ところでスターンは解離されている心の部分を取り戻す手段は、心の中のざわめきに耳を貸すことであるという。
治療中に自分の解離に気づかせてくれたのは、ちょっとした心のざわめき chafing であった。 さてここで最初の疑問に戻る、とある。なぜ解離の存在が、心のザワつきで見つかるのか。目がそれ自身を見ることができなくても、どうしてそれ自身のヒントが得られるのだろうか。おそらくこれらのヒントの大部分は、私たちの知覚を逃れるのだ。でも精神分析的な作業への献身によりそれが可能になる。胸のザワつきは葛藤の前触れのようなものだ。(p225)
解離している部分は、その存在をざわめきで伝える。それは例えばフロイトの不安信号説、すなわち「抑圧しているものが不安を信号とする」という説と少し似ている。臨床家の中には、この両者を区別することにあまり意味を見出さない人がいるかもしれない。しかしスターンならこう言うだろう。「いや、解離されている体験は、まだその時点では持たれていない(「フォーミュレイトされていない」)のだ、と。確かに抑圧されたものというのは、既に無意識の中に所与として既に存在していて、ただしそこに抑圧という名の蓋がかぶっている感じである。しかし解離に関しては、実際にはそうではなく、まだ体験されていないのだ、というのがスターンの考えなのである。
解離されている心の部分を取り込んでいくためには、心のざわめきを用い、それを手掛かりとすることだが、それは最初はたやすくはない、とスターンは言う。しかしそれがある種の自由を自分に提供してくれるという感覚を生むのだという。
スターンによれば、この考え方は分析家シミントンの提言とも通じるというのだ。
分析家はシミントンSymington が言うところの「自由の活動the act of freedom」に向かう。つまり分析家はそれまでの無意識的な拘束から自由になるのだ。これは治療者は患者に満足を与えたり真実を知ったりすることによってではなく、患者といるという体験をより自由に感じるようになることを意味する。私は臨床を初めて最初の頃は、心のザワつきを一種の警告と感じていたが、今ではそれをチャンスopportunity と感じるようになっている。
スターンの解離理論はこのように、かなり壮大で解離だとかエナクトメントとかにとどまらず、人間が無意識から解放されるためには・・・という話へと広がっている。でもここで無意識が出てくるところが精神分析なのである。