2017年5月16日火曜日

未収力論文 ⑩

オマージュなどと言いながら、土居先生への不満を述べてしまった文章である。

土居健郎先生へのオマージュ-「斬る名人」としての土居先生
            
(精神分析研究54(2010年)所収)
 土居健郎先生は私にとって恩師であり、様々な意味でお世話になった方である。先生に対する感謝の気持は別の企画による追悼文集(1)に寄せた一文にしたためた。再び先生について書く機会をいただいた本稿では、私が個人的に知ることの出来た土居先生の人となりについて少し書いてみたい。
 土居先生のことを思い浮かべると、その優しさと同時に、あの独特の厳しさも蘇ってくる。土居先生は筆まめで、面識すらない一介の医学生だった私の、手紙による他愛のない質問にも、ていねいにお返事を下すった。弟子や後学者に常に声をかけ、アドバイスをくださるという優しさを示してくれたのである。
 しかしそれとは別に、議論の時の先生の舌鋒は鋭かった。特に公開の場での土居先生は歯に衣着せぬところがあった。適切なたとえではないかもしれないが、切れ味の鋭い刀で相手をスパッと斬るような感じであったと思う。分析で言うならば、極めて父親的な面を持った先生であった。それは先生の持つあまり日本人的ではないイメージとも重なる。そのような時の彼の立ち居振る舞いには、周囲への過剰な配慮や気遣いは、あまり感じられなかった。ものごとの判断や行動が素早く潔く、そのスタンスは非常に個人主義的であった。彼の英語がとても堪能だったことも、何か偶然ではない気がする。
 こんな話を聞いたことがある。土居先生が確か1980年代に米国のメニンガー・クリニックで講演をなさった時のことである。メニンガーといえば、アメリカでの有数な精神病院であり、かつて多くの日本人の精神科医が留学したという歴史がある。先生はその先駆者で、1950年にメニンガーに留学しておられたが、ご家族の病気という事情のために2年ほどで帰国された。それからかなり経ってメニンガーで講演をなさったわけだが、先生は50年代と比べて感じるアメリカ人の変化や堕落について語ったという。そして集まった聴衆を前にして、著しく肥満している人の数が増えていることを例にあげた。すると聴衆の中で名指しされたと感じた一部の人々が憤然として席を立ち、会場を去っていったということである。おそらく先生は平然とそれを見送られたことだろう。いかにも「斬る名人」土居先生らしいエピソードである。
 実際に土居先生に公の場で厳しい指導を受けた諸先輩方も多かったらしい。精神科医として駆け出しの頃、私は複数の先輩から次のような話を聞いた。土居先生は時々学会などで衆目の前で、発表者に容赦無い厳しい指導をなさる。当然言われた方は落胆して恥じ入る。しかし土居先生は精神的なフォローを忘れない。その発表が終わった後、傷心の発表者にそっと近づき、優しい言葉で力づけてくれる、というのである。それが土居先生の後輩への配慮の仕方であるとのことだった。この時は他人事のように聞いていたが、自分自身が同様の体験を持つことになるとは思わなかった。
 それから20年近くも経ったある学会でのことである。私は指定討論演題という部門で発表する機会を持った。その指定討論を引き受けてくれたのは、学会の顔ともいえるA先生であった。そして私の発表の後、A先生は最初はやんわりと、そして途中から真っ向から私の論点を否定する発言を行なった。私は学会の大御所からの厳しい意見に背筋が凍る思いであった。そのセッションの司会を勤められたB先生は議論に少しバランスを取り戻そうと、私の主張の一部について代弁をなさったのだが、そのとき土居先生がおもむろに手を挙げて、非常に短いコメントをおっしゃった。
 「いまここでディスカッションを聞いていたが ・・・・・ 僕はやはりAクンの方が正しいと思うね。」
