推敲も大体終わり。
ヒレをパタパタして卵に水を送るヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。そうすることが苦痛なら、とっくの昔に育児放棄してしまうはずだ。本能に従った行動それ自身が緩やかな快(あるいは強烈な快かもしれない)を伴うのは、その本能的な行動が中止されないための重要な仕組みと考えられる。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うためにそれ自身が大きな不快や恐怖にも転じかねない。だからこそ当然強烈な快に裏打ちされていなくてはならない。メスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。
これらの事情は私たち人間にとっても変わらない。食行動、生殖行動など、明らかに本能に深く根ざしている行動には強い快感が伴う。また無意識的に行っている、いわばルーチンとなった行動についても、穏やかな快感くらいは伴っていることが多い。例えば人は決まった通勤路を歩いている時には、その行為について意識化していないことが多いが、おそらくはある種のゆるやかな快を伴っているからそれが続けられるのだろう。だから風邪などをひいて体調を崩しているときには、すぐにその活動は不快に転じてしまうので、少し歩いては見ても、結局はタクシーを呼んだり、道に座り込んでしまいたくなったりするはずである。
私たちが無意識に、あるいは習慣で行う行動にも、快原則はそっと寄り添っているのだ。