, 1971) は、平易な言葉では次のように説明されよう。人は敬愛している他者から認められ、敬意を表されるという体験を、「あたかも人が生存のためには空中の酸素を必要とするように」(コフート自身の表現)必要としている。それが自己対象selfobjectの持つ「理想的な両親像であるということ idealized parental imago」と、「ミラリング mirroring」の機能である。精神的な意味で生き続けるためには、それらの自己対象機能を果たすことの出来る他者を必要としている。幼少時は主として親がその役割を果たすであろう。そして成長してからも、友人や先輩や同僚や配偶者との間で、同様の関係を持つ。しかし親により自己対象機能を果たされなかった場合に子供は健全な自己の感覚を養われずに、コフートの言う意味での「自己愛的な病理」を持つようになるとした。Morrison によればそれは恥体験および恥の病理として言い換えられることになる。そしてそのような患者との治療関係においては自己対象転移が見られ、それに基づき治療が進展していくことになる。
Morrisonの説に従えば、ここからKohut理論に沿った治療論が展開されるわけであるが、これを対人恐怖に対する精神分析的なアプローチとして用いることには一つの問題がある。それは対人恐怖ないしは米国における社交恐怖という病態が、Kohut-Morrison流の恥の病理と微妙にずれるということである。これはMorrisonが恥の体験イコール自己愛の傷つきという単純化を行っていることから来る問題ともいえる。対人恐怖者は、自己愛の病理のみにより説明できるかといえば、必ずしもそうではないであろう。単純に考えれば、自己愛的ではない人も、対人恐怖的ではありうる。
ただしMorrisonの治療論を読むと、その対象を対人恐怖や恥を感じやすい人々に限定して論じるのではなく、自己愛の病理一般を恥という視点から見直すというニュアンスを持っており、これはこれで非常に内容が深いという印象を受ける。彼は恥の防衛として生じるさまざまな病理、特に他人に対する憤りや軽蔑といった問題も自己愛が満たされないことから来る怒り(「自己愛憤怒」)という視点から扱っている。これはパーソナリティ障害に広く見られる問題を扱う手段としては非常に有効であろう。ただしそこに現れる患者像は、対人恐怖というよりはDSM的な自己愛パーソナリティ、すなわち自己中心的であり、他人を自分の自己愛の満足のために利用するといったタイプにより当てはまるという印象を受ける。

岡野の対人恐怖理論の図式

私が対人恐怖に対する精神分析的な考察を行った際に導入したのが、二つの自己イメージの葛藤という図式である(図1、岡野、1997)。それをここで紹介したい。これは冒頭で記述した対人恐怖の心性を力動的に説明しようとした試みであり、また先に述べた自己愛の病理の理論を基盤としたものとも異なったものであった。
人は自分を理想化したイメージと、恥ずべき自分というイメージの二つを分け持つことが多い。そしてそれぞれは別個に体験される傾向にある。冒頭のスピーチの例では、スムーズにスピーチをしている自分のイメージが理想自己に相当するが、いったん言いよどみ、冷や汗をかき、「ああ自分は駄目だ!」という思いと共に、今度は「恥ずべき自己」のイメージに支配されるようになる。いわば自己イメージの「転落」が生じるわけだが、それが著しい恥の感情をうみ、それが対人恐怖の病理の中核部分を形成すると考えるのである。
この両「自己像」のあいだの分極に関して重要なのは、この分極の上下の幅がその人の恥の病理の深刻さにつながるということだ。なぜなら恥多き人ほど、「自分は人前で自由に心置きなく自分を表現したい」と夢見ることが多く、それは現実とかなりかけ離れたものとなる傾向にあるからだ。また恥多き人ほど「自分はなんて駄目なんだ!」と思う時の落ち込み幅も尋常ではない。彼らはほんのちょっとした失態で「こんな駄目な人間は生きている資格がない」、とまで思ってしまうのだ。だからこそ対人恐怖傾向のある人においては、「理想自己」はより高く位置し、恥ずべき自分はとことん低く位置する傾向にあり、両者の懸隔は大きくなる。
逆に対人恐怖的な傾向が少ない人の場合は、両者の距離はあまり開いておらず、時には両者は融合して中心付近により現実的な自己として存在している可能性がある。パフォーマンスを職業として選択し、すでに場馴れしている人にとっては、両者の分極する程度はより限定されたものとなるだろう。たとえばプロのレポーターであれば「自分の技量はこんなところだろう」というレベルを想定していて、日常の業務ではそれを大きく超えていることに驚くことも、それが極端に裏切られることも多くはないはずだ。彼らは自分に対する期待値も過度に大きくはなく、したがってそれだけ失望も少ないということになる。プロのパフォーマーなら自分の姿のビデオ再生を見ても、自分がイメージしていた姿と極端に異なるものを見ることはない。つまり「理想自己」から「恥ずべき自己」への転落はおきにくいのだ。ところが対人恐怖傾向のある人間は、自分のパフォーマンスの姿を写真で見ることすら強烈な恥の感情が沸き起こるものである。それは自分がこうあって欲しい、こうであればよかったというイメージが肥大し、そのために現実とのギャップに大きく失望するという悪循環が成立してしまっているからだ。
「対人恐怖」の治療状況における転移関係について

ところで図1を見る限りでは、二つの自己像の反転現象はあたかも自分という内的世界で生じているというイメージを与えるかもしれない。しかしたとえば一人自室で文章を音読していても、よほど臨場感を伴わない限り、対人恐怖症状としての声の震えは生じない。ところがそこで目の前にたった一人が存在しているだけで動揺し、声の震えやどもりを引き起こされることがある。その意味では両「自己」の分極や反転現象は対象との関係により大きく依存することになる。
このことは対人恐怖症状について扱う治療環境を考える上でも重要である。通常は転移関係は治療関係の深まりとともに発展し、そこに患者の病理も反映され、それが治療的に扱われるわけであるが、対人恐怖症状についてはそれが必ずしも当てはまらない。むしろ治療者がまだ見知らぬ、あるいは出会ったばかりの時期にもっとも華々しくなり、それから徐々に軽減していく傾向にある。しかし対人恐怖の力動的な治療に必要とされる患者治療者関係は、あからさまな対人恐怖症状が患者の側に誘発されないような安全な環境が保障されていることが前提となる。その様な環境で初めて、治療関係によりさまざまに動く患者の心境に焦点を当てた治療が行なわれる。それは基本的には支持的で、古典的な分析状況とはかなり異なるものとなるはずだ。
私がかねてから治療実践に生かしているのは、そのような安全な環境を提供した上での、認知療法的な枠組みの導入である。分析的な枠組みと認知行動療法的な枠組みの共存は伝統的な分析的療法の立場からはなじみにくいかもしれないが、今後はさらに試みられるべきものであろう。精神分析的な枠組みは、認知行動療法的なプロセスにおいて生じたさまざまな心の動きについて語る場も提供できるという点で、後者の効果をより高めるというのが私の考えである。そのような例として次章では症例Aを提示したい。