鹿島が優勝するという夢を一瞬見てしまった・・・
退行の現代的な意義
退行の現代的な意義
現代の精神分析において、退行という概念はどのような意味を持ち、いかなる臨床的な意義を有するのであろうか? 本稿ではこの概念の変遷について概観した後に、筆者の考えを述べることとする。
1.フロイト及び自我心理学における退行
精神分析における退行の概念は Freud にはじまることは言うまでもない。小此木啓吾は精神分析における退行の概念について、以下のように記している(小此木、2002)。
「退行は,それまでに発達した状態や,より分化した機能あるいは体制が,それ以前のより低次の状態や,より未分化な機能ないし体制に逆戻りすることをいう。Freud,S は,失語症の研究 (1891)を通して,この Jackson,J. H. の進化 evolution と解体 dissolution の理論から影響を受け,退行は,精神分析によって観察された現象を説明する基本概念の一つになった。」
S.Freud (1891) On Aphasia:
A Critical Study. International Univer' sities Press,1953 (trans. E StengeJ)
安田一郎訳失語症の理解のために失語症と神経症.誠信書房,1974
小此木啓吾編、精神分析事典、岩崎学術出版社、2002
この様に初期の退行の概念には、当時の精神医学における理論を反映した生物学的な色彩が強かった。Freud の第一の関心事は精神の病理性を説明する手立てであり、精神病理を一種の先祖がえり、進化の逆戻りと考えるJacksonの概念は、当時の「変質」の概念ともあいまってFreudに大きな影響を与えていた。Freud はその後リビドーの固着と固着点への退行という概念を発展させ、ヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。この様に初期のFreudは、退行の概念をもっぱら病理の成立過程やその種類の説明手段として用いる一方で、退行は治療にとって望ましくないもの、治療にとっての抵抗となるものと考えた。Freud はこのような考えを終生持ち続け(続精神分析学入門、1938)、それはそのまま Anna Freud に受け継がれた。そのAnna Freud が、抵抗として自我の前にまず退行を提示していることは興味深い。
この様に初期の退行の概念には、当時の精神医学における理論を反映した生物学的な色彩が強かった。Freud の第一の関心事は精神の病理性を説明する手立てであり、精神病理を一種の先祖がえり、進化の逆戻りと考えるJacksonの概念は、当時の「変質」の概念ともあいまってFreudに大きな影響を与えていた。Freud はその後リビドーの固着と固着点への退行という概念を発展させ、ヒステリーでは近親姦的な対象への退行,強迫神経症では肛門段階への欲動の退行, うつ病では口愛段階への欲動の退行が起こると考えられた。この様に初期のFreudは、退行の概念をもっぱら病理の成立過程やその種類の説明手段として用いる一方で、退行は治療にとって望ましくないもの、治療にとっての抵抗となるものと考えた。Freud はこのような考えを終生持ち続け(続精神分析学入門、1938)、それはそのまま Anna Freud に受け継がれた。そのAnna Freud が、抵抗として自我の前にまず退行を提示していることは興味深い。
Freud, A. (1946) The Ego and
the Mechanism of Defense. International Universities Press., New York. (外林大作訳. 自我と防衛. 誠信書房, 1958.
