人類はまさにトラウマにみちた歴史を経て、ようやくそれを検証し、治療的な介入を行うという段階に至っている。最近はCBT(認知行動療法)が一歩先んじた印象があるにしても、そもそもトラウマの治療は(おそらくほかのどのような精神疾患についても同様であるが)様々な治療アプローチがすでに提唱され、これからも生み出されていく可能性がある。それらにはどうやら共通因子というものがありそうだという大方の臨床家の考えがあり、それはおそらく正しいであろう。その問題について考えようという企画が一つ上がっている。詳しくは言えないが。そこで私が精神分析の立場からこの問題をどう考えるかについて述べてみようと思う。
精神分析というと決まって出てくる議論がある。分析では結局精神内界における葛藤を扱うのであろう、と。これは好意的に見れば、「トラウマを扱うだけでなく、より深層からそれに対してアプローチし、洞察を追及する」、ということになる。おそらく精神分析に対する期待があるとすれば、そのような見方ではないだろうか。「単にトラウマを扱うだけではなく、洞察も求めていく。」というわけである。おそらく精神分析を行う立場としても、そのような自負ないしは覚悟があるであろう。このような期待は、精神分析の理論が時は難解で、またそのトレーニングシステムも複雑かつ重層的であり、その分深遠に映るからかもしれない。
ただ精神分析の内部に身をおく立場としては、「洞察を求める」というプロセスや手続き自体が明快ではなく、また容易ではないということがわかっている。それはまさに海図のない航海というところがある。(もちろん海図自体にすでに何かが書き込まれているという可能性もあるが。)また「洞察を求める」ことは「トラウマを扱う」ことの先にあり、両者は深く結びついているはずなのであるが、実はこの両方のアプローチは微妙に矛盾し、齟齬をきたす可能性がある。さらにはややネガティブな見方からすれば、そして実際に伝統的な精神分析の基本方針は、トラウマを扱う基本的な仕様を備えていなかったという事情がある。それはフロイトが「トラウマ仮説」(実際な「誘惑仮説」と呼ばれた)を放棄してそれを患者のファンタジーの産物と考えるようになったことから分析理論が発展したという事情とかなり密接に結びついている。フロイトの打ちたてたモデルは、ファンタジーや欲動による葛藤を扱い、それに対する洞察を得るという「葛藤モデル」と呼ばれるものだが、それに対するややアンチテーゼ的な「欠損モデル」(養育上の問題や欠損を扱う手法)が成立したという経緯からもわかるだろう。このような事情は、おそらく分析の外部から見たら、あまり明確には見えないかもしれないであろうが、次の様な具体例を示せばいいかもしれない。
あるクライエントが幼児期の虐待の記憶をよみがえらせる。自分の中のある声が幼児期の父親との関係を語りだし、それまでかけていた記憶のピースがそれにより埋まるという経験である。自分ではそれについて半信半疑であり、それをカウンセラーに語る。その時そのカウンセラーがどのような表情を見せるかは、おそらくそのカウンセラーがどの程度「洞察」追求型かにより大きく違ってくる。そしてそれはクライエントのその後の語り、あるいは早期に決定的な影響を与えるのである・・・・。
ただし最近は分析自体が変わりつつある。ただし現代的な精神分析の流れでは、様々な分析的なアプローチに共通した治癒機序としての関係性が言われるようになってきている。
これでは「共通因子」の問題がまだ含まれていないなあ。