2016年2月4日木曜日

報酬系と心(1)


すると賄賂を受け取った政治家にとっては、嘘をつくかつかないか、ということはあまり大事ではなくなる。問題は「いかにそのことに触れず、他人に触れさせないか」ということであり、それに必要な手段を取るだけである。

ここできわめて注目すべきことが起きる。それは良心がどこかに行ってしまうということだ。「嘘をつく」ということは人としてしてはならないことである。ところが私たちは日常生活を送る上で平気でうそをつく。ちょっとした数字のごまかし、話の誇張、あるいは他人を傷つけないための嘘 (英語で “white lie” という表現がある)などは、それをつくことに良心の呵責はない。それと同様にそれを認めることが自分に不快であればあるほど、嘘をつくことは身に迫る危険を回避することであり、正当化される。(同様のことは、快についてもいえる。強烈な快を及ぼす事柄は、自分にとってはおそらく無条件に正当化されるものである。そしてそのような場合は、通常の倫理観を超越することになるのだ。)

そう、自分のメンツを守るための嘘は、おそらくそれほど非人道的ではない。少なくとも当人にとっては「悪気」はないのである。(この良心の問題は後にもう少し詳しく論じる機会があるだろう。)


<報酬系と倫理観>

  あれ、項を設けてしまった。こうしないと忘れちゃうからね。この発想は帚木蓬生先生の講演を聞いていて考えたことである。ギャンブル依存がきわまると、家族の説教は全く耳に入らなくなる。本当にはまってしまうと、手元にお金がなければ、盗むことを考える。それまで倫理的だった人が、人の財布に手を出すまでになる。しかしこれは例えば自分が激しい痛みや不快を体験している時を考えれば納得ができるであろう。おそらく痛みを取るためならどんな行為もいとわないし、その行為の善悪は、その切迫の度合いによりいくらでも軽視されよう。おそらくその行為を裁くような法律はありえないはずだ。(と書いたが、それは言いすぎか。覚せい剤中毒の人が、刑期を終えてシャバに出てさっそく手を出しても、全く情状酌量はされないだろうから。)
ここから導き出すことのできる原則がある。私たち個人が持つ倫理感は、報酬系を刺激する事柄を善、痛み刺激となる事柄を悪、とする傾向にある。このことはこのような考えになじんでない人には奇妙に聞こえるかもしれない。しかしこのように考えないと人の心はあまりに大きな矛盾を背負っているために壊れてしまうだろう。
たとえばもう何十年も喫煙を続けている人を考える。幸いに深刻な健康被害は起きていない。その人が突然喫煙したら罰則が科せられるという法律が成立したことを聞いたとしたら、憤慨し、不当なことだと思うだろう。やがて煙草の被害が明るみになり、副流煙がいかに他人の健康被害を生んでいることが分かっても、彼は心の底から喫煙に罪の意識を感じることはないはずだ。「どうしてこれまで問題にされなかったことをやかましく言うようになったんだ?」「ほかに人の健康にとって外になることはいくらでもある。たとえば車の運転はどうなんだ?たくさんの人が交通事故で命を失くしているぞ!」「極端な話、塩分で高血圧が引き起こされ、糖分で糖尿病が引き起こされるんだから、食べ物だって皆法律で厳しく規制されるべきだろう]どと屁理屈はいくらでも出てくる。そうやって自分を正当化することに人間は長けているのである。

もう一つの例として、連続窃盗犯を考えてみる。私たちの社会には、窃盗をすることに快感を覚える人間がいる。彼らにとっては何らかの形で盗みは正当化されてしまうだろう。「私は恵まれない境遇で金銭的に余裕がない。しかしそれは社会の不平等のせいだ。だから盗む正当な権利があるのだ、など。」もちろん窃盗に快感を覚える人が、同時に強い倫理観を持ち、その矛盾に悩まされることがあるだろう。しかしやがては自分にとって「合理的」な言い訳を見つけ出すことで、少なくとも窃盗は深刻な罪とは感じられることが無くなるであろう。例えば、「少なくとも自分は人を害してはいない。それだけはしないというのが私のポリシーだ」、などと自分に言い聞かせることで、罪の意識はいくらでも軽くなりうるのである。