自我心理学の流れの中で、退行の概念に一つの広がりを与えたのが、Ernst Kris のARISE (adaptive regression in the service of ego自我のための適応的な退行)という考え方である。Kris は「自我による自我のための一時的・部分的退行」という概念を提唱した(Kris, 1952)。病的な退行は不随意的、無意識的、非可逆的で自我のコントロールを失った退行であるが,健康な人間の冗談や遊び、睡眠、レクリエーションの際に見られる退行は随意的、前意識的で可逆的な自我のコントロール下の退行であると考えた。この考えは後にSchafer,R. (1954) によって「創造的退行」という概念とともに継承され、以上は米国の自我心理学の退行理論として分類される(小此木)。
このARISEの概念は、良性や悪性の退行を考えるうえでも重要であり、退行が Freud が考えたような病的なものにとどまらないという視点を示したと言える。その後に退行概念の真の価値が、対象関係論において臨床に結び付けられた際に発揮されることとなったのである。
自我心理学の流れの中で、退行の概念に一つの広がりを与えたのが、Ernst Kris のARISE (adaptive regression in the service of ego自我のための適応的な退行)という考え方である。Kris は「自我による自我のための一時的・部分的退行」という概念を提唱した(Kris, 1952)。病的な退行は不随意的、無意識的、非可逆的で自我のコントロールを失った退行であるが,健康な人間の冗談や遊び、睡眠、レクリエーションの際に見られる退行は随意的、前意識的で可逆的な自我のコントロール下の退行であると考えた。この考えは後にSchafer,R. (1954) によって「創造的退行」という概念とともに継承され、以上は米国の自我心理学の退行理論として分類される(小此木)。
このARISEの概念は、良性や悪性の退行を考えるうえでも重要であり、退行が Freud が考えたような病的なものにとどまらないという視点を示したと言える。その後に退行概念の真の価値が、対象関係論において臨床に結び付けられた際に発揮されることとなったのである。
Kris, E. (1952) Psychoanalytic
Explorations in Art. Int. Univ. Press,New York. (馬場禮子訳・芸術の精神分析的研究. 岩崎学術出版社、1976.
2.対象関係論における退行
Winnicott,DW の退行理論
Donald Winnicott の退行の理論は、それを治療の根幹に据えたという点で特筆すべきであろう。彼の理論の骨子は比較的明快である。幼少時にその主体性が発揮されるべき時に親からの侵害を受け、偽りの自己が生じる。この偽りの自己の程度やその社会生活に及ぼす影響により、患者の病理の理解がなされ、それに基づいた治療が行われる。そしてその治療作業においては、退行により侵害が起こった時期までさかのぼることは不可欠であると考えられる。
Winnicott は分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来すると考える。治療において治療者は必然的に何らかの失敗を含むことになるが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現される。その際患者は解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になる。
このように治療と退行とは不可分であるものの、Winnicott は同時に、最初から退行を促すような治療態度を是とはしない。彼は「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(1955)とも述べる。すなわち治療者が意図的に「患者を退行させよう」というのは結局はそれ自体が侵害になってしまうということを示唆しているのだ。
Winnicott は分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来すると考える。治療において治療者は必然的に何らかの失敗を含むことになるが、それ自体が患者の無意識の希望を刺激し、過去の侵襲の状況が転移的に再現される。その際患者は解釈という分析の言語的な介入を利用できないので、抱えるというマネージメントが必要になる。
このように治療と退行とは不可分であるものの、Winnicott は同時に、最初から退行を促すような治療態度を是とはしない。彼は「分析家が患者に退行してほしいと望むべき理由などない。あるとしたら、それは酷く病的な理由である(1955)とも述べる。すなわち治療者が意図的に「患者を退行させよう」というのは結局はそれ自体が侵害になってしまうということを示唆しているのだ。
さらに詳しく見てみよう。Winnicott
の退行の理論は「精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面(1956)に詳しく論じられているが、その中で彼は症例を3つのグループに分けている。第1は、Freud が治療したような神経症グループ、第2のグループは、人格の統合性がようやく成立した段階の人たちである。そして第3のグループとしては、「単一体としての人格が確立される以前ないしそこに至るまでの情緒発達の初期段階を、つまり時空間の統一状態が達成される以前のものを分析が扱わなくてはならないようなすべての患者たち」が該当するという。そしてこの第3のグループの症例については「通常の分析作業を中断し、取り扱い management がそのすべてとならざるを得ない」(p336)とする。退行が十分に促進されることが治療に必要とされるのはこの第3のグループなのだという。
Winnicott, DW. (1956) Through Paediatrics to Psycho-Analysis.
