ここでA1に関する簡単な臨床例を挙げておこう。
クライエント:先生はご自身の教育分析の際に、セッションに遅れることはありましたか?
治療者:私自身の体験についてのご質問ですね。ええ、私は分析家に失礼にあたるので、決して遅刻したことはありませんでした。
治療者:私自身の体験についてのご質問ですね。ええ、私は分析家に失礼にあたるので、決して遅刻したことはありませんでした。
もちろんこの伝え方そのもののよしあしは問えない。この例では上で検討した治療的、非治療的な要素の合計6項目は、おそらくことごとく当てはまるであろう。治療者はそれらをあらかじめ心の中で検討したうえで、実際にこのような介入を行うかどうかが決めることになる。とくにこの言葉は治療者からクライエントへの「私との分析の時間に遅れることも失礼ですよ」というメッセージになりかねない。しかしそうなるリスクの一部は、この問いをクライエントの方から発したが質問したというA1の条件そのものに由来していると考えるべきであろう。治療者は問われるままに、率直に答えたまでということになり、そのような臨床判断もありうるからだ。
A2の治療的、非治療的な要素
A2(治療者が自発的に行った自己開示)の治療的要素としては、A1のそれとほぼ同様と考えられる。ただし治療者がクライエントから問われるわけでもなく自分の情報を提供することで、ギフトとしてのニュアンスはいっそう大きくなるであろう。またそれが治療者のアクティビティの高さを示すという意味がいっそう増すことになる。自己開示の積極的な意義を治療者自身が考えた上での介入、という意味がそれだけ大きくなるのである。
A2の非治療的要素は以下のとおりである。
1.治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねない。
1.治療者の自己愛的な自己表現の発露となりかねない。
これは自明のことであろう。A1のようにクライエント側から問われた場合は、その情報を少なくともクライエント自身が欲していたことが明らかであるが、A2の場合は、それをクライエントが本来必要としていないというリスクは高まる。場合によってはまったく無用だったりかえって有害だったりしかねない。その点を十分勘案したうえでの自己開示でない場合は、単なる自己愛的な自己表現となりかねないであろう。
2.クライエントの自己表現の機会がそれだけ奪われること。
2.クライエントの自己表現の機会がそれだけ奪われること。
これは上述の1と連動することになる。治療者の自己開示が結果的に、ないしは事実上彼の単なる自己愛の発露であるならば、その時間は決してクライエントのために使われたことにはならないであろう。
3.治療者のことを知りたくないというクライエントの欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。
4.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとしてクライエントに受け取られかねないこと。A2はA1と異なり自発的な自己開示であるために、この要素は一層深刻なものとなるだろう。
A2の簡単な臨床例を示そう。
3.治療者のことを知りたくないというクライエントの欲求が無視される可能性(A1の非治療的な要素と同様)。
4.治療者の「自分のようにせよ」というメッセージとしてクライエントに受け取られかねないこと。A2はA1と異なり自発的な自己開示であるために、この要素は一層深刻なものとなるだろう。
A2の簡単な臨床例を示そう。
治療者:(特にクライエントから質問を受けたというわけではなく)ちなみに私は自分の分析セッションには決して遅れませんでした。遅刻することは私の分析家に対して失礼だからです。
この場合、治療者が特に問われることなくこの自己開示を行ったことで、「あなたも遅刻してはいけませんよ」という警告としてのニュアンスを一層強くする可能性がある。 A1との違いは明白となる。