実は前書(「脳から見える心」(岩崎学術出版社、2014年)には隠れた意図があった。どさくさにまぎれて報酬系の話を始めることだった。私自身は報酬系の話だけは「売れない」ことがわかっている。すばらしいトピックではあるが、その重要性は認識されていない。だから「脳と心についての話をしますよ!」といくつかの興味深いテーマについて書いて、最後にこの報酬系の項目を擦り込ませたのである!それが「第Ⅲ部 快と不快の脳科学」であった。私には悪癖があり、前書いたことを読むのがハズカシく、きれいさっぱり忘れたがるのだが、そうも言っていられない。比較的売れた(らしい)この本にあやかって、ここからのスピンオフ、という形をとるのが通常の手法である。そこでどこが使えるのかを呼んでみる。
第1章 報酬系という宿命 その1
どうして報酬系なのか?
本書の最初の章は報酬系についてである。なぜ脳科学について論じる際に、最初に報酬系の話が出てくるのか?それは報酬系ほど私たちの心のあり方を規定し、しかもそれをそうと気づかれないものもないからである。私は精神分析家であり、精神分析では人の心の無意識部分に大きな関心を寄せるが、その無意識といえば膨大でつかみどころがない。しかし報酬系はちがう。それは脳の特定の位置に存在しており、その性質もかなりわかっている。そして私たちはおのおのが脳に持っている報酬系が「イエス!」とゴーサインを出さないような行動を選ぶことはない、というのは確かなことだからである。
ここら辺、なかなかいいじゃないか。
脳の中心部に、VTA(腹側被蓋野)とNucleus Accumbens (側坐核)が示されているだろう。この両方を結んでいるドーパミン作動性の経路が報酬系と呼ばれるものだ。ドーバミン作動性、とはドーパミンという物質を介して信号が伝えられる神経という意味だ。人は、というよりは動物はこの報酬系が刺激されるような行動をとるようになっている。報酬系とは結局「心地よい」という感覚を生むための装置、ということになる。
この快感中枢の発見は、1954年にオールズとミルナーにより行われたが、それは大きなセンセーションを巻き起こしたのである。
ここら辺も使えそうだぞ。
ここら辺は読んでいて理屈っぽく、説得力がない。だからボツ。自分が書いたものだからこうやってバッサリ手厳しく批判することもできる。
報酬系と想像力
報酬系が「イエス」と答えを出す行動を私たちは選択する。これ自体は単純明快なことかもしれない。しかし報酬系にどうしてそのような機能が備わっているのかという問題は、決して単純ではない。
次のような問題について考えよう。報酬系はどうして、将来味わう快を知ることができるのだろうか?今現在はそれを味わっていないのに。そしてその将来の快を求めてどうして今の苦痛を克服することが出来るのだろう?例えば砂漠の向こうにオアシスがある時、私たちはどうやって炎天下の道を歩くという目の前の苦痛に打ち勝つことが出来るのか?
このような疑問がどうして意味があるのかがピンとこない人には、次のように考えていただきたい。これまで私は報酬系を一種のスイッチのようなものとして描いてきた。脳の中心部近くに中脳被蓋野という部位から側坐核にまで至る神経の経路があり、そこが刺激されて快感が生じると「イエス、そうすべし」という答えを出すという仕組みがある、と説明した。しかしこのような装置は必ずしも将来の報酬を得るための行動を動機づけしてはくれないことになる。砂漠を歩く男は、まだ実際に水にありついてはいない。実際の快感はまだ得られていないのに、どうして報酬系のスイッチが入るのか?目の前には延々と熱砂漠が続いているだけだ。報酬系が今現在、「そうすべし」と命じているのは、実は炎天下を歩いていくという苦痛に満ちた行為なのである。
次のような問題について考えよう。報酬系はどうして、将来味わう快を知ることができるのだろうか?今現在はそれを味わっていないのに。そしてその将来の快を求めてどうして今の苦痛を克服することが出来るのだろう?例えば砂漠の向こうにオアシスがある時、私たちはどうやって炎天下の道を歩くという目の前の苦痛に打ち勝つことが出来るのか?
このような疑問がどうして意味があるのかがピンとこない人には、次のように考えていただきたい。これまで私は報酬系を一種のスイッチのようなものとして描いてきた。脳の中心部近くに中脳被蓋野という部位から側坐核にまで至る神経の経路があり、そこが刺激されて快感が生じると「イエス、そうすべし」という答えを出すという仕組みがある、と説明した。しかしこのような装置は必ずしも将来の報酬を得るための行動を動機づけしてはくれないことになる。砂漠を歩く男は、まだ実際に水にありついてはいない。実際の快感はまだ得られていないのに、どうして報酬系のスイッチが入るのか?目の前には延々と熱砂漠が続いているだけだ。報酬系が今現在、「そうすべし」と命じているのは、実は炎天下を歩いていくという苦痛に満ちた行為なのである。
なんだ、すでに書いているではないか。
ここら辺はいいか。