 私は今でもそのときの感覚が忘れられない。A先生の厳しい討論内容のあとだったので、二人に左右袈裟斬りされた、という感じであった。特に大衆の面前での、しかも偉大な土居先生からの駄目出しである。反論する気力など出ようはずがない。それにこのような時は気が動転してしまい「何を指摘されたか」という一番重要な点に頭が回らないものである。
 そしてその日の昼食時に、私に近づいてこられた土居先生は、おっしゃった。「さっきは君の立場を支持できなくて悪かったね・・・・。」「僕は物事に白黒つけてしまうような議論には反対するんだよ。」私はこの時は先生の言葉の意味を十分に受け取る余裕もなく、ただひたすら恐縮したものだが、少し後になってから、このことにだけは思い至ったのである。「あの先輩達の話とあまりにも似ている・・・・。私もとうとう土居先生からの洗礼を受けたのだ」。
 私が土居先生を「斬る名人」と表現することで、誤解を生まないよう気をつけなければならない。相手を叱ったり教え導く目的で厳しい言葉を掛けるということは、現代社会に生きる私たちにとってかなり難しいことといえる。私たちは相手にたいして異なるメッセージを発する時、しばしばそれが相手を傷つけることを懸念し、また報復をされてしまうことを恐れる。昨今では逆にパワハラと言われかねないこともあり、いかに相手の感情を損ねないかばかりを考えてしまい、伝えたいメッセージのインパクトは薄くなる傾向にある。
 ところが土居先生は厳しい指導や指摘が必要な際に、結果を案じることでその機会を失うことは潔しとしなかったところがある。そしてその効果はいつも見事だった。実際にそのような土居先生の一言を必要としている人たちもいたのだろう。私たちは先達から言葉により斬られることでそのメッセージを受け取ると同時に身を引き締め、居住まいを正すことがある。その瞬間は辛いが、あとから振り返れば重要な体験だったりするのだ。一昔の我が国では、それはむしろどこでも見られる光景だったのかも知れない。
 しかしそれにしても、その土居先生の思考が常に立ち戻るテーマが「甘え」であったという事実とどう繋がるのだろうか?「甘え」は許しやいわたりに繋がるであろうし、それは「斬ること」により相手を否定することの反対に位置するかのようである。ちょうど去勢を迫ってくる父親と、優しく包み込む母親の機能を先生は同時にお持ちだったことになる。私はしばしばこのことを考えるが、いまだに納得のいく考えには至っていない。しかし以下のことだけは言えるように思う。
 土居先生は心に対する尽くせぬ興味をお持ちであった。人間への優れた観察眼を持っていた夏目漱石の作品に対する先生の限りない敬愛にそれは表れている。そればかりか先生は直接人に関わりを持つこともお好きだった。晩年の先生はたくさんのお弟子さんと優しいご家族に囲まれてさぞお幸せだったのではないか。少なくとも傍目にはそう見えた。先生一流の斬れ味の鋭い指摘や批判のせいでお弟子がさんたちが去ってしまったという話も私は聞いたことがない。それは先生の手厳しい言葉が憎しみや攻撃性とは程遠かったからであろう。
 先生が若くして得られた地位や威厳も加わり、言葉による切断は、後学者を指導するために重要な手段となると同時に、先生一流のメッセージの伝え方へと磨きがかけられたのである。先生により斬られる理由がたとえその時は不明であったとしても、そこには生きた触れ合いが生じているのであり、そのようなやりとりは簡単には忘れないものなのだ。私自身にもあの学会のことはほとんど土居先生とセットになって懐かしく思い起こされるのである。
 この短い文章で私が土居先生について言いたかったのは次のとおりである。斬る名人としての先生の根底にあるのは、指導することへの熱意であり、人間愛であり、甘え、甘えられの関係を含む人とのかかわりへの希求であった。土居先生は自分が「斬る」ことによる指導や主張の威力を十分に分かっておられたであろうし、それだからこそ多くの先輩方が、そこに土居先生の愛情や人間味を感じ、彼の死を悼みに集ったのだと思う。斬れ味の鋭い先生の言葉は、甘え、甘えられの人間関係に加えられた先生ならではのスパイスではなかったかと思うのである。