2014年12月31日水曜日

最新の解離 (21)

今年も終わりか…。

(12) トラウマと解離
トラウマ記憶をいかに扱うかは、トラウマの治療論の中でも最も核心的な部分であり、答えが一つに絞りきれない複雑な問題でもある。実際の臨床場面でも、患者の社会生活歴に過去のトラウマの存在を見出した際、そこに介入すべきかいなかは高度の臨床的な判断が必要とされる。トラウマを扱うことが除反応としての意味を持つのか、それとも再外傷体験につながるのかについて十分に予知することは、経験ある治療者にも不可能に近い。トラウマ治療は、かつてのトラウマをあたかも病変部を摘出するかのように扱うという一部の立場から、より保存的、支持的な方針へと移行し、近年の暴露療法が目指すように、安全かつ保護的な状況で再びメスを入れるという立場に戻りつつあるという印象を受ける。少なくとも報告者個人の考え方の変化はそれに沿ったものであり、また各臨床家が自分の立場を確立する上でも同様の変遷があるものと考える。
 トラウマ記憶をいかに扱うかに複雑に絡んでくるのが、医の倫理の問題である。患者のQOL(生活の質)に鑑みつつ治療を行なうべきであるのは、なにも終末医療に限ったことではない。トラウマ記憶の深いレベルにまでく治療の手を及ぼすことは、それが問題を本質的なレベルで解決するという側面と、それによる苦痛を及ぼす可能性の両方を含む。トラウマ記憶を明らかにし、それに対処するという方針が治療者のヒロイズムに先導され、その結果として患者の苦痛が増すことは医の倫理上許容されるべきではない。かつて笠原嘉氏が「小精神療法」の原則の一つとして「 深層への介入を出来るだけ少なくする。」を掲げたが、それはトラウマ治療の出発点についてもいえることである。
 解離性障害を扱う立場からは、患者における治療的に扱うべきトラウマの存在は、解離性の症状の顕在化として理解すべきと考えられる。患者が生産的な生活を送る上で不可避的に生じる解離症状は、それを治療において積極的に取り扱うべきだという立場を報告者は取っている。解離性同一性障害の治療においては、自ら積極的に姿を現すことのない人格を呼び起こすことには慎重であるべきであろう。しかし治療が進む上で出現する人格については、それを治療場面でことさら呼び出すことさえも必要となる場合が多い。そこで本章では解離性障害の原因と通常考えられているトラウマとの関係について再考を加える。
 
解離とはトラウマの結果として生じる、というのは欧米の精神医学ではほぼ常識と言っていい。トラウマという概念と解離とはほとんどセットになっているといっていいのである。しかし解離性障害として幅広い種類の障害と考えた場合、このトラウマとの関係が見えにくくなってしまうことも確かである。トラウマというと、身体的、精神的、性的な侵襲が加えられることになるが、そのような明らかなエピソードが早期の生育暦からは聞かれない場合もある。
 その際トラウマの変わりに「ストレス」と言い換えると、解離との関係を少し説明しやすくなる場合がある。ではトラウマとストレスとはどのような関係なのか?「トラウマチックストレス(トラウマ性のストレス)」という言葉もあるが、要するに心にかかる負荷、重圧という意味で用い、そこにトラウマほどの衝撃のニュアンスを含まないという特徴がある。このストレスと解離の例としては、たとえば成人男性に多い解離性遁走が浮かぶ。仕事に絡んだストレスが発症にかなり大きな意味を持っているようだが、遁走が生じる直前の出来事を探っても、しばしばこの衝撃の要素に欠けるのである。
 ところでこの解離とトラウマという問題がなぜ重要なのか?それは言うまでもなく治療論に絡んでくるからである。もしトラウマが解離症状の原因であるとしたら、そのトラウマを何らかの形で「扱う」ことがその治療になるのではないか、と考えるのは自然だろう。ただどのようにそれを「扱う」のか?(ここで「扱う」という微妙な言い方をしたのは、トラウマの記憶を「消し去る」ことは不可能であるからだ。せいぜいできることは、トラウマの記憶が今の生活にとっての障害とならない程度にすることだ。それをここでは「扱う」と言うことにしているのである。)
 トラウマを「扱う」ことには、非常に大きく分ければ二つある。一つはトラウマを忘れるよう努力することであり、もう一つは逆にトラウマを(表現は悪いが)掘り起こすことである。これは常識的に考えてもわかることだろう。
 読者の方は過去のトラウマ的な体験を一つ思い出していただきたい。それは時々蘇ってきて心に痛みを与える。できればそれが起きてほしくなかったと思う。一方では、それがふとしたことから思い浮かんでこなければいいと願う。要するに忘れられればいいのだ。そして忘れるための一つの方法は、それを想起しないことである・・・。しかしこれは少しおかしい。忘れる為には思い出さないことであろうか? するとある意味ではこれは「治療」ではない。少なくとも治療的に「扱う」ことではない。「扱う」こととは結局何らかの形でそれに触れること、そしてそれだけ忘れることを困難にするからだ。
 しかしこの治療ではない治療は、おそらく大部分の私たちが行っていることなのだ。嫌なことを忘れることが出来るなら、私たちはそれを選ぶ。ある人にとってはそれは仕事から帰って一時間ほどジョギングをすることだし、別の人にとっては帰りに居酒屋によることだったりする。おそらくこうやって私たちは嫌な体験を忘れようとし、ほとんどの場合うまく忘れられているのである。
