2017年9月24日日曜日

第10章 トラウマと精神分析 (2) ④

解離と「関係性のストレス」
解離性障害が明白な対人トラウマ以外の出来事にも由来するという可能性については、筆者は以前から注目していた。特に解離性障害の患者の幼少時に見られる母親との情緒的なかかわりが大きなストレスとなっているケースに注目し、筆者はかつて「関係性のストレス」という考えを提出した(2022)。つまり明白なトラウマ以外にも、幼少時に親子関係の間で体験される目に見えにくいストレスが、解離の病理の形成に大きくかかわっているという視点である。このテーマについて簡単に解説したい。
 「関係性のストレス」という概念の発想は、筆者のわが国と米国の双方での臨床を通して得られた。患者を取り巻く家庭環境が、両国ではあまりに異なるという印象をかなり以前から持っていたのである。米国の場合には、精神科に受診する女性の患者の非常に多くが、実父ないしは継父からの性的虐待を被っているということが半ば常態化してきた。それは日常の臨床で女性患者の病歴を取る際に歴然としていた。そして筆者はそれが渡米前に数年間持った日本での臨床経験とはかなり事情が異なるのではないかという疑問を抱いた。それでも日本に同様にDIDの存在がみられるとしたら、それは何か別の理由によるのではないか、と考えたわけである。しかしそのような印象は筆者の日本での臨床経験の浅さにも起因しているのではないかとも考えた。
 2004年に帰国してから筆者が出会った日本のDIDのケースの多くは、筆者のそのような印象を裏付けるものだった。実父、継父、祖父、兄からの性的虐待のケースは数多く聞かれたが、また多くの患者はそのような性的虐待の経歴を有していなかった。父親はおおむね家庭において不在であり、そもそも娘との接触を持つ機会や時間が極めて制限されていた。そしてその分だけ母親は家で子供と取り残され、そこでお互いに強いストレスを及ぼしあっていたのである。そこにはまたわが国における少子化の傾向も関係しているように思われた。
 そしてこの問題についてさらに考察を進めるうちに、筆者は「母親の過剰干渉」対「子供の側の被影響性」という関係性のテーマに行き着いた。日本における「関係性のストレス」とはある意味での母娘の関係の深さが原因であり、そこでは母親が娘に過剰に干渉することと、娘が母親からの影響に極めて敏感であることという相互性があるのではないか、と考えたのである。つまり米国における対人ストレスのように、加害者である親と被害者である子供という一方的な関係とは異なり、日本的な「関係性のストレス」は、まさに関係性の病理と言えるのである。そして親子の関係の中でも特に母娘にそのような関係性が見られることは、DIDが特に女性に多く見られることを説明するようにも思われた。
 そこでこの「関係性のストレス」において、特に娘の側の心に何がおきているのかを、力動的に考えてみた。そしてそれを「娘の側の投影の抑制」と理解した(岡野、2011)
 DIDの病理をもつ多くの患者(ほとんどが女性)が訴えるのは、彼女たちが幼い頃から非常に敏感に母親の意図を感じ取り、それに合わせるようにして振舞ってきたということである。彼女たちは自分独自の考えや感情を持たないわけではない。むしろ持つからこそ、母親のそれを取り入れる際に、自分自身のそれを心の別の場所に隔離して保存することになる。そしてそれが解離の病理を生むと考えられるのだ。
 彼女たちが自分の考えや感情を表現したり、それらの投影や外在化を抑制したりする理由の詳細は不明であり、今後明らかにされるべき問題であろう。ただし何らかの仮説を設けることもできる。一番単純に考えた場合は、娘の主観的な思考や感情が母親のそれと矛盾するということそのものが、娘に心的ストレスを起こすのであろう。その意味ではベイトソンの示したダブルバインド状況(5)が、実は解離性障害を生む危険性に関連していたということになる。この問題については、実は安 (3) がかつて指摘していたことでもある。
 この関係性のストレスの概念は、先述の愛着障害とも深い関連を有することは説明するまでもないであろう。両者は用語の違いこそあれ、類似の現象を言い現わしている可能性がある。愛着という現象が乳幼児の行動上の所見から見出されるものであるならば、その心理的な側面に焦点を当てたのが、この関係性のストレスということが出来る。そして愛着の障害が母親と子供の双方の要因が関与しているのと同様、関係性のストレスも両者の関与により成立することになる。ただし愛着が幼少時に限定されるのに比べて、関係性のストレスは子どもが成長しても、また成人してからも観察される可能性があるという点が特徴といえるだろう。現にDIDの患者の多くはいまだに母親とのストレスに満ちた関係を継続しているという点は、筆者が直接係わった患者の多くから得られた所見であった(20)。