Tavistock Publication, London.(北山修監訳. 1990. 児童分析から精神分析へ. 岩崎学術出版社.)ウィニコット 精神分析的設定内での退行のメタサイコロジカルで臨床的な側面
北山修(監訳)「小児医学から精神分析へ―ウィニコット臨床論文集―」岩崎学術出版社 pp335-357)
このWinnicott の記述に特徴的なのは、退行は病理現象ではなく、むしろ積極的に用いるべきものであり、さらには患者が退行できることを一つの能力として捉えている点である。そしてそれは患者が「初期の失敗の修正の可能性を信じること」であることと言い表される。
Winnicott はさらに二種の退行についても論じている。ひとつは環境の失敗状況への退行であり、その際は個人的な防衛がそこで行われたことを意味し、分析の対象になる。しかし早期のより成功した状況を体験している場合は、個人が後の段階で困難が生じたときに、そのよい前性器期の状況に戻ることになる。そこでは個人の防衛の組織ではなく、依存の記憶、環境の状況に出会うのだという(P341)。そしてFreud が扱い記述した症例は乳児期の最早期に適切に介護された症例なのだとする。
分析作業において「依存への退行」が生じる際に備わるべき条件は以下の通りとされる。
信頼をもたらす設定の提供。
患者の依存への退行。
患者は新しい自己感覚を持つ。
環境の失敗状況の解凍。
早期の環境の失敗に関連した怒り。それが現在において感じられ、表現される。
退行から依存に回帰し、自立に向かって順序正しく前進する。
本能的なニーズや願望が、正真正銘の生気と活力を持って実現可能になる。これが何度も繰り返される。
この解凍ということについては少し説明を要する。ある特定の環境の失敗に対して、個人がその失敗状況を凍結することによって自己を防衛することができるのは、正常で健康なことであるとWinnicott はいう。改められた体験の機会が後日生じるだろう、という無意識的過程がそのことには伴っているという。
この解凍、ないし凍結という表現は、解離性障害の文脈からは特別の意味を有することを付け加えておきたい。つまりそれは過去の外傷記憶は治療における再固定化を減ることで解毒化に向かうという方向性を示唆しているのである(岡野、2014)。
ちなみに筆者にとって興味深いのは、Winnicott はのちに紹介するBalint, 土居と異なり、「愛」について強調していないという点である。愛というそれ自体曖昧な概念の代わりに母親の原初的な没頭や世話、マネージメントなどのタームで治療を論じているのが彼の理論の特徴といえる。
Balint, M の退行概念
Winnicott と同様に退行を治療論の文脈で扱った分析家としては、Balint, M. の名を欠かすことはできない。彼の「治療論から見た退行(中井久夫訳)」に沿って彼の理論を以下に検討したい。
Balint, M. (1968) The Basic
Fault. Tavistock, London. (中井久夫訳. 治療論からみた退行-基底欠損の精神分析. 金剛出版、1978.)
Balint は、Ferenzci,S. の臨床経験についての詳細な考察に基づき、治療状況における退行を両性と悪性に分類する。彼によれば、良性の退行とは、相互信頼的な、気のおけない関係性の成立が不可欠であるという。その退行は心の「新しい始まり new beginning 」を導くものであり、それによる現実への開眼とともに退行は終わる、とする。退行は患者の内的な問題を認識してもらうためのものであり、その際の要求、期待、ニードの強度は中等度である。さらには臨床症状中に重傷ヒステリー兆候はなく、退行状態の転移に性器的オーガスムの要素がない、とされる。
他方悪性の退行では、相互信頼関係の平衡はきわめて危うく、気のおけない、気を回す必要のない雰囲気は何度も壊れ、また壊れるのではないかと恐れるあまり、それに対する予防線や補償として絶望的に相手にまといつくという症状が現れる。悪性の退行は、「新しい始まり」に到達しようとして何度も失敗する。要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険や、嗜癖に類似した状態が発生する危険が絶えず存在する。
この悪性の退行は、外面的行動を他者からしてもらうことによる欲求充足を目的としている。要求、期待、ニードが極めて激しく、「重傷ヒステリー兆候」が存在し、通常の転移にも退行状態の転移にも性器的オーガスムの要素が加わるという。以下
