2015年11月19日木曜日

関係精神分析のゆくえ(4)


関係論者がこの文脈で目指すのは、いわゆる本質essence の否定であるという。しかしそれは本質がある種のアリストテレス的、つまり静的 static で普遍的なカテゴリーと考えるからだという。しかしすでにヘーゲルは、その弁証法に関する議論の中で、本質は普遍でモノ的なものではなく、過程である、と言っているという。そしてそれは関係論者の大部分が賛成するであろうという。私も賛成だ。ということは関係論者はポストモダニズムと言いながら、古いものを持ち出しているだけではないか、とミルスは問う。この批判はどうかな。まあいいか。
さてミルズは関係論と伝統的な分析の立場が最も鮮明に対立している問題について扱うという。それが「主体と客体の問題」であるという。関係論者は分析家の主観性を持ち出し、それが決して減ずることが出来ないものであるというRenik その他の主張(いわゆる)を中心に据えたことで、客観性に関する議論に決着をつけることが出来たのだろうか、という問題だという。(レニックの1993年のthe irreducible subjectivity of the analystの概念。レニックはこれで名を成したね。)
それからミルズは、関係論者がやたらと哲学の概念を導入する一方で、精神分析的なメソッドを示さず、あいまいな表現を用い続けていると批判する。その中に私が今訳しているホフマンの弁証法についての批判がある。こんなことが書いてある。「この単語(「弁証法」)は西洋哲学の歴史に登場する多くの意味を担っている。ホフマンは単に対立する両項の交流 interplay を意味するのだろうか?それは相違だけを意味するのか、それとも類似性も含まれるのか?対称性、持続性、手段、力、統一、あるいは統合の役割はあるのか?その弁証法に機能はあるのか、たとえばそれは動きなのか、プロセスなのか、創生なのか?もしそうならば、それは何を意味するのか?それはフォーマルな因果律に従うのか、それとも論理的な操作なのか、それとも因果関係がなく、不定形なのか?・・・・」という感じで批判が続いていくのであるが、私にはこの批判自体がチンプンカンプンである。(英語を訳すことぐらいはできるが。) 
 ここで関係論に対する批判のもう一つの傾向が見え隠れする。少なくとも古典的な精神分析は、そのメソドロジーを示してくれた。患者に自由連想を施し、治療者は受け身性と匿名性を守ることにより、転移が展開する、云々。しかしそれにとってかわるという関係論は一体何を提供しているのだろう?弁証法

についてオクデンは言うという。「弁証法では、対立する二項がそれぞれ他方を創造し、情報を与えinform、保持し、否定し、双方が互いに力動的(あるいは常に変化するような)関係を保つことである。」(Odgen, 1986, p. 208) 弁証法の説明としてはまさに的を射ていると思うが、ミルズに言わせると「なんじゃこれは?」というわけだろう。あまりに具体性がないわけだ。