日曜日は対象関係論勉強会だった。司会の藤山先生と「共感」とは何か、ということで討論になった。しっかし・・・。なんでこんなことが論争になるのだろう。
第8章 トラウマ回避のための「無限連鎖型」のコミュニケーション
1.日本人にとって恥はトラウマか?― 出発点としてのベネディクト
本章では日本社会での恥や罪悪感に関するコミュニケーションの問題について、私自身の異文化体験をまじえつつ考察する。
従来は日本人のメンタリティはとかく恥の感情と結びつけられて来たが、罪の文脈からも多くの興味深い論点を見出すことができる。そこで日本人における恥と罪悪感の問題を半世紀以上も前に論じたルース・ベネディクト(1967)の著作を議論の出発点としたい。
ベネディクトの名前や業績は、多くの方にとってなじみ深いものであろう。彼女の著した「菊と刀」は、第二次世界大戦の終結直後の1946年に米国で出版されたが、戦時の反日のキャンペーンの一環として書かれたものとみなされる傾向がある。しかしそれは時代背景を考えた場合にはやむをえなかったのであろう。
「菊と刀」は日本文化における恥の意味に注意を向けたという意味で画期的な本であった。しかしそこに示された日本文化の理解は過剰に図式化されたものであった。ベネディクトは、日本人は日本社会では人前で恥をかかされることを極度に恐る傾向があると捉えた。人前で恥をかかされることはトラウマにつながるらしい、という視点であろう。そしてそれを原罪の意味を重んじるキリスト教社会のアメリカと対比させた。わかりやすく言い直せばこういうことである。恥は他人との関係で生じて人間の行動を規制する。それに敏感な日本人は、「人が見ていなければ悪いこともする」というニュアンスがあるのである。つまり日本社会においては本質的な規範や倫理性が欠如していることを示唆しているかのようであった。他方欧米社会においては罪は神との関係で体験されるものであり、内在化された規範、倫理観を意味する。そしてそこには罪の、恥に対する倫理的優位性という前提が見て取れたのである。
ベネディクトへの賛否両論
戦後の日本においては罪悪感や恥をめぐる様々な文化論が提示されたが、そのひとつのきっかけとなったのがこのベネディクトの著作であったことは確かであろう。日本人にとっては人前での恥はトラウマ体験となりやすい、それを回避するために全力を尽くす、という発想は大枠においては間違っていないだろう。しかしそれをあまりに類型化しすぎた耐えに、この議論には数多くの批判がよせられた。
たとえば哲学者和辻哲郎は「ベネディクトの述べている日本人の価値観は一部の軍人にしか当てはまらない」と述べている(和辻、1979)。たしかに昔から武士道や軍人の行動規範には、「武士道に恥じない行動をする」とか「軍人として恥ずかしくない死に方をする」などという表現とともに、恥を極度に恐れ、回避する傾向が見られたという印象を持つ。ただしこれは微妙に論点をずらした議論であったともいえる。一部の軍人だけがそれほど特別なメンタリティを備えていたかどうかは疑問であるし、恥の社会という視点が一部の軍人には実際に当てはまってしまうかのような主張には異論も多かった。
なお高名な精神医学者である土居(1971)のベネディクトへの反論は広範に及び、ベネディクトとの恥と罪の理論の持つステレオタイプの傾向をさまざまな角度から的確に捉えたものといえた。私も読んで胸がすく思いがした。さらにベネディクトの主張に触発された恥の議論については、「恥とは他者との関係において生じるのか、それとも個人の心の中でも単独に生じるのか」という議論に従った作田啓一(1967)や井上忠司(1977)の業績があり、公恥と私恥についての生産的な議論を生んだ。
日本社会における罪の意識
ベネディクトは日本人が恥を回避する傾向に主として注目したが、恥としばしば対比される罪悪感の方はどうであろうか? これに関しては民俗学者柳田國男の反論に注目したい。彼はその著作(1950)で次のように論じている。
「日本人の大多数のものほど『罪』という言葉を朝夕口にしていた民族は、西洋のキリスト教国にも少なかっただろう。」