Balint (1968) を参照しつつ論じよう。
Balint がさらに強調するのは、退行の関係論的な側面である。「退行とは単なる内界の現象ではなく対人関係現象でもある」(p.193)。そして Freud およびそれ以後の分析家のほとんど全員が対象関係における退行の役割に目をくれなかったと批判する。そのおそらく唯一の例外は先に見た Winnicott ということになろう。
その Balint の退行理論にあり、Winicott では強調されなかったのは、この悪性の退行の記述である。そしてこれが貴重なのは、臨床家は常にこの悪性の退行を起こしかねないクライエントと直面しているからである。
しかしWinnicott と Balint が示しているのは、患者が持つ治療者へのある種の依存関係が治療にとって大きな意味を持つという視点である。ただしWinnicott が適切な環境が与えられることにより、過去のトラウマ状況に関する記憶の解凍が生じるというやや楽観的な見方を提供するのに対し、Balint はそこには悪性の退行が生じ、そこにはある種の嗜癖状態が生じうるという点を指摘している点は注目すべきである。
ちなみにこの良性の退行、悪性の退行という分類についてBalint は「分析家の技法と振る舞いが万能的であるほど、悪性退行に陥る危険は高まるとする。逆に分析家が患者との間の不平等を減らすほど、分析家が患者にとって押しつけがましくない普通の人に見え、退行が良性になりやすくなるというのだ。(p. 226)要するに治療者の扱いにより、退行は良性にも悪性にもなるという主張である。これは「分析過程での重要な特徴はすべて患者に由来する」というWinnicott の主張と対照的である。この両者の対比は極めて重要な論点をはらんでいる。
この点は後の考察でも扱うが、筆者の基本的な見解は、結局は退行の性質を決めるのは、患者が持つ病理と環境因の双方であると考えざるを得ないということである。ただし比重としてはやはり患者が本来持つ病理におかれるべきであろう。人間は日常的にさまざまな対人関係を体験しているはずであり、そこには退行促進的な対象からの誘惑も含まれよう。Balint の言う万能的な対象に対してそれに誘い込まれることなく、むしろそこに怪しさや危険を感じ取り接近しないことも、重要な対人関係上の能力であり、その一部はおそらく生育環境により育まれていることであろう。その意味ではやはり「患者にすべて由来する」というWinnicott の考えが妥当であろう。
3.わが国における退行の理論
土居健郎の「甘え」理論
わが国における対抗の理論の発展を考える上で触れておかなくてはならないのが、甘えと退行との関連性である。甘え理論の提唱者である土居は、すでに触れた
E.Kris のすでに述べた概念(Kris、1952)に言及し、「精神分析療法自体このような『自我に奉仕する退行』を組織的に一貫して行なうものである、ということができる。」(土居、1961,p.43)と述べている。土居が患者が治療者に健康な甘えを示すことを治療の一環と考えた以上、治療場面における退行はむしろ土居にとっては必然ということになる。
「精神療法と精神分析」(金子書房、1961)において、土居は以下のようにも述べている。少し長いが引用しよう。「 … われわれが物心つき始めた幼児について、彼は甘えているという時、この幼児は甘えられない体験を既に知覚しているので、そのために甘えようとしている、と考えられる。いいかえれば、日本語でいう場合の甘えの現象は、原始的葛藤と不安の存在を暗示していることになる。その葛藤は受身的対象愛が満足されないことによって生起したのであり、そのために意識的にこれを満足させようとする時に、甘えの現象が観察されると考えられるのである。」すなわち患者は甘えという受け身的な対象愛を満たされたかったといういわばトラウマを抱えたままで治療に参入することになる。
この文脈から土居は自らの理論とBalint のそれとの共通点を強調する。土居は Balint について「同じ発想をし」「考えが同一線上にある」(土居、1989、p.112)と認めている。そしてそれは無論
Balint の退行理論にも同様に向けられていると考えていいであろう。(さらにはこの土居の発想は
