ところで私は過去に、細澤先生の著書を書評させていただいたような気がしてきた。そこで調べてみると・・・・。あった。2008年に彼の著書についてどこかの学術誌に書いていたのである。
これを読むと、この当時の細澤先生の治療論はかなり「大実験」とは異なるようだ。今日は参考までにこれを掲載しておこう。
「解離性障害の治療技法」
国際医療福祉大学(当時) 岡野憲一郎
本書は気鋭の精神科医であり、精神分析的療法家でもある細澤仁氏による解離性障害の臨床研究書である。本書は序論に続いて「第1部 解離性障害を理解するために」、「第2部 ある解離性同一性障害患者との心理療法」、「第3部 解離性障害をめぐる臨床上の諸問題」の3部により構成されている。
「序論 解離性障害治療私史」では、細澤氏(以下「著者」とする)が解離性障害について関心を持つに至ったいきさつを含む個人史を披瀝しているが、解離性障害の臨床研究の先鞭をつけた、今は亡き安克昌氏との著者の交流が綴られている。実は私はその安氏に招かれて1996年に神戸を講演のために訪れたが、その時ケースプレゼンテーションを行った、当時は研修医の細澤氏の才気溢れる姿も記憶に残っている。
第2部に収められた第3、第4、第5章では、DIDの症例Gとの7年10カ月に及ぶ精神療法プロセスが論じられ、本書の中核部分をなす。GはDIDを有する若い女性であり、SMプレイや自傷行為、失声などの多彩な症状を示す。これらの3章においては、著者の解離に関する基本姿勢が明らかにされている。それは解離を外傷により刺激された精神病水準の不安への防衛として捉えるという方針である。また著者のDIDの治療における基本姿勢は一貫して精神分析的な理解に基づいたものであり、転移状況を外傷の再演として捉えるということである。
また最後の「第9章 一般精神科臨床における解離性障害の治療に関する覚書」では、著者の解離性障害の治療に関するまとめが書かれているが、若干のコメントをしておかなくてはならない。この章で著者は、「治療者は患者が外傷記憶を語らないように積極的に働きかけるべきである」としている。またそれでも過去の外傷を語る患者に対して「もっとも危険な治療的介入は、受容的、共感的介入である」とし、その理由として「このような介入を行うと患者はよりいっそう退行する」とやや断定的に述べている。しかし言うまでもないことであるが、患者が外傷記憶を語るかどうかの是非はケースバイケースである。外傷記憶を語る機が熟している患者にそれをしないように積極的に働きかけることは、外傷記憶を語るには時期尚早の患者にそうすることを促すことと同様に非治療的な結果を招くといわなくてはならない。この種のころあいを見はかることが臨床家の手腕といえよう。同様の事情はまた、受容的、共感的態度を用いるということにも当てはまる。私は著者がこれらの件について断定的な言い方をすることは多くの点で誤解を生じるのではないかと危惧すると同時に、それは本来著者が意図するところものもではないであろうと思う。たとえば外傷記憶の再演については、著者自身がこの著書全体で語っているように、半ば不可避的に生じる以上は、それが想起に結びつく可能性は常にある。
さて本書全体の印象を述べるならば、極めて緻密に構成された論述と熟慮された治療的アプローチが描かれており、極めて価値ある研究書であり技法書であるといってよい。著者はまた自分自身の思考と感性にしたがった上で必要な理論を適宜取り入れつつ、独自の精神分析的な治療論を構成し、その意味でオリジナリティに富んだ書となっている。
ただし私自身は本書の真の価値をこの書に見出す立場にはないかも知れない。本書はあくまでも精神分析的な前提、ないしは思考に立ったものである。私自身は精神分析と決して無縁とは言えない立場にあるが、その中では著者とはよって立つ理論的な背景をかなり異にしている。さらには解離性障害の患者を扱う際にも必ずしも分析的な立場を取らないことは、世界レベルでの解離研究の趨勢ともいえる。その意味では著者の才能や感性が精神分析的思考にのみもっぱら投入されていることは多少残念とも思う。
ともあれ今後の細澤氏のますますの活躍に期待したい。
「解離性障害の治療技法」 細澤仁 著 みすず書房 2008年 220項。