2015年2月20日金曜日

恩師論(推敲)(5)


さて2.は直接の勇気づけ、であった。これも書かなくちゃね。恩師的な出会いについて考える際、どうしても出てくるのがDr.Mである。前回は書かなかったけどね。
1993年、メニンガーの精神科レジデントを卒業し、いよいよビザが切れて帰国を余儀なくされていた時期だ。私はトピーカ州立病院の医長に会う前で少し緊張していた。私がビザを延長するためには、州立病院で「どうしてもこの医者が必要である」という類の手紙を書いてもらう必要があったのだ。いきなり初対面の、それもレジデントを終えたばかりの私に、そんな手紙を書いてくれるはずもないだろう、とむしろ諦めの境地で、ともかくもDr.Mに面会を申し込んだのだ。州立病院の医長職にある人物ってどんなだろう?きっと怖いだろうな、しかつめらしい顔をして、「そんな虫のいい話しを私が聞くと思うか!」などと傲慢な態度で一蹴されて終わりだろうな、などと考えながら。メキシコ出身ということだが、言葉が聞き取れなかったらどうしようなどと考えていた。そこに秘書から「ドクターMがお待ちです」と声がかかった・・・。それから約一時間後、部屋から出てきた私は、一時間前にはおよそ想像できないような気持ちになっていた。誰かにしっかり話を聞いてもらい、私の窮状を理解してもらい、私の思春期病遠出のポストを確約して、その旨の手紙を書いてくれると約束してくれたのである。全く予想していなかった出来事。人との出会いが何をもたらし得るのか。私もこんな風に人の話しが聞けるようになりたい・・・・・。
実際あってみたDr.Mは私より三つ年上の精神科医、メニンガーでの先輩に当たる。同じ外国人のレジデントとして苦労をした話をしてくれ、私の立場にも大変同情してくれた。彼自身もビザの問題でメキシコに数年間帰国していなくてはならなかったという。そしてつい最近トピーカに戻り、州立病院の医長としての職を得たという。
Dr.Mのことを書いてみると、単なる勇気づけではないという気がしてきた。というのも私はこう書いてみると、やはりD.HDMが自分に「入っている」ように思う。彼らは人と話すとはどういうことなのかを示してくれた。Dr.Mについて言えば、私は彼の私への話しかたが特別であったかとか、実に立派な傾聴の姿勢を示してくれたとか、ということに感動したというわけではない。そうではなくて、彼が私を普通の人間として、温かく、そして普通に、対等に話してくれたのである。ちょうどたとえば異国であった同朋人のように。あるいは知り合いの知り合いということで相談を受けた人に話すように。立場の違いからくる居丈高さとか上から目線とかのない、普通の話し方。私はその時、今後臨床をするうえで、どのような人とも、普通に話せるようになりたいと思った。相手が目上でも、年下でも、著名人でも、患者の立場でも、生徒の立場でも、である。人として普通に話し、しかも助けとなることを目指すこと。それ以外に人との話し方に関する技法とか秘密はない。Dr.Mはあの一時間でそんなことを教えてくれた。その後彼は私の中で一生消えない友人であり、メンターでありつづけている。
子安先輩の思い出は脱線気味だったが、出会いのメカニズムの一つは結局モデリングだね、という話だ。そしてもう一つが勇気づけである。数日前に紹介した岡村氏のエッセイにもあった。「君ならきっとできるよ」、と言われる。自身はないけれどやってみると出来るのである。そうすると背中を押してくれた先輩との出会いは貴重なものになる。 しかしこれは一歩間違うと無茶ブリになってしまう可能性もあるのだ。
 
