2014年11月7日金曜日

すべてのシステムを巻き込んだ精神療法の方法論の構築 (7)

昨日の論文。もちろんこのまま載せるわけにはいかない。でもまとめてみるとこうなった。 結構いい出来だ。

 そもそも技法の問題は、フロイトの時代には起きなかったことである。フロイトにより定式化された技法論は、彼が基本規則として位置づけた患者の側の「自由連想」および「禁欲規則」を中心にまとめ上げられた。それらは後に匿名性、禁欲原則、中立性の三原則として論じられることが多いが、そのフロイト以後は、ある種の「基本原則」と「経験則」とが並立するようになった。「経験則」とは私の言葉だが、要するに「このように考え、あるいは進めることでより効果的な治療を行うことができる」という臨床経験の蓄積から得られた教え、「それを守ることが効果的であることが知られている」ものという意味でこの言葉を使っている。この「経験則」は時には「基本原則」との齟齬すら生じる。すなわちそれはいかに「基本原則」に乗っ取って精神分析を正しく行うかというよりも、いかに関係性を重視し、ラポールの継続を見据えつつ分析作業を行うかという、より患者の側に立った原則ということができる。先ほどのグリーンソンの技法論にはこの意味での「経験則」としてのそれが多く論じられている。
 フロイト以降時代が下るにつれ、精神分析における技法の発展には、この「経験則」が徐々に重要な位置を占めるようになったが、そこにはまた精神分析的精神療法の広がりも影響していた。米国では
20世紀半ばより、境界性パーソナリティ障害の治療に即した治療技法の必要性が生じ、精神分析より頻度を少なくし、対面法を用いた精神分析的精神療法がより広く用いられるようになった。そしてそれをさらに洞察的療法と支持療法に分けて論じるという流れが生まれた。そこには、古典的な精神分析的な技法に、どのような場合にどのような変更を加えるかという豊富な議論が含まれていた。それに伴い分析的な精神療法に関するさまざまなテキストが著されることになった。Langs, Rの上下巻に及ぶ技法論の大著(8)は、その流れに沿ってかかれたものの代表的なものと言える。
 
 現在論じられている精神分析的な技法は、この半世紀の間に生じた精神分析理論の様々な発展の影響を受けている。多種多様な理論的立場が提唱されていることは、技法論の一元的なテキストを編むことをますます難しくしているといっていいだろう。
現代的な精神分析においては、一般に分析状況における技法を超えた治療者と患者のかかわりや出会いの重要性がますます強調されるようになってきている。 ボストングループではそれを、暗黙の関係性の了解 implicit relational knowing, 出会いのモーメントmoment of meeting などと称している( 14 )Renik (13) によれば、治療関係はいつも、目隠しをして飛行をしているようなもので、何が有益だったかは、あとになってわかるようなものであるとする。
さて精神分析の理論の発展とは別に進行しているのが、倫理に関する議論の流れである。そして最近の精神分析においては、精神分析的な治療技法を考える際に、倫理との係わり合いを無視することはできなくなっている。精神分析に限らず、あらゆる種類の精神療法的アプローチについて言えるのは、その治療原則と考えられる事柄が倫理的な配慮に裏づけされていなくてはならないということである。
 その倫理的な配慮の中でも基本的なものとして、インフォームド・コンセントを取りあげるならば、それは伝統的な精神分析の技法という見地からは、かなり異質なものであるが、チェストナットロッジをを巡る訴訟などを精神分析の立場からの倫理綱領の作成を促すきっかけとなった。それらとしては分析家としての能力、平等性とインフォームド・コンセント、正直であること、患者を利用してはならないこと、患者や治療者としての専門職を守ることなどの項目があげられている。
 これらの倫理綱領は、はどれも技法の内部に踏み込んでそのあり方を具体的に規定するわけではない。しかしそれらが「基本原則」としての技法を用いる際のさまざまな制限や条件付けとなっているのも事実である。倫理綱領の中でも特に「基本原則」に影響を与える項目が、分析家としての能力のひとつとして挙げられた「理論や技法がどのように移り変わっているかを十分知っておかなくてはならない。」というものである。これは従来から存在した技法にただ盲目的に従うことを戒めていることになる。特に匿名性の原則については、それがある程度制限されることは、倫理綱領から要請されることになる。同様のことは中立性や受身性についても当てはまる。すなわち「基本原則」の中でも匿名性や中立性は、「それらは必要に応じて用いられる」という形に修正され、相対化されざるを得ない。

  他方治療技法の中で「経験則」のほうはどうであろうか?先ほど「経験則」は関係性を重視し、ラポールの継続を目的としたもの、患者の立場を重視するもの、と述べたが、それはある意味では倫理的な方向性とほぼ歩調を合わせているといえる。倫理が患者の利益の最大の保全にかかっているとすれば、「経験則」はいかに患者の立場に立ちながら分析を進めるか、ということに向けられているといってよい。結論としては、少なくとも「基本原則」に関しては、それを相対化したものを考え直す必要があるという点について述べた。他方の「経験則」についてはむしろ倫理原則に沿う形で今後の発展が考えられるということがいえよう。