2016年6月16日木曜日

装置 ⑤

さてここまででCエレ君のチップの中身は分かった。しかしまったく置き去りにしているのが、Cエレ君の感情体験である。たとえばCエレ君が紺色マットに遭遇して、大量の電気を貪っている時、どこかに「快感」を感じる必要はあるのだろうか? あるいは高温マットに焼かれるときの痛みは? そして高い力価を持った充電マットを視野の中に感知した時の「やった!」感は?近くに恐ろしげな高温マットを感知した時の背中のゾクゾク感は? Cエレ君はそれらの感情を持つ必然性はあるのであろうか? これは報酬系について探求を行っている私たち(私、だけか?)にとって極めて本質的な問題なのだ。
ここで電源マットに遭遇した瞬間にCエレのチップ内で起きることをもう一度見てみよう。そのマットが意外に蓄電量が多く、Cエレ君はコーフンする。先ほどその存在に気が付いたときに査定した力価+2は、実質は+3だったことがわかった。そこでネットワークが改編されて、次回それが検出された時、それに向かってさらに力強い尻尾のひと振りが生じるだろう。ということは喜びとは結局「尻尾のさらなる一振りを引き起こす体験」と単純化できないだろうか? 
言い直そう。電源マットから充電されている最中の喜びとは、結局後にその電源マットが遠くに検出された時に、そちらに向かって尾のもうひと振りを起こすような体験。もし現在電源マットをむさぼっている最中なら尻尾は振られてはならないだろう。今は大事な時間だし、その場を動くわけにはいかない。すると将来の充電を予測した場合との違いは尻尾の一振りが今生じるかどうか、ということだけ。
こんどは不快のことを考えよう。今高温マットに焼かれているかわいそうなCエレ君を想像しよう。彼は尻尾の反対方向への一振りは、今起こさなくてはならない。このままとどまっていると焼き殺されてしまう。そしてもしそれを遠くから察知した場合も、力価-3くらいを検出してやはり反対方向に力強い尻尾のひと振りが生じるだろう。すると電源を貪っている瞬間、焼かれている瞬間の決定的な違いがあることがわかる。前者はそこにそのまま留まる。(きっと恍惚とした表情を浮かべている、などど外部からは想像されるだろう。アヘンの巣窟でアヘンを吸っている人は恍惚としてみしろぎ一つしないそうだ。)この種の「静的な」快感とはそこを離れないように、と動きを止めるのである。それに比べて後者はそこから逃げ出す。そこに決定的な違いがあるのだ。しかしここに感情の存在を必然と考えるべきだろうか?
 結論から言おう。快感とはその場を動かずにその体験を維持しようとする動きを促す。(それも動きだ。抑制系の運動が常に起きていることになる。)その快感の源が察知された時にはそこへの志向性(そちらに向かっての尻尾のひと振り)を促す。不快とは、それを回避し、その源が察知されたときは、そこからの逃避傾向(逆方向の尻尾のひと振り)を生み出すような体験。以上、終わり。快感、苦痛は幻であり、主観的体験であり、実体はない。
 おかしいだろうか?この痛みや心地よさが幻だなんて。しかしこれはようするに「クオリア問題」なので、結論が出せないことはもうわかっている。
(というかクオリア論争には容易に結論が出せないことを大多数の人が認識している。) 快、苦痛とは実はそういうものである。「夕日の赤い色」の、あの「赤い」体験と、結局は一緒に論じざるを得ないのだ。
 それは脳内のネットワークの興奮のある種のパターンである。でもそれ以上でも以下でもないのだ。