2015年4月27日月曜日

精神医学からみた暴力 (3)

動きmotility こそが快感の源泉である

昔プレイセラピーをしていたときである。2歳の少年が積み木で遊んでいるところにちょっかいを出したことがある。彼がまだうまく積み木を積めない様子を横目で見ながら、私は悠々と5つ、6つと積み上げてみる。それに気が付いた子供は憤慨したようにそれを崩した。私は頭を抱えて大げさに嘆いて、再び積み出す。子供が再びそれを崩し、私が嘆く。そのうちそれが一種の遊びのようになって二人の間で繰り返された。
私の積み上げた積み木に対するこの子供の行為は一種の暴力であろうか?おそらく。彼は私を攻撃したかったのだろうか? そう言えないこともないだろう。でも積み上げられた積み木がガラガラ音をたてて崩れるのはそれ自体が心地よい刺激になって、子供はそれを繰り返すことを私にせがみ、私たちは延々とそれを続けたのでもある。
 この子供が体験したのは何だろうか? 自分が積み木をチョンと押すと、世界が変化する。それがごく単純に楽しい。それは自分の体の動きや発声が世界を動かし、コントロールすることの学習のプロセスであり、それ自体が報酬系に作用してその習得を動機付けられる。自らの能動性の確立である。そしてそれは子供の神経系の発達、ニューロンの間の必要なシナプス形成と、おそらくそれとほぼ同時期に起きるシナプスの剪定 pruning とを促進する。もし本能がこの人間の脳の成熟にとって必要なプロセスに密接に結びついているとしたら、自分がAをして世界にBが生じる、というその因果関係の習得はまさに優先されるべき課題であろう。そして子供は嬉々としてそれに取り組むのである。ウィ二コットがその動きmotility の概念を提示した時、まさにそれを論じていたはずだと私は思う。

動きと攻撃性


ここで一番誤解を招きやすいプロセスについて説明しなくてはならない。子供の側の「動き」による効果のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情の変化である。プレイセラピーの子供は私が6つまで積んだ積み木を崩してその効果を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げた20個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ興奮も大きいだろう。もし自分が少し動かしただけで、ガラス細工の積み木がガシャーンと音を立てて粉々に崩れたら?きっとその効果ははるかに大きいはずである。しかしそれよりも子供がその変化に一番反応するのは、親の表情や感情かも知れない。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。積み木を崩すことで多少なりとも演技的な父親の悲鳴もそれに加えていいかもしれない。子供が親に同一化し、その感情や快不快をモニターできるようになれば、実はそれこそが自らの動きが最も大きな効果を及ぼすものの一つとなるはずだ。そしてそこに真っ向から拮抗してくるのが、相手の心に生まれる痛みを感じ取るというプロセスである。