2016年5月1日日曜日

嘘 2 ⑦

もう少し説明しよう。右脳は快不快に従った行動、Cエレガンス的な行動(いきなり出てきたな!今後使わせていただく。快不快原則に従う脳、という意味である。ちょうど線虫Cエレガンスがそうであるように)をつかさどる。私が前書(「脳科学と心の臨床」岩崎学術出版社)で論じたように、右脳は「気まぐれなイノベーター」でその時その時に欲した方向に行く。左脳は「論理的に疑い、理由付けをする」脳である。おそらく両方の傾向は常に私たちの心の中で綱引きをしている。ちょうどステレオサウンドを聞くように、脳では両方の傾向が妥協点を見出すのである。もちろん実際に人間の心がそのような動きを見せているかはわからない。しかし分離脳の実験はそのような仮説を抱かせるのである。
このことを嘘や自己欺瞞の問題に結びつけよう。嘘は自分が虚偽を真実に見せかけつつ、そのことを知っている。右脳に発したCエレガンス的な意図を左脳が捻じ曲げたということを、脳全体としては知っているのだ。そして知っているからこそ、嘘をつき続けることが出来る。少なくとも「弱い嘘」については、脳が左右に分かれてて情報を発し、その後に統合するという仕組み上、ほぼ自然に起きる現象といえるだろう。
そこでひとつの問いをここに導入しよう。もし、心が嘘をついているということについて曖昧であったらどうなるのか?少し比喩的な言い方をお許しいただきたいのだが、その人が自分に嘘をついていて、自分は嘘をついていない、とただ言い聞かせているならばどういうことが起きるのだろうか?そう、これが自己欺瞞の問題である。自己欺瞞、という言葉からわかるとおり、自分で自分を欺いている状態なのである。
自分で自分に嘘をつく、ということはどういう状態だろうか?「軽い嘘」のことを思い出そう。魚を釣りに赴き、実際は4尾釣ったのに、6尾だという、あれだ。「軽い」なりに嘘だから、本人は「本当は4尾」だということを知っている。だから「あなたと一緒に釣りをした人に聞いたが、あなたは4尾しか釣れなかったと言ってましたよ」などといわれると、すぐにシドロモドロニなり、嘘がバレてしまう。その危険を十分に自覚しているのだ。
 ところがここに、4尾を釣ったのに6尾釣ったということを半ば信じてしまう人が登場する。彼は不思議なことに、嘘をついたという自覚がない。彼は頭の中で4尾をさっと6尾に置き換えて、平気なのである。彼は自分自身に嘘をついてしまう。もし証言者がいて4尾しか釣れなかったのを見た、と言われると、彼はきっとこう言うのである。「その人が嘘をついているのだ。」あるいは証拠写真を見せられたら、こういうのである。「その証拠写真は細工がしてある。コラージュだ。」

実は自己欺瞞の話のつかみとして、分離脳の話を出したのにはわけがある。分離脳の状態では、通常は左脳は本気で「飲み物をとりにいこうとしている」と信じていることが知られている。分離脳は自己欺瞞脳でもあるのだ。ということは、自己欺瞞的な人とは、自分の右脳部分、Cエレガンス的な、快不快原則に従う脳の声を、あたかもそこから切り離された部分からの声のように、無視するのである。