2015年4月17日金曜日

精神分析と解離(11)


フェレンツィの「言葉の混乱」の論文に戻る。(これはある意味でいわくつきの有名な論文だが、おそらく日本語にはなっていないと思う。Masson の本の付録についてくるが、ネットではタダで原文が拾える。”Confusion of tongues between adults and the child”)そこでフェレンツィが「含羞」系であったことを示す記述が、「職業的な偽善」ともの。(Masson, P294)「私たちは丁寧に患者に挨拶をして連想を始めるように言う。・・・しかし私たちには、患者の内的、ないし外的な特徴を耐えがたく思うこともあろう。あるいは私たちは分析の時間を、職業的、個人的なより重要な用事を中断するものと感じるかもしれない。私はその理由を探し、患者とそれを話し、それが可能性のあるものとしてだけでなく、事実であることを認めること以外に解決の方法を見出せない。」エーっ?続けよう。「驚くべきことは、私たちがこれまでは回避することができないと考えていたそのような「職業的な偽善」を捨てることで、患者は傷つけられるのではなく、明白な安心感を得るのだ。もし外傷的―ヒステリカルな反応が起きるとしても、それはずっとマイルドなものである。過去のトラウマ的な出来事は、再び情緒的な平衡を崩す代わりに、思考の中で再現されるのだ。阻止絵患者のパーソナリティのレベルはかなり上昇するのである。」「どうしてこんなことが起きるのだろうか?それ以前には医者と患者の間には言葉にできない、不誠実なものがあったが、話すことで、いわば患者の舌が解放されるのだ。… Discussing it loosened, so to speak, the tongue of the patient. ここの「舌 tangue」というのはこの論文のタイトルが、「言葉の混乱・・・confusion of tangues…」だから特別英語表記しておく。「分析家が誤りを認めることで、患者からの信頼を勝ち取ることができるのだ。だから時々間違えることにはアドバンテージがある。それを告白することができるのだ。同でなくても私たちは過ちを犯すのだし。」ここら辺の雰囲気、最近の関係精神分析家たちのそれに近いといえるのではないか。しかしそれにしてもフェレンツィはラジカルだね。こんなことも書いている。「分析家が偽善を維持することは、患者が幼いころにこうむったトラウマを再現することになる。」そこまで言うかな?
「分析で私たちはよく幼児期への対抗、というが、それがいかに正しいかを自覚していない。パーソナリティのスプリットということを言うが、それがいかに深刻なものかを理解していないのだ。私たちが教育者ぶった冷たい姿勢を、強直反応を示している患者に対してさえ崩さないとしたら、それは患者との間に残された最後のきずなを断ち切ることになる。無意識状態の患者は、そのトランスの中では、本当の子供なのである。その患者は知性的な明確に答えることができず、母親的な温かさにこたえることの出来る子供なのだ。後者がなければ患者は孤独で、そのスプリッティングが起きた時の、その病気を生んだような耐え難い子供の状態に置かれることになる。」「患者は演技的な同情の表現 theatrical phrases expressing compassion の表現にではなく、真の共感 genuine sympathy に反応するのだ。」ここら辺はロジャースとも雰囲気が近いことがわかるだろう。