2015年2月17日火曜日

恩師論(推敲) (2)

今日の部分は、最初を少しいじったぞ。

しかしこう述べたからと言って、恩師の存在に意味がないというわけではない。恩師は私たちに人生の上での非常に大きな指針や勇気を与えてくれるなくてはならない存在である。私が日常の臨床からつくづく体験するのは、私たちが理想化対象を求める強さである。この強さは、結局は私たちの自己愛の強さの裏返しであるという結論に至らざるを得ない。私たちは結局は自分が可愛い。自己イメージは多少なりともインフレしている状態で牽引力を発揮する。よく聞くではないか。「自分は平均以上の~である」(「~」には、運転のうまさや対人関係の巧みさ、その他様々なものが代入される)に丸をつける人が、常に78割入るという調査結果だ。(理屈から言えば平均以上が78割、ということがそもそもアリエナイというわけだ。)自分がかなりいけているという幻想を私たちは持ち続けざるを得ないというのが、自己愛問題だが、これは容易に他人に投影される。すると「すごい人」を外に想定し自分を同一化させるのだ。

私が言いたいのは、恩師とはある種の出会いを持てた相手であるということである。その人が継続的に自分に影響を与えるようなイメージは持たないほうが良い。だから出会いの数だけ恩師がいていいのだ。そこで・・・
①恩師との体験は、「出会いのモーメント」である。

恩師との体験について考えると、治療体験とどこか似ている。精神分析のボストングループの「出会いのモーメント」でもいいし、村岡倫子の「ターニングポイント」でもいい。その出会いで何かが起きることで、物事の考え方が(いい方向に)変わる。そこには治療関係と似たことが起きるのだろう。
この例として思い出すものをあげよう。


宮本亜門 (演出家)
高校時代の僕は引きこもっていました。人とコミュニケーションがうまくとれず、自分の気持ちを動表現していいかもわからなかった。毎日がつらくて「明日なんていうものがあってほしくない」と思っていました。でももうあんな苦しみは味わいたくないんです。だから感情を抑えたり我慢したりしないように心がけています。感情を溜め込むと、それがマイナスに働いてしまうタイプだというのもわかってきたので。
引きこもりはどうやって克服したのですか?

母にいわれ、思い切って精神科へ行ったのがよかったんです。薬はもらわなかったのですが、担当医師がとても穏やかな方で、「君の話は面白い」と僕の話をすべて肯定して聞いてくれました。おかげで「こんな僕でいいんだ」人と違って因だ、と思えるようになりました。

 ただしメンターとの出会いは、現実という海の中にある。治療関係のような一種の「ぬるま湯」ではない。だから出会いは外傷ともなる。
 テレビでこんな話をやっていた。ある野球選手が、監督から、試合でのミスを何度も言われたという。「お前のアレであの試合は負けたんだ。」それをことあるごとに口にされたという。悔しい思いをしたその選手は、監督を恨んだが、そのうち毎朝ランニングをして体を鍛え、それを晴らそうとした。そして一年後に大きく成長し、試合で立派な結果を残すことが出来た。後にその監督は言ったという。「あいつは負けず嫌いだから、発奮すると思い、わざとああいうことを言い続けたのだ。」 それを聞いた選手は、その監督に対する深い感謝の念がわいたという。
 どうなんだろう、この話。まあ、ありえない話ではないけれど、現実という海の中でこれが起きると、この種の体験がトラウマになって、監督を恨み通す選手も当然出てくるだろう。この種の美談の裏に死屍累々としているのは、「いやな監督(先輩)にいびられ続けてすっかりやる気を失ってしまった」という体験談なのだろう。
この話の教訓をあげてみよう。監督のいびりに発奮した選手がなんと言ってもえらい。これを仮に「出会う側」ファクターと呼ぼう。第2に、監督は本当は単に意地悪だったのかもしれない。そしてこの選手により監督として「育てられた」のかもしれない。本当はわからないが。

とにかく私たちが陥りがちな過ちは、恩師は一人の尊敬すべき人間という考えである。たいていの人間はそうは行かない。なぜなら優れた点とショーもない点を持った生身の人間に過ぎないからだ。だからいろいろな人から出会いをもらい、それを自分で統合するしかない。人生のあの部分であの人から何かをもらった。それでいいのだ。