2014年11月3日月曜日

「自己愛と恥について」 推敲 (1)

「自己愛と恥について」 推敲 (1

自己愛の問題と「自己愛トラウマ」 
私に与えられたのは「自己愛と恥について」であるが、これはとてもありがたいテーマである。というのもこれ以外のテーマでは書きようがないと感じるほどに、私にとっては自己愛のテーマと恥とは不可分なのである。
そもそも自己愛の問題を臨床的に取り扱わなくてはならないのはなぜか。それは人の持つ自己愛の問題が主として周囲に大きな迷惑や災厄を及ぼすからである。それはなぜか。自己愛者が周囲の人々に対して、支配的に振る舞ったり、怒りをぶつけたりするからである。その意味では彼らは社会の中では強者であり、虐待者の側に立ちやすい存在と言える。しかし彼らのこころには、実は非常に脆弱でもろい部分があり、そこに侵害を受けたと感じて反撃しているという部分がある。ある意味では彼ら自身がトラウマを体験していて、自己愛的な言動もそれに対する反応として理解せざるを得ないのである。 私は最近「恥と自己愛トラウマ」という著書を上梓したが、このタイトルはそのような事情を端的に表しているといっていい。
 ちなみに自己愛トラウマというのは私の造語である。自己愛の傷つきが人間の心的なトラウマのかなりの部分を占め、またそれに対する反応は他者への攻撃や辱めである。これは自己愛人格にとどまる問題ではなく、実は私たちすべてに多かれ少なかれ言えることである。とすれば自己愛やその傷付きによるトラウマを知ることは人の心を知る上で決定的と言っていい。
以上の内容で、「恥と自己愛トラウマ」における主徴は尽きてしまうのであるが、ここで改めて、そもそも恥と自己愛がどのように関連したテーマなのかについて、改めて書いてみたい。

そもそもどうして「恥と自己愛」なのか?

私のこのテーマに関するモノグラフ「恥と自己愛の精神分析」は1997年の出版であり、この頃からこのテーマは気になって仕方がなかったわけである。私はフランスやアメリカに渡った時、かの地の精神科医たちに手土産代わりに何か伝えられることがあるとしたら、それは対人恐怖についてであろうと思っていた。何しろその頃は、対人恐怖は、日本に特有の病理と考えられていたからである。ただしそれ以前から、それこそ思春期以来、恥と対人恐怖のテーマは私の個人的なテーマであった。「人と会うって、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう」というわけだ。ただ同時に確かだったのは、物おじしてしまう自分をものすごくふがいないと思っていたということだ。