2015年4月21日火曜日

精神分析と解離(15)

フェレンツィのことでずいぶん時間を使ったな。とにかくためになった。ああいう臨床家が存在したということを、改めて興味深く思った。もっともそれこそ30年前の研修医の頃、マイクル・バリントの「基底欠損」にもかなりフェレンチのことが出てきて、とても印象深く思った。しかしフェレンツィが特に解離についてもかなり先取りした考えを持っていることは、はっきり言って自覚していなかったのである。あらためて森茂起先生の著作に感謝したい。
ところで次は

フェアバーン

私はフェアバーンについての特別の知識はほとんどないが、一つ押さえておかないことは、そもそも彼の「スキゾイド」の概念は、結局スプリッティングの概念、解離の議論、ということなのだ。
「ヒステリーの症状を伴う患者の研究により、以下の点に確信を持った。それは「ヒステリー」の解離現象は、自我のスプリッティングを含み、それは私が「スキゾイド」と呼ぶものと、その語源的な意味合いにおいて同一であるということだ。」(P92.
フェアバーンの代表作である、”psychoanalytic studies of the personality” (Routledge, 1952 ) には、「ヒステリー性の解離」という呼び方で、何度か解離に関する言及がある。それを読んでみる。「二重ないしは多重のパーソナリティの本質的にスキゾイドな性質については、ジャネ、ウィリアム:ジェームス、モートン・プリンスらによる多くの症例を通して論じられてきた。」

しかし、では何をスキゾイドと呼ぶのかについては、とにかくよくわからないね。フェアバーンは、彼らには三つの特徴があるという(p.6)。全能感、孤立と超然さisolation and detachment、内的現実への関心の三つ。うーんよくわからない。フェアバーンにはとにかくからゆる病理にこのスキゾイド現象を見ているようだが、他の人には、結局どういうことかよくわからないような。ただ時代背景からいったら、1911年にブロイラーが schizophrenia を提出しているから、潜在的な病理は神経症憲にもたくさんいますよ、ということを言いたいのだろうか?もちろんすでにフロイトはなくなっているが、草場の陰で絶対言っていると思う。「だからさあ、意識が分かれる、という議論はやめようよ。力動的な議論が出来なくなっちゃうし。大丈夫なの?」というくらいか。