つまり日本人は罪の意識もしっかり持っている、いや持ちすぎている、というわけだが、私はこの柳田の反論におおむね共鳴する。後の章( )でも述べるとおり、私は幼い頃から、日本人が頻繁に用いる「すみません」という言葉に、いつも違和感を覚えてきた。そしてそれが日本という文化をかなり明確にあらわしているのではないかとも考えていた。だから日本人ほど謝る国民はいない、とでも言いたげな柳田の意見は私もその通りだと感じる。この柳田の議論が同時に示しているのは、罪もまた対人場面において生じるということであるが、それも正しい指摘であると言える。なぜなら「すみません」とは言葉の上では謝罪を意味し、罪の意識を他者に向かって表現していることになるからだ。人は悪い行いをした場合に、個人として、自らの神との関わりで罪の意識を持つこともあれば、その行いにより傷ついた人を前にして罪悪感を喚起され、謝罪することもある。日本人の「すみません」は「『罪』という言葉を朝夕口にする」(柳田)典型といえるであろう。
2. 私の異文化体験から ― 英語でほめられるという体験と罪悪感
以上のベネディクトと柳田の見解の両方にそれぞれ何らかの正当性があるとすると、日本人は恥の体験を恐るだけでなく、罪の意識も頻繁に表明していることになる。しかしそれでは日本人と米国人は同じように罪悪感を体験していると言えるのだろうか? 私はやはりそこには大きな差があると考える。ただしそれは日本人とアメリカ人が罪悪感をどのように実際に体験しているかという点ではなく、いかに言葉で表現するのか、というレベルにおいての違いなのである。つまり罪悪感の他者への伝達のされ方に日米の違いがあるというのが私の考えであり、本章で最も強調したい点である。
罪悪感や恥を表現した際、周囲の人々にも様々な反応を生むものだ。謝罪したり恥じ入ったりする人を前にして、私たちは同様の感情を持ったり、逆に自分たちが罪や恥の感情を他人に負わせているのではないかと心配したりする。それらの言語的な表明が過度に行われた場合にはそれだけ大きな情緒的反応を相手に及ぼすであろう。また逆にそのような効果を狙ったうえで表現されることもある。それが私が考える罪悪感が持つコミュニケーションとしての意味なのだ。そしてこの考えに至った経緯を説明するためには、まず私の個人的な体験に触れなくてはならない。
英語においてほめられること
私の正式な「異文化体験」は実際に渡米した時から始める。1987年のことだ。最初の頃大きな違和感を覚えたのが、人にほめられたり、人に謝罪するという体験だった。英語ではほめられた際に、原則として相手に対して「thank you(有難うございます)」と返す。これは初歩的な約束事といえる。しかしいざ実行する段になると大変勇気がいることなのだ。それはまさに自分の中にないものが、無理やり言葉により表現させられるという体験だったのである。
たとえば人前で簡単な挨拶やスピーチをしたとしよう。そして「あなたのお話はとても面白かったですよ。」などと言われた場合、日本語なら「いえ、お恥ずかしい限りです」などと応じることになるだろう。しかし英語では「有難うございます」となる。つまりそのほめ言葉をいわばいったん引き受けることになる。言葉の上で「真に受ける」わけだ。これは日本語でのコミュニケーションとはまったく異なるメンタリティに基づいたものであるように思えた。
ほめ言葉を「真に受け」て感謝の言葉で返すアメリカ人やイギリス人の態度は、日本人のそれに比べてよりいっそう洗練されているのだろうか、それとも逆なのだろうか? 私にはその答えをいまだに得ていない。しかし少なくとも英語圏の人々の反応には素朴な自己肯定に基づいた単純明快さと率直さがある。私はそこに好感を覚えた。
英語圏では人が誉められた際のこの「率直な」この反応は、「有難うございます」には留まらないこともある。「ありがとう、お気に召していただいてうれしいです Thank you. I’m glad that you liked it.」「そんな風に言っていただいてありがとうThank you for telling me that.」「ありがとう。私も頑張りましたからThank
you. I did my best.」と言い継ぐアメリカ人も多い。
これらの「率直な」反応の特徴は、それらの表現により会話がそこで一区切り付くことである。一方が他方を褒め、他方がそれを率直に受け止めたことを表明し、そこでコミュニケーションがとりあえず完結するのだ。手紙とかEメールのやり取りなどを考えればわかるとおり、これが通常の意思伝達のあり方である。