トラウマを忘れること
 さて解離性障害の場合の、「トラウマを忘れる」とはどのようなことなのだろうか?ここでトラウマをある人格部分、と置き換えることが出来よう。すると端的には、トラウマを忘れる、とは人格部分を扱わない、あるいは少し無理にでも「お引取りいただく」ということに相当する。この問題についてはある意味では答えが出ていると言っていいだろう。なぜなら多くのDIDの患者さんについて、彼女たちの非常に多くの人格が、実質的に扱われないままに終わっていくからである。
 DIDの方々の体験からわかることは、人間の脳にはある限界があり、同時に稼動する人格の数は決して多くないと言うことである。私は高々34程度と見ている。それ以外の人格はおそらく静止画像のようになっていて、少なくとも同時に「覚醒」しているとはいえないのではないか?しかしDIDの方々が自覚できる人格部分の数は通常は二桁以上であることを考えると、その大部分は静止画状態にあり、その静止の仕方にもさまざまな段階がある。つまりすぐにでも命を吹き込まれることが可能な「静止」と、深い昏睡状態にあり、容易なことでは覚醒しない状態での「静止」である。そしてそれらの中には、おそらく今後も覚醒することがないままで、いわば凍結された状態におかれ続ける人格部分があると言うことは、それがその人の精神の安定にとって害のない、あるいは場合によっては重要な事情があるのであろう。
 私がここで何を言わんとしているかといえば、この事情が、トラウマ記憶が多くは「扱われ」ずにいてもいい、あるいは「扱われ」るべきではないということの、解離の文脈からの根拠である。人はさまざまな外傷性のインパクトを持った経験を過去に積み重ねている。しかしその多くは忘却されていく。解離性の方々の場合、それぞれのインパクトがちょうど月の表面に出来た無数のクレーターのように、人格の形を取って刻印されていくのであろう。しかしその多くは静止し、昏睡状態に移行する形で事実上心の表舞台から姿を消していくのである。
もちろんほっておいて、忘れていいのか、というような人格部分も存在する。おそらくDIDの方々や、もちろん臨床家も一番恐れている「黒幕人格」である。(実はニュアンスとしては「黒っぽい人格」の方がより近いかもしれない。しかしここは彼らに敬意を払う意味で、黒幕人格、とする。)黒幕さんは眠っていても、その存在から周囲に畏れられる。彼が出てくると大変なことが起きる。人を傷つけ、自分も傷つく。ずいぶん前に一度出てきたらしく、この腕の深い傷はその時のものだ、というよう話も聞く。臨床家もDIDの方々とのメールのやり取りで、稀にではあるが畏れ多いメッセージ(たいていは短文)をいただいたりする。
 さて黒幕人格は、おそらくトラウマの最深層と関係している可能性がある。ある意味ではそのDIDの方の持つ病理の核心部分と言ってもいい。しかし黒幕を直接扱うことのメリットは不明である。というよりおそらく事実上扱えない。
 何度か書いたことだが、米国にいた時、患者の中に男性の元プロレスラーのDIDの方Mさん(40歳代)がいた。雲を突くような大男だが幼少時に深刻な性的虐待を体験している。Mさんは二度ほど黒幕人格が出現したという。一度は車の運転をしていて、ふとした事故から助手席にいた自分の妻に危害が及びかけた時。向こう側の運転手を引きずり出して半殺しにしたというが、もちろん彼は覚えていない。もう一度は、プロレスの試合中に相手がかなり悪質な反則行為をしたらしい。その時も相手を半殺しにしたという。しかし普段はこれほどやさしい男が居るのか、と思うほど繊細な男性であった。私とMさんはとてもうまく行っていたが、それでも一対一の診察の時に、深刻な話は出来ないな、とふと不安になったことを覚えている。
 Mさんの黒幕さんの場合、もちろん二度と出てこないことを祈る。彼にとっても周囲にとってもその方が平和だ。それに黒幕さんが賦活されるのは、余程彼にとって深刻で外傷的な事件が起きた場合に限るらしい。そうだとしたら、それが起きない方がいいに決まっているのだ。
 私は黒幕人格の事を考える際Mさんの事をまず考える。彼の場合黒幕を扱えないのは、彼が大男で、暴れ出したら周囲を巻き込むことが必至だから、技術的にそれを扱うのは無理だ。それでは体格的に彼ほどではなく、より安全に扱える人の場合は、入院などの安全な環境で黒幕さんを扱うべきか? おそらく否であろう。ただしその黒幕さんがしばしばその人の生活に姿を現して、その人の生活に支障をきたしていないならば、である。
解離性障害の治療における「寝た子は起こさない」
黒幕人格に対する対処の仕方は、私が解離性障害の治療の際に頻繁に用いる「寝た子は起こすな」という表現へと導く。寝た子、などというとDIDの人格の方々に失礼かもしれないが、このようないい方がわかりやすい場合が多い。解離性障害の場合、人格部分がその人の通常の生活にしばしば顔を出してそれが日常生活上の支障を来たすようでなければ、触れないでおくべきだという原則だ。これはトラウマの記憶ということにさかのぼって考えると納得がいくことだろう。トラウマの記憶がもう全くよみがえってくることはないにもかかわらず、「しかしあれは自分にとって非常に重大な出来事だったから」とそれを思い起こそうとするだろうか?
