2016年5月19日木曜日

射幸心 ④

射幸心とマゾヒズム

 以上の射幸心に関する話が即座に自虐性(マゾキズム)の問題に結びつくことについては特に説明はいらないだろう。射幸心に駆られて賭け事にはまり、身を持ち崩す人が、「自分を傷つけている」という感覚はないかも知れない。しかしある意味ではこれほど明らかな自虐的行為もないのである。
 興味深いことに、ギャンブル依存の人と正常な人で、大当たりをした人の報酬系の興奮に差はないという。問題は負けた場合、あるいはニアミスの場合だ。負けることで余計熱くなり、さらに賭け事を続けようとするのだから、自ら自己破産のプロセスに身を投げ出しているようなものである。
しかしよく考えてみよう。射幸心的なメンタリティーは決して異常ではなく、私たちは日常的に出会っているのではないか? 「101回目のプロポーズ」というドラマがあったが、主人公は実は断られることに快感を覚えていたのではないか?そしてこれはまた恋愛妄想に近い心理をも説明する可能性がある。つまり断られ、拒絶されればされるほど燃え上がる人々がいて、それはあなたかもしれないのだ。あるいはもう少し広げれば、マゾキズムの問題とも関係しているのではないか?
 この問題は人間の行動も、それを理解しようとする心理学をも一気に複雑かつ不可解にする可能性がある。私たちは通常は人間を功利主義的な存在と考える。常により大きな快を求め、同時に苦痛を回避する傾向にあると考えるのだ。そして大抵はそれにしたがって生きている。ところがふとしたことから喪失、拒絶、失敗の体験に興奮が伴う。ここでも「快感」とは敢えて言わない。でもそれを繰り返したくなってしまうのである。
  
期待することそのものが快感なのか?

今までの議論は、負けることが興奮を生む、という話だ。ここから先は少し違う。人は結果を期待して待っている時、それ自身が快感だという研究がある。これは負けることでコーフンする、という若干倒錯的なニュアンスのあるギャンブラーの話とは違う。期待しているときの快感は、いわば万人に共通なのである。そしてそれが私たちの人生の喜びのかなりの部分を占めているかもしれない。将来きっといいことがあるかもしれない、と思っているだけで快感だから、私たちは人生に容易に絶望することなく、生かされているというのが、私たちの人生の真実なのかもしれないのだ。

あまり話を大きくせずに、ギャンブルの話に限定しよう。ギャンブルにはひとつ注目すべき点がある。それは彼らが「遊ぶ」という感覚、楽しむという感覚を持つことだ。
1000円札を捨てるつもりでパチンコ屋に入る。十中八九、15分後にあなたはそのお金をお店に丸ごと献上して店を出てくる。でもあなたは不幸ではない。15分の間にあなたは1000円を失い、その代わりに自分を高めたわけでも、より健康になったわけでも、より知識を身に着けたわけでもない。でもきっと思うだろう。「15分遊んだんだから、1000円は安いものだ。」でもあなたはその15分の間、期待をしていた。1000円を元手にひと稼ぎすることを、である。もしそのパチンコ台が絶対に勝てない台であるということを知っていたらあなたは絶対にその時間を楽しめなかっただろう。しかし勝つという可能性がゼロではない以上、結果を待っている時間はそれだけでも楽しいものとなる。客は喜んでお金を落とす。ギャンブルはなんとうまくできた仕組みだろう。