2016年5月13日金曜日

トラウマ治療として共通因子を探る (3)

2.最近の精神分析におけるトラウマ事情

さてそのような精神分析の伝統も、大きく変わろうとしています。それについては私は最近ある論文を書いたので、それを参照していただきたいと思います。しかしそのエッセンスを述べるならば、以下のとおりになります。

精神分析におけるトラウマ理論

現代の精神分析において「トラウマ」が一つのキーワードとなりつつあることは、ある意味では時代の必然といえる。フロイト以後に様々な学派により、養育上の欠損やトラウマを病因として重んじる、いわゆる「欠損モデル」が提唱されたが、Freud の立場はそれとは理念上一線を画していたと言える。
Kernberg は米国で1970年、80年代に境界性パーソナリティ障害についての理論を展開したが、その彼が同障害の病因として論じていたのが、クライン派の考えに沿った患者の生まれつきの羨望や攻撃性であった。しかしその後1995年には、トラウマを取り入れる意見を述べている。
ところでよく知られることだが、Freud は精神分析理論を構築する前の段階では、トラウマの問題に深く関心を寄せていた。1893年の「『ヒステリー研究』に関連する3篇」(Freud, 1893)で、Freud はトラウマを以下のように定義している。
神経系にとって、連想を用いた思考作業によっても運動性の反応によっても除去することが困難な印象はすべて、心的外傷になるのである。(全集1., p307
Freud 1896年には、扱ったヒステリーの18例すべてに性的なトラウマが聴取されたという報告を行った。これが後に「誘惑仮説」と呼ばれるようになったものである。しかし1897年の921日に、突然同じく Fliess あての書簡で、この「仮説」が Freud  自身により棄却されたのであった。しかしそれらの研究が一様に強調するのは、Freud の「翻意」は自らの見解を180度切り替えたものだったわけではなく、むしろ「すべてのヒステリー患者が現実に性的なトラウマを負っていたというわけではない」という、より穏当な見解への方向転換を意味していたということである。

(以下省略。誰も読んでいない。)

さて以上のことが伝えるのはどのようなことでしょうか?それは最近の精神分析理論において、一種の理論的な変革が生じ、より実際の外傷を扱う素地が生まれたということです。カンバーグの方針転換が示すとおり、分析家の側では、実際のトラウマに焦点を当てていなかったということへの反省が生まれています。ということは精神分析の側でも、古典的な立場を変え、より「トラウマ仕様」に変わって行く必要があるでしょう。そこで結果的に必要となるのが、統合モデルというわけです。そこで必要なものは何かについて、以下の諸点を提案いたします。
1点は、トラウマに対する中立性を示すことです。これは決して「あなたにも原因があった」、「向こう(加害者側)にも言い分がある」、ではなく、「何がトラウマを引き起こした可能性があるのか」、「今後それを防ぐために何が出来るか」、について率直に話し合うということです。
2点は愛着の問題の重視、それにしたがってより関係性を重視した治療を目指すということです。フロイトが誘惑説の放棄と同時に知ったのは、トラウマの原因は、性的虐待だけではなく、実に様々なものがある、ということでした。その中でもとりわけ注目するべきなのは、幼少時に起きた、時には不可避的なトラウマ、加害者不在のトラウマの存在です。私が日常的に感じるのは、いかに幼小児に「自分は望まれてこの世に生まれたのではなかった」というメッセージを受けることがトラウマにつながるかということです。しかしこれはあからさまな児童虐待以外の状況でも生じる一種のミスコミュニケーションであり、母子間のミスマッチである可能性があります。そこにはもちろん親の側の加害性だけではなく、子供の側の敏感さや脆弱性も考えに入れなくてはならない状況です。
3点目は、解離症状を積極的に扱うという姿勢です。これに関しては、先ほどの論文の要約でもあげたとおり、最近になって、精神分析の中でも見られる傾向ですが、フロイトが解離に対して懐疑的な姿勢を取ったこともあり、なかなか一般の理解を得られないのも事実です。解離を扱う際の一つの指針として挙げられるのは、患者の症状や主張の中にその背後の意味を読むという姿勢を、以前よりは控えることと言えるかもしれません。抑圧モデルでは、患者の表現するもの、夢、連想、ファンタジーなどについて、それが抑圧し、防衛している内容を考える方針を促します。しかし解離モデルでは、たまたま表れている心的内容は、それまで自我に十分統合されることなく隔離されていたものであり、それも平等に、そのままの形で受け入れることが要求されると言っていいでしょう。

さて以上の論点は、共通因子とどういう関係を持つのでしょうか。それは結論から言えば、治療関係の重視であり、そこではテクニックにもまして治療者の倫理性を重んじるという立場です。
ちなみに私は「汎用性のある精神療法」という論文を最近書いたことがありますが(精神療法増刊第2号―現代の病態に対する<私の>精神療法– 牛島 定信 (編集), 精神療法編集部 (編集) 2015/6/11)その要旨は以下のようなものでした。

「汎用性のある精神療法」や関係精神分析は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するものという特徴がある。それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の最大の利益の保全にかかっているとすれば、「汎用性のある精神療法」はその時々の患者の状況により適宜必要なものを提供するからである。結論としては、少なくとも精神分析的な「基本原則」に関しては、それを相対化したものを今後とも考え直す必要があるが、「汎用性のある精神療法」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が期待されるのである。それは実は現代的な精神分析理論の中でも関係精神分析という学派によりかなり体現されているというのが私の考えである。