翻って日本語ではどうか? この「一区切り」が明確でないのだ。私たち日本人はほめ言葉を率直に受けることを得意としない。そうすることにとてつもない居心地の悪さを感じてしまう。結果としてほめ言葉をすぐに否定し、相手に押し返してしまうのである。
スピーチなどで「あなたのお話はとても面白かったですよ。」と言われた際の、私たち日本人としての反応は、先ほど述べた「いえ、お恥ずかしい限りです」以外にも、「いやいやとんでもございません」とか「お耳汚しなものをお聞かせしました」(これも考えてみればすごい表現であるが)などいくつものバリエーションがある。しかしこれらの反応に対しては、たいていは最初にほめてくれた相手は「またご謙遜を」とか「いや、本当に素晴らしかったですよ。お世辞ではありません。」と言ってくれるだろう。つまり向こうもまた「真に受けて」くれないのである。そしてほめられた方は「そうですか、そんなによかったですか・・・」などとそれを受け入れることはありえない。「いやいや、とんでもありません・・・・」などと繰り返すであろうが、このやり取りを延々と続けるわけには行かないから、少しずつ声の調子を落としていき、最後まで相手のほめ言葉を受け取ることなく終わるのである。これが私が以下に「無限連鎖型」と呼ぶ、おそらく日本語に非常に独特のコミュニケーションなのである。お互いに決着をつけない、どちらが正しいかということを決めない、お互いに恥をかかない、かかせない、というコミュニケーションなのだ。
3.日本語における罪悪感と「無限連鎖型」のコミュニケーション
これまでは英語のほめ言葉への対応に苦労したという私の体験についてのべたが、次に日本語による罪悪感の表現について考察する。
私はほめ言葉に対して「有難うございます」と返すことの居心地の悪さを、最初は「気恥ずかしさ」のせいだと考えていた。しかし気恥しさなら、すでにほめられた時点で生じているはずである。ところがほめ言葉にまつわる居心地の悪さは、そのほめ言葉に対する否定の言葉が口から出るまでの一瞬、つまりほめ言葉をいったんは受け取ったままでいる状態に生じるようなのである。そしてこの居心地の悪さは、結局は罪悪感と同類の感情と理解するようになった。なぜならほめ言葉を「真に受け」たままでいる状況は、自分が優れた存在、強い存在であるという前提に立つということであるが、それはまさに罪悪感を引き起こすような状態なのだ。ただしここでの罪悪感とは私がかねがね用いていた定義によるものだ。その定義とはすなわち「自分が他人より多くの快(より少ない苦痛)を体験する際に生じる感情」(*)と言うものであった。そこで本章ではこの罪悪感の問題に踏み込んで考察を深めたい。
(*)私は罪にしても恥にしても、他人との関係で体験されるものと自分に対して感じるものとは独立し、平行して存在してしかるべきと考えてきた。つまり両者とも「社会的感情
social emotions」でありかつ「自意識的感情 self-conscious emotions」 でもありうるという点では共通しているのである。しかし罪と恥の共通した特徴について考察を進めていくうちに、その区別が必しも容易ではなく、文献的にも十分に満足のいくような区別がなされていないと感じるようになった。そこで私はかねてより恥と罪の意識について私なりに定義し、両者を区別する試みを公にしてきた(岡野、1997年)。そして恥とは、「対人関係において自分の弱さ、不甲斐なさの認識に伴う感情」
(強 ←→ 弱、ないし優 ←→ 劣の軸)にあり、罪とは、対人関係において自分が他者に不快や苦痛を与えたという認識に伴う感情(善 ←→ 悪、ないし快 ←→ 不快の軸)という理解を示したのである。そしてこのうち罪に関して、それが生じる状況をさらに一般化し、「(罪悪感は)自分が他人より多くの快(より少ない苦痛)を体験する際に生じる感情」、ないしは「自分が他人より少ない苦痛(多くの快)を味わう際に、それにともなって体験される感情」としたのである。
この考え方は私としては常識的な定義と考えるが、このような区別を設けておくことで、それらの感情が対人関係で生じるかどうかについての議論を当然のこととして省略することが出来る。なぜなら上の過程は自分の心の中でも、直接の対人場面でも同様に生じるからである。
アメリカ人は本当に謝るつもりがあるのか?