私も時々学生さんに「~をしてみたら?」と提案することがある。「~してくれる?」というトーンの時もある。場合によってはこちらの提案は学生にとっての命令に聞こえることもあるだろう。すると学生は「わかりました。」と言いながらも「これって無茶ブリじゃない?」と思うのかもしれない。本当にそうなのか? これは場合によるだろう。
 ある仕事を学生さんにお願いする。それはその人にとっておそらく扱うことが可能だと考えている。これをしてもらえると自分は助かる。そしておそらく彼(女)にとってもその経験が勉強になるだろうと考えるのであれば、それは私にとっても学生にとってもいい体験になるだろう。Win-win というわけだ。ところが私が学生のキャパや都合を考えないでそれを頼んだとする。学生には無茶ブリ、完全に私の側の都合、場合によってはパワハラと認識するかもしれない。とすると恩師による「背中押し」は危険な賭け、エゴの押しつけにもなりうることになる。恩師、先輩の側の良識が問われるということか。
たまたま岡村氏の例が、ピアノが弾けない先生の話だった。その場合の背中押しはその先生にとっても都合がいいという事情があった。しかしたとえばコーチングとか、教育の場合には「~したらどう?」は理解を含まない、より教わる側にとっての利益を考えた指導やアドバイスとなるだろう。私たちは後輩、初心者の振る舞いや仕草を見ていて、ごく純粋に「ああ、~すればいいのに…」と感じることがある。余計なところに力が入っていたり、大事なことが抜け落ちたりするのを見るのはイライラするし、それを訂正することでスキルが向上するのを見るのは心地よい。だから家庭でも教育現場でも部活動でも、職場研修でも、フォーマルな形で、あるいはインフォーマルな形で、アドバイスや指導はありとあらゆる形で行われているだろう。人と人との会話をすべてモニターできたら、そのうちのかなりの部分が一方から他方に対するアドバイスや指導や提案の形をとっている可能性がある。
 ところだそれらのアドバイスや指導の中には、全く見当はずれなものがある。それはアドバイスをする側にとっては簡単なことに思えることが、される側にとっては全くの至難だったりすることがしばしばあり、しかも前者にとってはその事情が全くくみ取れないからだ。人間はことごとく自分を尺度に考える傾向にある。朝は決まった時間に起きるということが少しも問題なく行われている大人にとっては、目覚ましを何度もかけても起きない息子や娘の苦労は分かりにくい。「どうして人間として当たり前のことが出来ないの?」という小言は、親の側の全くの無理解の表れとして子供に受け取られる可能性がある。だから先ほどの人と人との会話のうちのアドバイスの部分は、ほとんどが不発に終わっていることになる。それはそうだろう。人が大人しく他人のアドバイスを聞き入れて行動を改善できていれば、これほど平和なことはない。しかしアドバイスの大部分は一方的な押し付けの形をとるのである。
 その中でたまたま言われた側の心に響くものがある。それに従ってみようという気持ちになる。それはおそらくは偶然の産物なのだろう。
ルイ・アームストロングが施設のブラスパンドでたまたま与えられたコルネットに出会う。そこから彼の人生が変わっていく。彼にトランペットを手渡した人は、彼にとっての恩師ということになろう。しかし彼は単にトランペットの要因が足りなかったから薦めただけかもしれない。
 結局何が言いたいのか。出会いにおける背中押しも、かなり偶然の産物に近いということである。
ところで結局は「出会い」のメカニズムのもう一としての勇気づけ、ということが残っている。あなたは大丈夫だよ、やれるよ、という種のメッセージを貰うこと。人は他者からの勇気づけを渇望しているところがある。自分で自分を鼓舞することでは決して得られない勇気や自信を誰かに伝えられること。
私はいつも不思議に思うのだが、全然見ず知らずの他人の一言が影響を与えるのだ。「あなたの講演を聞きました、本を読みました、よかったです」、というほんの一言のメッセージは、それが時には自分が全く知らない人からの方が意味を持ったりするのはなぜだろうか? もちろん知っている人からのメッセージがありがたいこともある。本当に自分を知っている人から評価されたい。しかし家人に勇気づけられてもあまりピンとこないことがあるとしたら、それはなぜなのだろう。(まあ、実際にそうされたことも思い出せないのだが。)だからこれはやはり出会いなのだ。見知らぬ誰かからいわれた一言が決定的な影響を与えることがある。それは恩師というわけでは必ずしもないだろう。街の占い師かもしれない。

まあ「恩師論」だからそちらに話を戻すと、私にもそのような体験がある。あの時あの場面で、あの恩師からいわれたこと。20年も前のことだ。それを何度も反芻している。そして「よし、やれるぞ」と思う。これは一生の宝物のようなものだ。しかしこれはあまりにプライベートなことなので書けない。書くと「減って」しまうような気もする。そしてこれもまた重要なメカニズムにカウントするべきであろう。