2016年6月18日土曜日

快楽原則 ①

●「快感原則」の嘘

本書(????)にはどうしてもこの章が必要なのだ。しかし前書「脳から見える心」ですでにこの問題について書いてあるのだ。そこでまず何を書いたか振り返ろう。
「第15章 報酬系という宿命 その2 「快の錬金術」
相変わらず大仰な題だ。
しかし読み直してみると・・・・・われながら感心した。よくもここまで考えていたものである。読み返しても最初は自分でも何を言っているのかよくわからなかった。作者も分からないのであるから、読者はもっと困ったことだろう。そこで一生懸命サマライズしたい。

快楽原則と不快原則

人は「究極的に快感中枢の刺激を求めている」というテーマについて論じた。人は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。それは私たちにとって一種の宿命なのだ。そしてありがたいことに、脳の中でここが活動すれば快感が得られる、という場所がわかっている。それが脳の深部にある報酬系という場所であった。そこを電気刺激すると、スイッチが入ったみたいに心地よさを感じるのである。もちろん何が人の報酬系を刺激するかということが、実はきわめて込み入っているのは当然である。
 人は自らの報酬系を刺激するものを求めて動くという原則を「快感原則」と呼ぶ。精神分析のフロイトが論じた快感原則も同様の趣旨だ。これが人の心や体を動かす大原則、というわけである。フロイトは正しかったのだ・・・・・・。
 ただし少し考えたら、この原則にはいろいろ分からないところがあることに気がつく。たとえば私たちは「苦痛を回避する」という原則も成り立たないであろうか? 確かに。そこで「快感原則」を考えるなら、「不快原則」も必要ということになる。何しろ私たちは人生では快だけでなく、不快も体験するからだ。
「不快原則」:「人(動物)は自らに不快を与えるものを回避する。」とでもしておこう。

それともうひとつ。遠くにオアシスを見つけたときのように、まだ今現在は喉の渇きを癒していないにもかかわらず、人は喜ぶ。それも「快感中枢の刺激」と考えていいのであろうか? おそらく。ということは快感中枢は、現在直接的に味わっている快と、将来味わうであろう快の二種類の快を味わい分けでいることだろうか?
報酬系におけるドーパミン系のニューロンの興奮の仕組みは、これらの事情をある程度は説明してくれる。ドーパミンニューロンの興奮には二つのパターンがある。一つはトーン信号、もう一つはバースト信号である。バースト信号は、短時間で一気に見られ、実際に水を目の前にした時も、砂漠の先にオアシスがあることを知った時も、あるいは水を飲むことを想像しても、その瞬間に一時的に生じる。このようにバースト信号による報酬系の示す反応は、そこに実際の快だけではなく、快の予想に関して反応する仕組みがあることを教えてくれる。リアルな想像によりバースト信号を生じさせ、いわば快感の「味見」をさせてもらえるということが、これを実際に獲得したい!という気持ちにさせるのだ。他方のトーン信号はジワーッと持続的な快感を与えてくれる。こちらのほうが快感としては本物と言えるだろう。
 前書では、私はここでわかりやすい例を挙げた。
ユーチューブに掲載された犬の「お預け」のシーンである。20匹ほどの犬が、自分たちの前にある複数の餌の入ったボールを前にして、ムチを持った飼い主の合図を待っている。ある犬はすでによだれをダラダラ流している。大抵の犬は居ても立っても居られない様子でジタバタしながら、でも決してボールに口を近づけようとはしない。もしそんなことをしたら、飼い主のムチが飛んでくることをよく知っているからだ。(もちろん年月をかけてそのように調教してあるのである。)そして犬たちは、飼い主の合図により一斉に餌のボールに突進する。これを一匹の犬ではなく、20匹以上の犬が行うから壮観である。人間ではなく、動物が見せる快の遅延の例なのだ。
 ここで犬たちの快感中枢で起きていることを考えてみよう。目の前に餌の入ったボールを出された時点で、快感を査定すべく想像力が働くが、その際はドーパミン作動性のニューロンのバースト信号が生じる。「やった、これから餌だ!」という感激である。これはすでに見たとおりだ。しかしこのバーストはすぐ止む。そして実際のエサは口の中に入り込んでは来ないからトーン信号も低いままだ。そして同時に不快原則も働いている。お預けに反してえさに飛びついたら、飼い主にムチ打たれることを犬たちは良く知っている。それを想像した「イタい、コワい!」感もあるだろう。両者を比べて後者の方が凌駕しているから犬は「お預け」を選択するのだろう。もし逆の関係なら、ムチが身体に食い込み、皮膚を引き裂く苦痛に耐えながらも餌に食らいつくことになるのだ。ということは犬の脳内には、そして同様の状況に置かれた人間の脳内においては、快感原則と不快原則が常に競合し、最終的に勝ったほうを選んで行動を決めていることになる。そこでそれを「現実的な路線を選ぶ」という意味で「現実原則」と呼ぶなら、それを以下のような式に表現することが出来るだろう。
「快感原則」+「不快原則」=「現実原則」


本能的、常同的、無意識的な活動について

以上、人や動物の行動を「快感原則」と「不快原則」の両方に支配されたものとして描いた。しかしこれらの二原則がある程度うまく働くためには、その生物がある程度以上に高等である必要があるという事情もご理解いただけるだろう。なぜなら両「原則」とも実際には体験されていない快感や不快を査定ないし検出するために、それ相当の想像力を必要とするからである。下等動物ではこうは行かない。

1章「報酬系という宿命 その1」で出したヒメマスなどは、産卵の後、一生懸命ひれをパタパタさせて卵に新鮮な水を送る。でも彼らは自動的に、無意識的に、常同的にひれのパタパタを続けるだけだ。それはすでに一つの回路として脳の中にプログラムされている本能の一部というわけだ。生物が高等になるにつれて、本能による行動の間に出来た隙間を、自由意思による主体的な行動が埋めることになる。しかし、だからといって本能に従った行動が快、不快と無関係というわけでもない。それ自身がおそらく緩やかな快を伴っていることも想像できる。ひれをパタパタして卵に水を送るヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。本能に従った行動それ自身が緩やかな快を伴うのは、その本能的な行動が中止されないための仕組みと考えられる。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うためにそれ自身が大きな不快ともなりかねない。だからこそ当然強烈な快に裏打ちされていなくては閾値を超えられない。またメスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。そしてこれらの事情は私たち人間にとっても変わらない。食行動、生殖行動など、明らかに本能に深く根ざしている行動には強い快感が伴う。また無意識的に行っている、いわばルーチンとなった行動についても、穏やかな快感くらいは伴っていることが多い。例えば人は決まった通勤路を歩いている時には、その行為について意識化していないことが多いが、おそらくはある種のゆるやかな快を伴っているからそれが続けられるのだろう。だから風邪などをひいて体調を崩しているときには、いつもは何ら苦痛に感じられない通勤もすぐに不快に転じてしまうので、少し歩いてはみても、結局はタクシーを呼んだり、道に座り込んでしまいたくなったりするはずである。