Winnicott の理論とも深くつながる。現在の英国における Winnicott 研究の第一人者である Abram, J は土居の甘え理論を詳細に読み込んだうえでこの点を強調し、「土居とWinnicott は基本的には全く同じ路線に立っている。土居がむしろ Balint の方に接点を見出したことの方が不思議である。」と論じている(Abram, 2016)。
土居健郎 (1961)精神療法と精神分析」金子書房
土居健郎 (1989)甘えさまざま 弘文堂
松木邦裕の見解
次に松木邦裕の退行に関する論考に触れたい。松木は以前から退行の意義を問い直す論考を発表している(1994,1998,2015)。松木はその2015年の論文で、精神分析の中でも特に退行概念を無視しているのが、英国クライン派であると主張する。ただし Klein, M 自身は妄想-分裂ポジションへの退行、前性器段階の退行、などの考え方をしており、むしろその後継者たちの中には、明らかに退行を論じない立場をとっている人たちも多いという。そしてBion, Wの次の言葉を引用する。「ウィニコットは、患者には退行する必要があるという。クラインは患者を退行させてはならないという。患者は退行すると私は言う」(Bion,1960)。
松木は自らの退行理論を述べるにあたり、Menninger, K. Balint, M, Winnicott, Dの3名の分析家の退行理論をまとめる。そして Balint にとって退行とは「すべてが原初的愛の状態に近づこうとする試み」であり、比較的単純な議論であるとし、むしろ Winnicott の退行理論に意義を見出す。
ちなみに松木が退行についての考察を進めた経緯が書かれているが、興味深い。彼は1994年に「精神分析研究」誌に掲載された「退行について―その批判的討論」がいかに難産だったかを、当時の分析研究の編集委員会の内情などにも触れつつ論じる。彼の論文の最初のタイトル「退行という概念はいまだ精神分析的治療に必要なのだろうか?」が過激すぎて物議をかもしたというのだ。彼は、退行は一者心理学的で、しかも過去志向であるため、幼児帰りした母親の面倒を見る、というニュアンスを生むという。それに比べて転移なら二者心理学的で、未来志向である。そして松木はそのような視点は
Balint にはあまりなく、彼が退行を重視し過ぎたのに比べて、Winnicott は転移の視点を入れている点で評価に値するとする。その上で松木が問いかけるのは、退行の概念が現代の精神分析においてはたして価値を依然として持ちうるのか、という点である。そして退行の概念は転移の概念の中に発展的に吸収される可能性を示唆している。
松本邦裕(1994)退行について一その批判的討論 精神分析研究38:1-11
松本邦裕(1998)分析空間での出会い 人文書院
松木邦裕(2015)精神分析の一語 第8回 退行 精神療法 41;743-753
Bion,W.(1960)Cogitation, Karnac Book, London
4.治療への応用可能性 - 筆者の考え
最後に筆者の考える退行の概念の意義について論じたい。退行の概念は、依然として精神療法に応用されるべき重要な概念であろう。松木(2015)が指摘するとおり、旧来の退行の概念には一者心理学的なニュアンスがあり、二者心理学や関係性の文脈に位置する転移概念とは性質が異なる。そのために退行は発展的に転移の概念に吸収されるべきであるという立場もあろう。すなわち退行も治療関係上に生じた転移の一つの形態として理解しうるものという考えだ。
しかし筆者は転移の理解を必ずしも退行の取り扱いに優先されるべきものとして重んじる必要はないと考える。治療促進的な退行は、そこで転移現象が生じるような場として、まずは醸成されるべきものである。退行が明白な形では生じない治療関係における転移を取り扱うことには臨床的な価値は少ないであろう。
一つの臨床状況を考えてみよう。
しかし筆者は転移の理解を必ずしも退行の取り扱いに優先されるべきものとして重んじる必要はないと考える。治療促進的な退行は、そこで転移現象が生じるような場として、まずは醸成されるべきものである。退行が明白な形では生じない治療関係における転移を取り扱うことには臨床的な価値は少ないであろう。
一つの臨床状況を考えてみよう。
治療者が表情を変えずに黙って話を聞いているので、患者は治療者を怖い父親のように感じたとしよう。治療者はその状況を感じ取り、患者に生じている父親転移について解釈を行うとしよう。
