2016年3月13日日曜日

報酬系②


実は前書(「脳から見える心」(岩崎学術出版社、2014年)には隠れた意図があった。どさくさにまぎれて報酬系の話を始めることだった。私自身は報酬系の話だけは「売れない」ことがわかっている。すばらしいトピックではあるが、その重要性は認識されていない。だから「脳と心についての話をしますよ!」といくつかの興味深いテーマについて書いて、最後にこの報酬系の項目を擦り込ませたのである!それが「第Ⅲ部 快と不快の脳科学」であった。私には悪癖があり、前書いたことを読むのがハズカシく、きれいさっぱり忘れたがるのだが、そうも言っていられない。比較的売れた(らしい)この本にあやかって、ここからのスピンオフ、という形をとるのが通常の手法である。そこでどこが使えるのかを呼んでみる。
1章 報酬系という宿命 その1
どうして報酬系なのか?
本書の最初の章は報酬系についてである。なぜ脳科学について論じる際に、最初に報酬系の話が出てくるのか?それは報酬系ほど私たちの心のあり方を規定し、しかもそれをそうと気づかれないものもないからである。私は精神分析家であり、精神分析では人の心の無意識部分に大きな関心を寄せるが、その無意識といえば膨大でつかみどころがない。しかし報酬系はちがう。それは脳の特定の位置に存在しており、その性質もかなりわかっている。そして私たちはおのおのが脳に持っている報酬系が「イエス!」とゴーサインを出さないような行動を選ぶことはない、というのは確かなことだからである。
ここら辺、なかなかいいじゃないか。

 ただし報酬系が何に「イエス!」という回答を与えるかは、人それぞれに違い、また同じ人でもその時々で異なる。そして報酬系はゴーサインを出すためにかなり多くの条件を要求してくるのだ。たとえば今朝あなたは家を出る際に着るものを選んだ際、「これだ」と思うものに決めるまでに意外と時間がかかったのではないだろうか?あるいは「これでいい」という髪型に決めるのにも時間がかかることがあるだろう。(事情あって髪形を決めることが出来ない男性の方には失礼!)そして時間がかかったという事は、あなたの報酬系がそれだけ細かい条件を出してきたことを意味するのだ。あるいはレストランでメニューを前にして、目に留まったものを即座に注文する人などいないだろう。たいていはしっかり報酬系と相談しながらおもむろにドリンクなどからオーダーをするはずだ。
 さて報酬系とは脳のどこにあるのか。ここでそのありかを紹介しよう
脳の中心部に、VTA(腹側被蓋野)とNucleus Accumbens (側坐核)が示されているだろう。この両方を結んでいるドーパミン作動性の経路が報酬系と呼ばれるものだ。ドーバミン作動性、とはドーパミンという物質を介して信号が伝えられる神経という意味だ。人は、というよりは動物はこの報酬系が刺激されるような行動をとるようになっている。報酬系とは結局「心地よい」という感覚を生むための装置、ということになる。
この快感中枢の発見は、1954年にオールズとミルナーにより行われたが、それは大きなセンセーションを巻き起こしたのである。
ここら辺も使えそうだぞ。
自分の心がわからない理由
さて報酬系がいったんあることがらに「イエス」とゴーサインを出したとしよう。あなたはそれに従って服を選び、髪形を決め、あるいは食べ物を注文する。それが「なぜ」報酬系により選ばれたかをわかることとは別の話である。というよりは報酬系が何を、なぜ「イエス」と判断するかは、実は本人にもわからないのが普通なのである。
 たとえば あなたは夏になると好んでアイスキャンデーの「すいかバー」を食べるとしよう。そのあなたが「どうしてすいかバーなんですか?」とたずねられたとする。あなたはちょっと考えてから「あの種のチョコレートのプチプチが美味しいんです」と答えるかもしれない。でもあなたは「あの種のプチプチが気持ち悪いから、すいかバーは苦手です」という人を説得することは決して出来ないだろう。しかも「種のプチプチが好き」というのは、あなたがすいかバーを食べる理由のほんの一つに過ぎないであろう。理由を数えだしたらいくらでもあるだろうし、それらの理由があるという理論的な帰結を導いたうえですいかバーを食べるというわけではない。すいかバーを食べているイメージを脳に思い浮かべ、あとはあなたの報酬系が「イエス」と判断してくれる、というそれだけのことなのだ。
 報酬系の働きは、すいかバーを食べるかどうか、という比較的単純な例以外にも、もっと複雑で継続性のある行動についても同じように働く。あるテレビ番組で、山登りの趣味を持つ人々にインタビューをしていた。
 「あなたはどうして山に登るんですか?
 人々の最初の反応は当惑の表情である。そしてようやく口を開いて「そうですね・・・。なんとなく。」とか「自分でもわからないんですが頂上に立った時の一種の達成感ですね。」あるいは「山登りは私の人生そのものなんです。」と、あまり要領が得なかったり、質問とは少し方向のずれた答えが返ってくるのが普通だろう。
 スイカバーの例にしても、山登りにしても、人は質問に答えようとして無理に理屈をつける傾向にある。本当は報酬系が勝手に、無意識的に判断を下しているだけなのだ。しかし人は報酬系に従って動いているということをしばしば隠したくなる。「~するのが気持ちいいから」という理由はしばしば非倫理的に聞こえたり、非合理的だと判断されたりする。だからもっともらしい理屈をつけるのだ。
 ところでよく「人は感情の動物である」という表現が聞かれる。人の言動は理屈では説明がつかない、というわけだ。しかしこれもよくよく考えるとあまりいただけない表現である。「どうして山に登るのか?」とは感情の問題である、というのはあまりピンとこない。もちろん行動の選択に、感情が大きくからんでいることはある。山に登ることを想像しただけでワクワクしたり、逆にうんざりしたり、という反応があれば、それはその行動を選択するかどうかに大きな影響を及ぼすだろう。しかし時には私たちはその種の感情的な反応なしに行動に移ってしまうことも少なくない。報酬系が自動的に仕分けをしてしまう。むしろそうすることを想像することが自分の報酬系を刺激するからだ、という方がよほど現実に近い。


