一年で一番悲しい日がやってきた。これから日照時間はどんどん短くなっていくのだ・・・・。
昔見たような文章がずいぶん出て来るなあ。
昔見たような文章がずいぶん出て来るなあ。
サイコパス的な自己愛者
ナルシシズムとは結局、他人に心を及ばせない心性である。要するに対人関係の問題だ。一人で自分自身に没頭しても、周囲に迷惑をかけない分には問題がない。鏡に向かって髪型のセットに余念がない若者を想像してみよう。いかにもナルシシストと思われても仕方ないだろうし、思い浮がべてもあまり気持ちのいいものでもない。しかし頭の薄くなりかけた中年男性なら、もっと多くの時間を鏡に向かって過ごすかもしれないし、それをだれも責められない。人は結局自分のことで必死なのだ。その意味で人は誰でも孤独なナルシシストであり、そうでない人はむしろ例外だし,むしろ社会で不適応を起こしてしまうだろう。
しかし自分のことに没頭する分だけ他人にかかる迷惑を顧みないとしたら、そのナルシシズムは正真正銘の病理となる。自分の利益のために他人を利用したり害したりするならば、それは「悪」の定義そのものとも言える。そしてその意味ではサイコパスや、犯罪者性格、反社会性な傾向のある人たちは、社会の中で最悪のナルシシストと言えるのである。
「サイコパスはいかなる人間同士の交流も、“餌をまく”チャンス、競い合い、あるいは相手の意思を試す機会としてみる傾向にあり、そこには一人の勝者しかいない。彼らの動機は人を操作し、奪うことなのだ。非常に、良心の呵責など感じずに」(ロバートヘア著;「診断名サイコパス」 早川書房、1995、P188)
「サイコパスはいかなる人間同士の交流も、“餌をまく”チャンス、競い合い、あるいは相手の意思を試す機会としてみる傾向にあり、そこには一人の勝者しかいない。彼らの動機は人を操作し、奪うことなのだ。非常に、良心の呵責など感じずに」(ロバートヘア著;「診断名サイコパス」 早川書房、1995、P188)
2012年の6月に大阪であった事件を思い出す方もいらっしゃるかも知れない。心斎橋の路上で二人を刺し殺した男が吐いた言葉。「(自分では)死にきれず、人を殺してしまえば死刑になると思って刺した」。これ以上に自己中心的なナルシンズムの病理などあり得るだろうか?
ということで本章ではサイコパスタイプの自己愛について扱う。
そもそもASPDとは?サイコパスとは?
まずはサイコパスそのものについて説明しておく必要があろう。現代的な呼び名は、反社会性パーソナリティ障害 anti-social personality disorder である。略して「ASPD」だ。これまでにも紹介した米国の精神疾患の診断基準であるDSMという「バイブル」により比較的明確に定義されているが、ASPDとは暴力的で衝動的、うそをつき、社会的ルールを守ることが出来ず、人の気持ちに共感できない、という人々をさす。絶対にお友達になりたくない人たち、それどころか目も合わせたくない人たちであり、過去にDVや犯罪歴を持っていそうな人たちである。
それではよく耳にするサイコパスとは? 一般的な定義からすれば、衝動的で人の気持ちに共感できず、他人に対して残忍な行為を行う・・・・。何かASPDとあまり変わりがないじやないか! しかし歴史的にはASPDよりずっと古いのが、このサイコパスの概念である。本家本元はこちらの方だ。昔からmoral insanity「道徳的な狂気」と称されていたものがこれである。精神医学の世界では、統合失調症や躁うつ病などが明確に定義される前から、罪を犯すような人たちをひとまとめにする概念が成立していた。おそらく社会にとっては害悪を及ぼす人たちをいち早くラベリングする必要性があったからだろう。それがサイコパスである。
さてこれら両者の区別であるが、事実サイコパスという用語はしばしばASPDと混同して用いられる傾向があるし、ICD-10のように両者を同列に扱う基準もある。しかし一般的にはASPDが行動面から明らかな所見に留まるのに対して、サイコパスはさらに内面的な特徴、たとえば罪悪感の欠如や冷酷さなどに重きが置かれている。だからあえて両者を区別する際は、サイコパスの方がより深刻でより深い病理を差すというニュアンスがある。つまりASPDの中でより深刻な人たちがサイコパス、という理解の仕方が一応可能であろう。