2015年11月7日土曜日

最近のトラウマ理論 (5)


この「飛ぶ」という現象は、解離と抑圧との関係も含みこむ、実に複雑な議論を引き起こす。ここでの問題はこう表現されよう。
私たちの心が解離部分を抱えている際、その活動(暴走)を抑えるのはどのようなメカニズムであろうか?それは抑圧なのか、解離なのか?
ある患者さんは、心のある部分の声が大きくなり、あるいは「乗っ取られそう」になると感じ、それを努力して抑える、という体験を語る。これはフロイトの抑圧と似ているものの、異なる部分もある。むしろこれはいわゆる「抑制suppression」であり、「抑圧repression」ではないだろう。抑制とは前意識のものが出てきそうになるのを、また前意識に押し込むことだ。それに対して抑圧は無意識から出てきそうなものを押し込むことになる。抑制の例は、実際に心で起きているのを自覚しやすい。あることを考えないようにするために別のことに意識を集中する、というような場合にそれが起きる。具体例としては、自分をパニックに陥れそうな記憶をよみがえらせないためにクロスワードパズルに熱中するという風に、である。
ところが抑圧は分かりにくい。抑圧という機制自体が半ば無意識的なプロセスだからだ。自分が何を抑えているかを知らない。しかも今抑圧をしているのかどうかもピンとこない。すべて心の闇の部分で起きていることだからだ。せいぜい不安や身体症状のような形をとるだけだろう。
ここで考えてみよう。抑圧された内容と解離された内容とはどこが違うのだろうか? 私は個人的には区別がつかない。ここで大胆な言い方をするのなら、フロイトのいう抑圧というものはなく(というよりその存在を証明する事が出来ず)、あるのは解離ではないか、という考えが成り立つのだ。もっと結論めいたことをいうならば、心の力動は抑制と解離で十分なのだ。
ところでフロイトは抑圧されたものは逆備給が起きると考えた。つまり抑圧された内容は、それ自体が意識へと向かう力を有する。水中に沈めた風船のようなものだと考えればいい。それが上がってこないためには、心が逆向きに力を加えていることになるだろう。それが抑圧ということになる。しかし抑圧内容が、あたかも箱に入って蓋が閉められているようなものであり(つまり解離状態にあり)、逆向きの力もいらないとしたら…。私はおそらくこちらの方が正解だと思う。フロイトのいう抑圧の本体は解離であった…。こう考えるとかなりすっきりする。
 たとえば過去の外傷記憶は、何らかの形で心に直接の影響力を及ぼすことなく、心の奥に鎮座している。抑圧されている記憶と、解離されている記憶、という区別はおそらくない。このように言うと、人は反論するかもしれない。「否。抑圧されている記憶なら、心が常に思い出すまいと力を加えているはずです。」でもそれはまさに抑制、なのである。そこで先ほどの結論。心の力動論は、抑制と解離の二つの機制で一応説明される。ただし「飛ぶ」系は除く。これは解離性の患者さんで証明されているからだ。私は実はPI(投影性同一化)嫌いであるが、何しろミラーニューロンにかかわってくることだから認めざるを得ない。ある動作をしている人を見ると、私たちの脳の運動前野にそのコピーが行われる。投影、ないしは取り入れは脳科学的な現象としてその存在が証明されているのだ。
再び論文に戻ろう。フェレンチは、虐待の犠牲者が機械的な従順なロボットa mechanical, obedient automaton になるという。そして同時に他人の心を読むのに長けることになる。そしてそれはウィニコットの偽りの自己の概念とも深く関連しているという。そのような性質はフェレンチにより超高知能 superintelligence、過剰な敏感さ hypersensitivities,千里眼 clairvoyance と表現されている。相手の心を読み、それにあわせるために備わったスキルといえるだろう。そして長期にわたるIWAの結果としてはもうひとつ、彼ら自身が攻撃者になってしまうということであるという。これはアンナ・フロイトが言った意味でのIWAである。

フランケルは、p.117で、IWAは実は広い範囲で起きている現象であるという。それはたとえば自分より強い存在に服従するときなどであるという。よく知られるスタンレイ・ミルグラムの実験は、私たちがいかに権威に服従する性質を有するかをたくみに示していたのだ。