同じく現代的な見地からは、解釈自身が不可避的に示唆的、教示的な性質を程度の差こそあれ含むという事実も認めざるを得ません。上に示した定義のように「分析家が,被分析者がそれ以前には意識していなかった心の内容」について行う「言語的な理解の提示あるいは説明」という意味そのものが示唆的、教示的な性質をあらわしているからです。「解釈とはことごとく示唆の一種である」というI.ホフマン(Hoffman,
1992)の提言もその意味で頷けます。
もちろん無意識内容を伝えることと示唆や教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていました。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのです。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがあります。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのでしょうか?
もちろん無意識内容を伝えることと示唆や教示とは、少なくともフロイトの考えでは大きく異なっていました。前者は「患者がすでに(無意識レベルで)知っている」ことであり、後者は患者の心に思考内容を「外部から植えつけられる」という違いがあるのです。前者は患者がある意味ですでに知っていることであるから、後者のように受け身的に与えられ、教示されることとは違う、という含みがあります。しかし私たちが無意識レベルで知っていることと、無意識レベルにおいてもいまだ知らないこととは果たして臨床場面で明確に分けられるのでしょうか?
臨床的に役立つ「解釈」の在り方とその習得
ここで私の考えを端的に述べたいと思います。解釈という概念ないしは技法は、精神分析以外の精神療法一般にも広く役立てることが出来るであろうと思います。ただしそのために、以下のような視点が有用と考えます。それは解釈を「患者が呈している、自らについての一種の暗点化
scotomization について治療的に取り扱う手法」と一般的にとらえることです。すなわち患者が自分自身について見えていないと思える事柄について、それが意識内容か無意識内容かについて必要以上にとらわれることなく、治療者が質問をしたり明確化をしたりすることで、それをよりよく理解することを促す試みです。(ちなみにフロイトも「暗点化」について書いていますが(Freud,
1926)、ここではそれとは一応異なる文脈で論じることとします。
私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意しました。
私の意図を伝えるために、一つ例え話を用意しました。
目の前の患者さんの背中に文字が書いてあり、患者さんはそれを直接目にすることができないとします。そして治療者はその患者さんの背後に回り、その文字を読むことが出来るとしましょう。あるいは患者さんが部屋に入ってきて扉を閉めた時点で、治療者はその字を目にしているかもしれません。さて治療者はその背中の文字をどのように扱うことが、患者さんにとって有益でしょうか?また精神分析的な思考に沿った場合、その文字を治療者が患者さんに伝えることは「解釈的」として推奨されるべきなのでしょうか?それともそれは「示唆的」なものとして回避すべきなのでしょうか?
もちろんこの問いに唯一の正解などないことは明らかでしょう。答えは重層的であり、またケースバイケースです。そしてその答えが重層的であることが、解釈か示唆かという問題の複雑さに通じていると思います。ケースバイケースというのは、次のような意味でです。患者はすでにその文字を知っているかもしれないし、全く知らないかもしれない。患者はそれを独力で知りたいのかもしれないし、他者の助力を望んでいるのかもしれない。あるいはその内容が深刻なため、患者は心の準備のために時間をかけて教えてほしいかも知れないし、すぐにでもありのままを伝えてほしいかも知れない。さまざまな状況がありうるわけです。さらにはその文字が解読しづらく、患者さんとの共同作業によってしか意味が通じないかもしれないのです。
以上は他愛のない例ではありますが、この背中の文字が、患者さん本人よりは治療者が気づきやすいような、患者さん自身の問題を比喩的に表しているとしましょう。すなわちその背中の文字とは患者さんの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者さんの耳には直接入っていない噂話かもしれません。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるでしょう。
以上は他愛のない例ではありますが、この背中の文字が、患者さん本人よりは治療者が気づきやすいような、患者さん自身の問題を比喩的に表しているとしましょう。すなわちその背中の文字とは患者さんの仕草や感情表現、ないしは対人関係上のパターンであるかもしれず、あるいは患者さんの耳には直接入っていない噂話かもしれません。この場合にもやはり上記の「ケースバイケース」という事情がおおむね当てはまると考えられるでしょう。
しかしおそらく確かなことが一つあります。それは治療者が患者さん自身には見えにくい事柄を認識出来るように援助することが治療的となる可能性があることです。そしてこの比喩的な背中の文字を、「それ以前には意識していなかった心の内容やあり方」と言い換えるなら、これを治療的な配慮とともに伝えることは、ほとんど広義の解釈の定義そのものと言っていいでしょう。またその文字が患者さんにとって全くあずかり知らないことでも、つまりそれを伝える作業は「示唆」的であっても、それが患者さんにとって有益である可能性は依然としてあるでしょう。それは心理教育や認知行動療法の形をとり実際に臨床的に行われているからです。
具体例とその解説
ここからはもう少し具体的な臨床例について考えたいと思います。
<略>
それに対してAさんは「私の人生はいいんです。私だけが頼りだと言う母を見捨てられない、それだけです。」治療者は少し考え込み、こう問いかけます。「お話の意味がまだ十分つかめていない気もします。ご自分の人生はどうでもいい、とおっしゃっているようで……。」それに対してAさんはすこし憤慨したように言います。「自分を育ててくれた母親のことを思うのが、そんなにおかしいですか?」治療者はAさんの話を聞いていて依然として釈然としないと感じつつ、そのことを手掛かりに話を進めていこうと考えました。