これも立派な転移及びそれに引き続く転移解釈といえるであろうが、治療関係がこのままではどこにも着地点を見いだせないであろう。なぜなら治療のある時点で患者が「実は先生のことを、初めは怖いお父さんと同じように感じていたんですよ。」と心の裡を話せるようになるためには、そのような雰囲気を生むような関係性の成立こそが治療の進展の前提条件となるからである。そしてそのような関係性においては、患者がある種の親しみと安心感を持ち、リラックスできるような状況が生まれていることだろう。問題はそれにふさわしい用語が見つからないことである。そしてそれが過去への回帰では必ずしもないにもかかわらず、あたかもそれを想起するような退行という概念がいまだに有用である理由がそこにある。いわば退行とは象徴的な表現であり、それそのものではない。その意味での退行は土居の文脈では甘えられる関係と呼んでよく、また Balint の分類では、良性の退行に相当するであろう。
またこのように考えると、退行の中には、明白な転移が生じていない場合もありうることになる。そのような安心でき、甘えることの出来る関係を過去に主たる養育者との間でそもそも持てなかった可能性があるからだ。
ところで甘えの見地から退行を考えることは、そこに患者の側の甘えを許容する治療者の側の態度も重要な要素となるという視点を促す。そもそも治療を促進する退行が成立するためには治療者の非防衛的な態度や適度の能動性が要求されることになろう。ある意味では治療者もまた患者に「甘え」られる必要があるのである。そしてそれは長期精神療法がなぜそれだけ時間がかかるのかということに対する回答ともなっている。適切な甘えの関係の醸成には時としては長い時間がかかるのである。
ところで甘えの見地から退行を考えることは、そこに患者の側の甘えを許容する治療者の側の態度も重要な要素となるという視点を促す。そもそも治療を促進する退行が成立するためには治療者の非防衛的な態度や適度の能動性が要求されることになろう。ある意味では治療者もまた患者に「甘え」られる必要があるのである。そしてそれは長期精神療法がなぜそれだけ時間がかかるのかということに対する回答ともなっている。適切な甘えの関係の醸成には時としては長い時間がかかるのである。
以上の議論を踏まえた上で筆者が提案するのは、新しい退行の概念であり、そこには幾つかの条件が満たされなくてはならない。
第一には、これまで何人かの識者が指摘したとおり、退行はあくまでも関係性の中に位置づけられなくてはならないという点である。そしてそこには明白な転移が介在する場合もしない場合もある。
第二に、Balint の良性、悪性の退行は維持されるべきであり、後者に関する彼の「要求や欲求が無限の悪循環に陥る危険や、嗜癖に類似した状態が発生する危険が絶えず存在する」という理解はそのまま継承することが出来よう。
第三には、退行という概念は、必ずしも患者の生育プロセスの早期に遡るということを意味しないということである。退行により至った状態は、実は患者が幼少時に実際には体験したことがない状態でありうる。上述の悪性の退行はおそらく患者が生育プロセスでは体験しなかった関係が特定の治療関係において生起するものと考えられよう。
この退行が生じた状況を思い浮かべることが難しい臨床家にとっては、甘えの概念が役に立つ。良性の退行においては患者の側も治療者の側も互いに甘えの感情を持ち、それを適切な形で表現できるような関係性と形容することが出来る。
ここですでに論じた、Winnicott と Balint の争点、すなわち悪性の退行は治療者のせいで起きるのか、それとも患者に内在する傾向なのか、という点に立ち戻りたい。基本的には、悪性の退行は、治療関係があいまって生じることが考えられる。場合によっては治療者がごく常識的な対応をしていても悪性の退行が生じることもある。しかしその場合その悪性の退行を放置する治療者には何らかの逆転移、ないしは知識不足の要素がなくてはならないであろう。結論から言えば、その基本部分は患者の側に依拠するというのが筆者の主張である。悪性の抵抗は患者の持つこの嗜癖傾向あるいはボーダーライン心性と深い関連があろう。「他人が去ることへの死に物狂いの抵抗」というDSMの診断基準が示す通り、依存がそこからの「新しい出発」に結びつかないという例が、見受けられる。今後悪性の退行を嗜癖の観点から、力動学的、および生物学的にとらえなおす必要があろう。