2014年8月19日火曜日

エナクトメントと解離 推敲 (5)

池上彰先生の話は分かりやすいから好きだ。昨日中国についての解説を聞いたが、とてもためになった。そこで出てきたのが、おそらく中国政府が、万の単位のサイバーポリスを雇って、政府に対するネガティブな書き込みを削除しているという。それだけではなく、政府にポジティブな書き込みには報酬を与えているということだ。私はインターネット社会では、人は最終的には言論の自由や情報の伝達を保証され、最終的には大衆が本気を翻すことになると想像していたが、よくわからなくなってきた。かの国は一つの壮大な実験を行っているわけである。

ではサリバンは解離についてどのようなことを述べているのか。サリバンはこう言っている。「パーソナリティの中で両親やほかの重要な人々に肯定されていない自己表現については、自己は言わばそれに気がつこうとしない。それらの願望やニーズは、解離されるのだ。」(Sullivan, H. S. (1940), Conceptions of Modern Psychiatry. New York: Norton, 1953. P21-22) ここでサリバンが言う解離は、実は schizophrenia 統合失調症の症状で用いられるような深刻な機制であるという。ただし彼の言う schizophrenia はかなり広い意味を持っていたのもの事実である。そしてそれはおそらく私たちが用いる「解離性障害」も含むに違いない。
 ともかくこのサリバンの言う解離されたものは、彼自身の言葉を借りれば not-me となるが、それは象徴化されずに自我の外にとどまり、時期が来れば侵入してくるようなものだ。まさにスターンが言うエナクトメントのように。この理論には欲動 drive は存在せず、またこの解離の精神への影響は、通常は目に見えないものであるという。しかしパーソナリティはそれを中心に構造化されていて、それはちょうど絵がキャンバスの周辺の白地に囲まれて構成されるのと同じだという。(p. 218) それは例えば田舎道のようなもので、そこを歩く限り何も疑問を覚えないが、それはそれが余計なところに入っていかず、決められたところだけを通るからだ、という。
フロイトによれば、防衛は無意識的な葛藤から生じる。そしてそれは葛藤の一方だけを意識化する形で行われる。それがフロイト的な葛藤の回避のされ方だ。しかしサリバン的に言えば、葛藤はもう片方を構成しないことで回避されるというのだ。ということでスターンを少し引用すると・・・・。

例の臨床例を思い出してほしい。私[治療者]の心のうちの一つでは、患者の「進歩」を喜びたかった。そして、もう一つでは、自分の観察する能力を犠牲にして、それにより患者を失望させたことへの罪悪感を感じていた部分である。構築主義の立場からは、後者の自己状態(罪悪感を持った自己状態)は象徴的な形では私の心には存在していなかった。それはあの奇妙な情動的な生気のなさ deadness がセッション中に現れ、「そこに『何か』があるよ」、と気づかされることで、私は自分の感情のざわめきを感じ、罪悪感の状態が生起し、フォーミュレートされ、意識的な内的葛藤が最終的に可能となったのだ。私のそれ以前の専心さ single-mindedness は、私の心の内部にある葛藤の否認ではなかった。それは私の無意識的に固執していた「興味の欠如」であり、それはエナクトメントに参加することで創造され育てられたのである。解離された自己状態は、いわば可能態としての体験 potential experience であり、その人がそうすることができるならば存在していたはずのものである。