ここら辺は読んでいて理屈っぽく、説得力がない。だからボツ。自分が書いたものだからこうやってバッサリ手厳しく批判することもできる。

報酬系と想像力
報酬系が「イエス」と答えを出す行動を私たちは選択する。これ自体は単純明快なことかもしれない。しかし報酬系にどうしてそのような機能が備わっているのかという問題は、決して単純ではない。
 次のような問題について考えよう。報酬系はどうして、将来味わう快を知ることができるのだろうか?今現在はそれを味わっていないのに。そしてその将来の快を求めてどうして今の苦痛を克服することが出来るのだろう?例えば砂漠の向こうにオアシスがある時、私たちはどうやって炎天下の道を歩くという目の前の苦痛に打ち勝つことが出来るのか?
 このような疑問がどうして意味があるのかがピンとこない人には、次のように考えていただきたい。これまで私は報酬系を一種のスイッチのようなものとして描いてきた。脳の中心部近くに中脳被蓋野という部位から側坐核にまで至る神経の経路があり、そこが刺激されて快感が生じると「イエス、そうすべし」という答えを出すという仕組みがある、と説明した。しかしこのような装置は必ずしも将来の報酬を得るための行動を動機づけしてはくれないことになる。砂漠を歩く男は、まだ実際に水にありついてはいない。実際の快感はまだ得られていないのに、どうして報酬系のスイッチが入るのか?目の前には延々と熱砂漠が続いているだけだ。報酬系が今現在、「そうすべし」と命じているのは、実は炎天下を歩いていくという苦痛に満ちた行為なのである。

なんだ、すでに書いているではないか。

この思考実験からご理解いただけると思うが、人間や動物の行動を説明するためには、実はこのスイッチオン、オフ式の単純な報酬系のモデルだけでは全然足りないことになる。そこでむしろ問題になるのは、実際の快ではなく、想像の中で先取りされた快感なのだ。報酬系は、実際の快だけではなく、将来の快を「査定」し、味見する能力を持つ。その快の値が大きいものと予想されると、それを将来得るために現在の苦痛を選択するように命令するような機能を、報酬系は備えているのである。そしてそこに絶対に必要になるのが想像力である。炎天下を何時間も歩いた末に手に入る水を、どこまで生々しく想像できるか。目の前のコップに注がれた冷たい水なら、飲む前から飲んだ気分を想像できるだろう。あるいは想像しようという努力すら必要ないかもしれない。しかし目標が将来に遠ざかれば遠ざかるほど、私たちは想像力をたくましくしなくては、自らの報酬系を刺激することはできないのである。
 ただし報酬系はある抜け道を持っている。それは本能的、ないし反射的な行動である。生命の維持、ないしは生殖活動に必要な一定の行動パターンが遺伝子に組み込まれている場合、報酬系はそれ自体を遂行することがたとえ苦痛を伴っても、同時に快を感じさせるはずである。あるいはその行動を止めることに著しい苦痛が伴うという仕組みなのかもしれない。つまりそれは想像力を必要としないのだ。
 例えばヒメマスの親は、産卵のあと長時間にわたり、一生懸命砂や小石を卵の上にかけてその卵をカモフラージュするという。なんという子供思い、いや、卵思いの親だろうか?しかしもちろんそれは、ヒメマスが自分たちの卵が天敵に襲われることなく将来孵化するのを想像してその達成感を先取りし、現在の苦労に耐えているわけではない。その一連の行動が自動的に起きてしまうようなプログラムがヒメマスの中枢神経のどこかに必ずあり、そこが活動しているのだ。ヒメマスの報酬系は、その行動の最中は途中でやめることが出来ないくらいには興奮しているはずである。そしてこちらは想像力抜き、下等動物でも行える行動というわけである。

ここら辺はいいか。