まず欧米人の罪悪感の表現について考えてみよう。私はアメリカに住んでいる間じゅう、彼らの謝罪の仕方がかなり「淡白」で、重みが感じられないことが多いという印象を持っていた。もちろん一般常識として欧米人が簡単には謝罪しないという先入観を持っていたこともたしかである。渡米前からよくこんなアドバイスをもらったものだ。「欧米人は車の接触などの事故が起きても決して謝罪しようとしない。罪を認めたら訴訟で負けてしまうからだよ。それに比べて日本人は簡単に謝ってしまうから、気をつけなくてはならない。」もちろんそのような場合には深刻な利害を伴った駆け引きが必要とされるために、簡単に謝罪の言葉を口にしないのもやむを得ないのかもしれない。ところが通常の日常生活において謝罪の言葉を聞いた時でも、英語ではその重みが余り感じられないことが少なくなかったのである。
日本語の謝罪の言葉「すみません」に一番近い英語としては、まず「I’m sorry」が考えられる。しかし「すみません」に比べて「I’m sorry」はそのニュアンスがかなり異なるのだ。アメリカ人の謝罪の言葉を聞いても、「本当に謝っているつもりなのだろうか?」と疑いの気持ちを持つこともあった。(実は欧米人だけでなく、アフリカ圏やアジア圏の人々に関しても同様の印象を持つことが多いというのが最近の私の実感であるが。)
もちろんI’m sorryが自らの落ち度に対する率直な謝罪の意を表すことはある。それを取りあえずI’m sorryの元の意と考えておこう。しかしそれ以外にも、「遺憾である」、つまり必ずしも謝罪の意図を含まない、単に「残念である」という気持ちの表現である場合もあるということを日常会話の中で知ったのである。たとえば ”I’m sorry to hear that”. という言い方を聞くと、これは「そのことを聞いて残念に思う、かわいそうに思う」という意味であり、これは既に謝罪の原型からは遠いことが分かる。
“I’m sorry”はまた、謝罪と遺憾(いかん)の意の中間の役割りを持つこともある。遺憾の意、とはよく政治家が使うあの言葉だ。謝っているようで謝っていない、いわば「条件付きの謝罪」とでも呼ぶべきものだ。たとえば英語には、誰かを怒らせた時などに “I’m sorry if I hurt your feeling.”(もしあなたの気持ちを傷つけたとしたら、ごめんなさい)と返す事がある。これは率直な謝罪というよりは、「それに傷つくあなたにも問題がありますよ」というメッセージがこめられている可能性もある。
このように通常は謝罪の表現であるはずの”I’m sorry”は、その後にthat 構文を従えることで純粋な謝罪ではなくなってしまうわけだが、後に何も続かない”I’m
sorry”そのものが謝罪以外に用いられる状況に出会って感慨深かったことがある。あるネイティブ同士の会話で、一方が “My mother passed away......” (私のお母さんが亡くなりました。)と言うと、それを聞いたもう一人が “Oh, I’m sorry.......”(まあ、お気の毒に) というのを聞いたことがある。もちろんこれは”I’m sorry to hear that…”の省略と考えるのが普通であろうが、これなどもまさに遺憾の意、なのである。
日本人型の謝罪・・・そこまで謝るのか? 何を恐るのか?
次に日本人の謝罪について考えてみると、こちらのほうは逆に過剰さが特徴ではないかと思う。私たちは日常生活でも、かなり頻繁に「すみません」を口にする傾向にある。そして「すみません」の持つ過剰さは、その頻度だけでなく、その言葉の意味そのものにある。「すみません」とか「申し訳ありません」の本来の意味を考えると、「自分のしたことは、いくら謝っても謝り尽くせません」と言っていることになる。「すみません」は、「決して罪滅ぼしをして済ますことはできるだろうか、いや出来ない」を、「申し訳ありません」は「言い訳をすることはできるだろうか、いやできません」を意味し、いわば反語的な表現といえる。それを用いることで謝罪の気持ちを強調する修辞的な表現なのだ。そこに過剰さがあるのである。
同様の事情は、感謝の意を伝えるような場合にも当てはまる。「ありがとう」は、「有難い」、つまり「これはありえないほどの恩恵をいただきました」という意味である。あるいは「すみません」も「申し訳ありません」という本来は謝罪のための言葉も、贈り物を受け取る際に頻用されることを考えれば、日本語においては謝罪も言葉だけでなく、感謝の言葉も同様の過剰さを持っていることになろう。
過剰な謝罪や謝意は多くのバリエーションを持つ。たとえば「なんとお礼を申し上げていいか・・・・」、「お詫びの言葉もありません・・・・」、「お目汚しですが・・・」、「なんとお礼を申し上げていいか・・・・」などはいずれもそうである。そしてこのバリエーションが「過剰さ」の微妙な違いを含んでいるといえよう。
