2015年9月29日火曜日

精神分析における「現実」を再定義する 推敲 5


エナクトメントと現実の表現
エナクトメントの概念についてはさまざまな理解のされ方があるが、筆者自身はエナクトメントが生じた時は「良質の現実」が提供される非常によい機会だと考える。Theodore Jacobs (1986) らにより導入された意味でのこのエナクトメントの概念は、最近では頻繁に精神分析的な議論において語られるようになってきている。Jacobsはこれを、計画や予想をしていなかった「思考やファンタジーが行動に形を変えたもの(Jacobs, 1993)」としているが、それこそが恰好の現実の提供を意味するからである。R.J. Friedman (1999) らが論じているように、エナクトメントという概念には実はトートロジカルな側面がある。というのも治療者や患者の示す言動は、ことごとくエナクトメントというニュアンスがあるからだ。ただし筆者はもう少し狭義のエナクトメントは臨床的に役に立つと考える。それは当人にとって予想していなかった、思いがけない、あるいはうっかりした行動や感情表現である。この意味でのエナクトメントは「良質の現実」となる候補としての意味がある。なぜならそれは明示的なものの背後にある無意識的な、あるいは気が付いていないプロセスを示唆しているからである。エナクトメントの無意識的な意味はその全体が明らかにされることはないであろうが、何らかの理由にせよそこで生じた情緒的なインパクトがさらなる分析的な探索を招くという意味では、「良質の現実」の有力な候補なのである。
エナクトメントが生じたということが後に認識された際に、それが「避けられるべきであったかどうか」という議論はさほど有用ではなく、むしろそれから何を学ぶことがあったかについての、可能な限りは患者を含めた検討の方が生産的である。しかしだからと言って人はエナクトメントが起きたことを後悔することに意味がない、というわけではない。むしろあるエナクトメントに対する後悔、恥の感情などはそれそのものが、優れて現実として算入されるべきなのである。臨床例では、シンディの電話の話を聞いた際、筆者は不意を突かれ、彼女がカウチから身を起こして振り返った時は動揺した。筆者が失望の色を表現したのはエナクトメントであり、しかし意味のある現実だった。それが彼女の側の失望へと連鎖し、筆者がその彼女の心の変化を察知して話題にすることができたのである