 ただしここで即座に「そんな必要はありません」とも言えない事情もある。実はここは微妙な問題なのだ。精神分析家だったらこのように考えるかもしれない。
「いや、それは意識的に思い出さないだけで、本人はそれを抑圧しているということです。無意識はそれを記憶している訳であり、その何らかの影響はその人の日常生活に及んでいるはずです。その人が本当の意味で過去のトラウマから自由になるためには、それを想起する必要があるのです。」このロジックに根拠がないと言い切れる人はいないはずである。だから精神分析と解離理論の対立はある意味では不可避的なのだろう。
トラウマに直面すること
以上トラウマを忘れることについて書いた内容は、必然的にそれと逆の方向、すなわちトラウマに直面することについての議論も含んでいることに気付かれよう。トラウマについての記憶がフラッシュバックの形で頻繁によみがえる場合、トラウマを思い起こさせるような場所や事柄をいつの間にか避けている場合、そしてそれが日常生活に支障をきたしている場合である。この回避行動は実際に行動レベルで知らずに起きるということがある。例えば自分がトラウマを受けたと感じる人に出会う可能性のある場所に向かおうとしても、足が動かなくなってしまう、気分が悪くなる、など。
ただし回避行動が顕著だからといってトラウマを扱わなくてはならないかといえば、必ずしもそうではないだろう。例えば会社でパワハラに遭った際に、その会社にはもう行けなくなったとしても、転職が可能であればとりあえず問題はないことになる。もしその会社にこれからも勤め続けなければならないような境遇にあるとしたら、その会社で起きたトラウマを扱わなくてはいけなくなるかもしれないが、そのトラウマの生じた場所に永遠に足を踏み入れなくて済むのであれば、もちろんそちらを選択するべきである。
 ここら辺の理屈は、恐怖症への対処ということとも絡んでくる。例えば高所恐怖の人が、高いビルなどない田舎暮らしをした場合は、それに対処する必要はないだろう。「治療」は不要なのだ。しかし都会生活を続けるとしたら、ビルの高層にある場所に行くたびに怖い思いをしなくてはならなくなる。その場合はそれを直すための治療が必要になる。このように治療の必要性は相対的なものだ。解離性障害の場合も同じように考えればいい。黒幕さんが姿を現さない限りはそれを扱う必要はない。しかしそれが日常生活に支障をきたすなら、扱うしかない。(何か当たり前のことばかり書いている気がするが。)
 ただしそれをどう具体的に扱うかについては非常に難しい問題をはらんでいる。過去の外傷体験を想起することが、再外傷体験につながることもある。すなわちそれによりまた生々しくその記憶が再現するようになる可能性がある。ただしここで理屈上は、と但し書きを付けておきたい。
私の臨床経験からは、過去の外傷記憶について聞き出すことで、その日から再びフラッシュバックが起きるということは実は一度も経験していないのだ。「寝た子を起こすべきではない」とは言うものの、「寝た子はなかなか起きない」し、「おきてもまたすぐ寝てしまう」というのが私の考えである。少なくとも寝た子が起きた原因が深刻なトラウマ体験であったとしたら、それは新たなPTSDの発症と考えたほうがいいであろう。安全な治療室で過去のトラウマを想起してもらっても、それがもとで再びフラッシュバックが起きるということは普通はないのだ。