このような謝罪や感謝の過剰な表現を受けた相手の反応はどうだろうか。必然的にそれを否定する形で返すことになる。極端な謝罪や感謝をそのまま受けるわけには行かないからだ。しかし同じ日本語である以上、その否定もまた過剰に行われるだろう。こうしてこの種のやり取りは延々と続くことになる。私が先ほど「無限連鎖型」と呼んだこの種の日本語のやり取りは、日本語の謝罪や謝意の表現が持つ過剰さと関係していたのである。
「無限連鎖型」のやり取りは、行動面についても見られることがある。たとえば会食をした後には「私が払います」「いやいや、私が・・・。」というやり取りが、レジの前で一種の儀式のような形で繰り返される。あるいは日本人同士お辞儀による挨拶は、あたかもどちらがより深く相手に頭を下げたかを競い合うような形で繰り返される。この無限連鎖的なやり取りは、お互いに明確な優劣や雌雄を決することを永久に回避する装置のようなものといえよう。それは優劣や責任の所在を明確化する傾向にある欧米人のやり取りとは非常に対照的なのである。
これらの無限連鎖型のコミュニケーションの役割は何か? 私はその主たる目標は相手に対する謝罪や感謝が不十分であることで相手を傷つけることへの恐れの回避ではないかと思う。相手にトラウマを与えることへの恐れ、というべきであろう。
別れのトラウマを回避する日本人の振る舞い
この無限連鎖型のコミュニケーションは、優劣や責任の所在だけではなく、分離や別離のプロセスにも見られる。そこでは挨拶が反復され、繰り返されることで、別離の痛みや辛さを否認したり和らげたりする形で用いられるのである。ここで臨床状況を例示しておきたい。
私は日米の精神科外来の臨床を比較して、特に患者さん達が診察を終えてオフィスを去る際のふるまいの違いについて興味深く思うことが多い。私は日本に帰国して外来で患者さん達と会うようになり、面談後の別れのプロセスがかなり込み入っていることに気が付いた。彼等は椅子から立ち上がって別れの挨拶を口にし、こちらもそれに返す形でかなり正式な別れの挨拶をした後、戸口から姿を消す際に、必ずといっていいほど、別れの挨拶を繰り返すのである。診療が終わった時点から、互いが視界から姿を消すまでにいくつかのステップがある場合、例えば患者さんが部屋の隅に置いた荷物を取り上げ、簡単な身支度を整えるプロセスが入る場合には、挨拶は合計3回を数えることになる。日本人が別れの際に何度もお辞儀をするというプロセスが、こうして臨床場面でも繰り返されるかのようである。
外来診療は次から次へと患者さんと会う必要があり、特に時間が押している場合などは、臨床家としてはできれば早く次の患者さんとの話に取り掛かりたいという焦りの気持ちが起きる。その際は患者さんが戸口に立った時点でもう一度向き直ることを予想してそのタイミングを待つことにもどかしさを感じるのは私だけではないだろう。
ところが米国における臨床では、事情はかなり異なることになる。患者さんは椅子から立ち上がる際にひとこと別れを告げて、大概はそれでおしまいなのだ。彼らは一度別れの挨拶をすれば、もうそれぞれ別個の世界に帰っていくのが当たり前であるかのようである。そして私も彼らが戸口を出て行く際に見送る必要を感じずに、次の患者さんのカルテの用意を始めることになる。
ただしアメリカ人の患者さんたちは、オフィスを去る際に戸口で時々こう尋ねてくるのである。「扉を閉めますか、あけたままにしますか?」 そしてこれは日本人の患者からはまず聞かれることがないのだ。この「扉を閉めるかどうか」という問いかけは、一つのエチケットという感じがするが、日本での別れの挨拶とは異なるものである。というより逆のものなのだ。なぜなら彼らは私がどのような形で対象と分離をして個人に戻るかの選択を助けてくれようとしているからだ。「ドアを閉めてひとりっきりになりますか、それともあけておいて他の人が入ってくるのに任せますか?」と問うているわけである。
ある老境のアメリカ人の女性の患者さんは、セッション中涙を流して一人暮らしの寂しさを訴えた。彼女は私との数年間の治療関係において、私に対して若干依存的になってきていることが見て取れた。私は彼女が終了の時間になってもオフィスを出て行くのが難しいのではないかと想像した。ところが時間になり終了を告げると、意外にも気持ちを切り替えるようにしてさっさと立ち上がり、戸口に向かい、言ったのである。「ドアは開けたままにしておきますか?」
私は多少依存的になっていた彼女が苦手な別れに際して、自らを奮い立たせるようにして逆に私に気遣いの言葉を発しているというニュアンスを感じたものである。こちらは別れのトラウマを強気に乗り切る方法と考えられるかもしれない。
参考文献)
社会思想社
土居健郎 (1971):「甘えの構造」 弘文堂
作田啓一 (1967):「恥の文化再考」 筑摩書房
井上忠司 (1977):「世間体の構造」日本放送出版協会
柳田國男著 (1950):「尋常人の人生観」 民族学研究 第14巻、4号
岡野憲一郎 (1997):恥と自己愛の精神分析理論 岩崎学術出版社