以上は他愛のないたとえ話ではあるが、この背中の文字が、患者さん本人よりは治療者が気づきやすいような、患者さん自身の問題を比喩的に表しているとしよう。すなわちその背中の文字とは患者さんの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者さんの耳には直接入っていない噂話かもしれない。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるだろう。
しかしおそらく確かなことが一つある。それは治療者が患者さん自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性があるということだ。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど広義の解釈の定義そのものと言っていいであろう。またその文字が患者さんにとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は「示唆」的であっても、それが患者さんにとって有益である可能性は依然としてあるだろう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われていることからも示唆されることだ。
4.具体例とその解説
ここからはもう少し具体的な臨床例について考えたい。
ある30代後半の独身女性Aさんは、両親と同居中である。Aさんはパート勤務で家計に貢献している。3歳下の妹はすでに結婚して家を出ている。Aさんはここ2年ほど抑うつ気分にとらわれ、心理療法を受けている。Aさんには結婚も考えている親しい男性がいるが、両親にはそれを話せないでいる。あるセッションでAさんは治療者に次のように話す。
「最近父親が会社を定年になって家にいることが多いので、母への言葉の暴力がすごいんです。何から何まで言いがかりをつけ、時には手も出るんです。私が盾になって母を守ってあげないと、彼女はダメになってしまうんです。」治療者は「お母さんを心配なさる気持ちはわかります。お母さんはあなたがいつまでも家にいることでお父さんから守られるという安心感があるのですね。」治療者のその言葉に、Aさんは頷き、自分の話を理解してもらっていると感じる。
治療者は続けて次のようなことを言う。「実はAさんのお話を聞いていて、一つだけよくわからないことがあります。Aさんは、結婚も含めてご自分の人生についてはどうお考えになっていますか?」と問うと、Aさんは「私の人生はいいんです。私だけが頼りだと言う母を見捨てられない、それだけです。」治療者は少し考え込み、こう問いかける。「お話の意味がまだ十分つかめていない気もします。ご自分の人生はどうでもいい、とおっしゃっているようで……。」それに対してAさんはすこし憤慨したように言う。「自分を育ててくれた母親のことを思うのが、そんなにおかしいですか?」治療者はAさんの話を聞いていて依然として釈然としないと感じつつ、そのことを手掛かりに話を進めていこうと考えた。
この例では、治療者はAさんが母親を心配して家を離れない理由については、理解できた気がしたし、それを伝えた。しかしAさんが「私の人生はどうでもいい」ともとれる言い方をした時から、彼女の話が見えにくくなり、しっくりこないと感じられるようになったのである。
私たちはある思考や行動を行う時、いくつかの考え方や事実を視野に入れないことがしばしばある。それは単なる失念かもしれないし、忘却かもしれない。さらにそこには力動的な背景、つまり抑制、抑圧、解離その他の機制が関与している可能性もあるだろう。治療者は患者の話を聞き、その思考に伴走していく際に、しばしばその盲点化されたものに気が付く。上の例では「Aさんはこれからも母親の面倒を見続けようと考えることに疑問を抱いていないのではないか?」「恋人の存在さえ両親に伝えないことの不自然さが見えていないのではないだろうか?」「Aさんは私の問いかけに対して非難されたかのような口調で答えていることに、自分でも気が付いていないのではないか?」などである。治療者がそれらの疑問を自分自身で持っていること自体がAさんには見えていないような様子が、治療者には感じられたのだ。するとこれらについて直接、間接に扱う方針が生まれる。それを私は広義の解釈と考えるのであるが、それは精神分析的な無意識内容の解釈より一般化され、そこに必ずしも力動的な背景を読み込まない場合も含まれるという点が特徴といえよう。
患者さんの連想に伴走しながら盲点化に気が付く治療者は、言うまでもなく自分自身の主観に大きく影響を受けている。患者の連想の中に認めた盲点化も、治療者の側の勘違いや独特のidiosyncrasy(その個人の思考や行動様式の特異性)が大きく関与しているであろう。それはたとえばある患者の見た一つの夢についての解釈が、それを聞いた分析家の数だけ異なる可能性があるのと同じ事情である。また患者さんの夢についての治療者の指摘も、単なる明確化から解釈的なものまで含まれる可能性がある。先ほどの例で言えば、「あなただけお母さんの面倒を見る義務があるようなおっしゃり方をなさっていることにお気づきですか?」と言及したとしても、それは、特に患者の無意識内容に関するものではない。しかし「父親のことは別にしても、あなたご自身に母親のもとを離れがたい気持ちはないのですか? お母さんを父親から守る、というのはあなたが家を離れない口実になっていませんか?」と言及することは、Aさんの無意識内容への言及という本来の解釈ということになるだろう。ここで患者の無意識のより深いレベルに触れる指摘は多分に仮説的にならざるを得ないことへの留意は重要であろう。それは治療者の側の思考にも独特の暗点化が存在するからだ。ただし分析家はまた「岡目八目」の立場にもあり、他人の思考の穴は見えやすい位置にあるというのもまぎれもない事実なのだ。そしてその分だけ患者はそれを指摘されるような治療者の存在を必要としている部分があるのである。
さてこのような解釈を仮に技法と考え、その「習得」を試みるにはどうしたらいいであろうか? 私の考えでは、この「暗点化を扱う」という意味での解釈は、技法というよりはむしろ治療者としての経験値と、その背後にある確かな治療指針にその成否が依拠しているというべきだと考える。患者の示す暗点化に気づくためには、多くの臨床例に当たり、患者の有するたくさんのパターンを認識することだろう。しかしそのうえで虚心にかえり、すべてのケースが独自性を有し、個別であるということをわきまえる必要があるだろう。すなわち繰り返しと個別性の弁証法の中にケースを見る訓練が必要となるだろう。そして治療者は自分自身の主観を用いるという自覚や姿勢も重要となるのである。