2014年2月15日土曜日

日本人のトラウマ(10)

道がとけかけたシャーベットになっていた。最悪だ!


上下関係がいじめの素地にある?「ジャングルの掟」
私が日本での集団に再適応する過程でもう一つ印象に残ったことがある。それは日本の集団にごく自然に格差、ないしは上下関係が発生していることである。すでに日本における集団の均一性や、場の空気を読む傾向について述べたが、それはメンバー間が平等ではないということと表裏一体なのだ。集団の中に気を使わなくてはならない相手がいるからこそ、空気を読む必要が生じるのである。このことは私にとっては逆カルチャーショックであった。
 仕事上の上司と部下の関係はもちろんだが、先輩後輩関係、年上と年下の関係、正社員か派遣か、などの「上下関係」は人が集まれば自然発生的に生じ、それが敬語や丁寧語の用い方にすぐ反映される。それを無視する言葉遣いは「タメ語」と言うわけだが、これには決していいニュアンスはない。
 もちろん上下関係がはっきりしている中で、先輩が後輩を教え、指導するという関係が成立するのであれば、それでいい。しかし時には上司や先輩はかなり無理な注文を部下や後輩に持ちかけるように見受けられる。そこに上司や先輩の側の一種のサディズムを感じることすらある。人間が他者との関係で体験する苛立ちの自然な表現が、先輩の側だけには許容されているというニュアンスもある。日本社会での先輩後輩関係は、この種の気安さ、それゆえの一方的な感情表現、批判、叱責といったことが比較的制限なくパワハラの方向に進んでしまう可能性を持っているのである。そしてこれがいじめの原型の一つのように思えてしまうのだ。そしてこの種のパワハラにより生じたいじめには、「排除の力学」に見事に作用することになる。
 本来は上下関係がないところにも、無理やりそれを作り上げてしまうのが、いじめの恐ろしいところである。自己表現の強弱、身体的な優劣などが根拠になることもあれば、「すでにいじめられている」ということが理由になるかもしれない。そうしてその結果として生じるのは、まさに弱肉強食の世界としか言いようがない。私がいじめの現場の描写などを読んで思うのは、これはまるで動物界の出来事だと同じだということだ。弱肉強食のことを英語でrule of jungle (ジャングルの掟)というが、まさに野生のサルの世界で起きているような事態が学校でも生じている。そこで特徴的なのは、教師もその一員であり、ある意味ではボスザルだと言うことだ。ボスザル(教師)は力の強い子ザル(いじめを行う生徒)には甘く、時にはおもねるような態度をとる一方で、それ以外の子ザルには厳しい。また力のない大人のサル(教師)は子ザル(生徒)以下の扱いを受けかねないのである。
 似た者同士の集団では半ば約束事のように上下関係が生じるというパラドクスが存在するわけだが、そこには日本人の均一さが関係しているように思う。日本人はある程度気心が知れていて、互いに多少は違っていても高が知れていると感じる傾向があり、それだけ他者に対して侵入的になりやすい。
他方のアメリカ社会では、個人個人がお互いを警戒し合い、そのためにかえって尊重するというところがある。敬語が存在しないから、会話はことごとく「タメ語」が標準である。非常にざっくばらんで気安い会話を身分の差を越えて行なうように見えて、しかしプライベートなことには決して不用意には踏み込まないような慎重さが要求される。
 ではジャングルにもなぞらえることのできる日本の学校にとって必要なのは何か? そこでできるだけいじめトラウマが生じないようにするためには? それは外部の秩序の導入なのであろう。私が通っていた小学校は秩序が保たれ、いじめなどはあからさまに起きる余地はなかった。それは教師が圧倒的に怖かったからだ。しかし教師は怖いばかりではなく、やさしくもあった。少なくとも毅然としていた。人の集団はそのような外部の力により秩序を保つ。外部の強制力がなくなったらすぐにでも野生に戻るようでは情けないが、外部の強制力は、少なくとも秩序を破ろうという発想を奪ってくれる為に、ある程度は平和な生活を保障してくれる。現在のわが国で生じている学校のいじめの元凶は、その圧倒的な閉鎖性にあるだろう。そこでは教師も権威を失い、その内部に取り込まれてしまっているのである。学校に警官を常駐させるような外部性の導入は、残念なことではあるが、いじめの対策として必要ではないだろうか?
日本人の対人感受性もまた、いじめのトラウマの元凶か?
ここで私がこれまで主張したことをいったん整理して、私の仮説に向かおう。
人間は社会的な動物であり、集団から受け入れられることで安心し、孤立することで大きな不安を抱く。そしてそこに関わって来るのが、「排除の力学」であり、おそらくそれがいじめの原型となる。そしてそこには日本における集団のメンバーの均一性が大きな影響力を持つと考えられる。
ではどうしてこれほど日本の集団では「排除の力学」が働くのであろうか?そしてここからが私のかねてからの持論であり、本章における仮説なのだが、これは日本人が対人場面で持つ感受性の高さが関係しているように思えるのだ。日本人はたとえ個人の意見や感情を持っていたとしても、他人の前ではその表現を控えることが多いが、それは相手の感情を感じ取り、たとえ二者関係においてさえも空気を読んでしまう、ないしは「読めて」しまうからではないだろうか? 先ほど述べた群生秩序の話にしても、それが「今、ここのノリ」を重んじるのは、それが今現在の対人的な皮膚感覚を刺激しているから、ということになる。それが痛みを発している以上、それを宥めてやり過ごすしかないのだ。
 私が米国人の集団にいていつも感じていたのは、この種の感受性の希薄さ、なのである。彼らは他人の前で自己主張をするとともに、相手を非難し、厳しい言葉を投げかけることがある。それは傍らで聞いていてハラハラするほどである。ただしお互いが直接的な表現を交わすということに慣れている社会なので、簡単に気色ばむことはなく、むしろ理詰めで相手を説き伏せる、説得するという習慣が出来上がっている。
米国の軍人病院で、ある上級医師ドクターDに神経内科の手ほどきを受けていた時のことである。米国での研修を始めて間もない頃だった。神経内科の病棟を回診していたら、ある悪性腫瘍を病んでいた患者が、その医師のもとにやってきて「先生、私の腫瘍はひょっとしたら良性、ということはないでしょうか?」と尋ねた。彼はいかにも頼りなげで不安そうであった。するとその患者の主治医であるドクターDは極めてきっぱりと「いや、この前説明したとおり、あなたの腫瘍は悪性です。」と言い切った。患者はいかにも悲しそうな表情で、すごすごと去って行った。私は「こんな時、日本だったら少しは言葉を濁すか、もう少し柔らかい言い方をするのではないか? やはり文化の違いだな。」と思った。ドクターDはラテンアメリカからの移民の子孫で強い南部なまりを持っていた。それから更に彼の事を知ることになったが、その気持ちの通じなさ加減は相当のものであった。いつもニコリともせず、冗談も通じないのだ。ロボットと一緒にいるような感じで何を考えているのか分からない。しかしそれでいて彼と一緒の研修が終わると、食事に連れて行ってくれたりもする。アメリカ社会ではこんなレベルの交流が普通なのだ、と思った記憶がある。お互いある程度以上には相手の気持ちをわかろうとせず、それでも均衡が保たれている関係。それはそれで悪くない、とそのうち思うようになった。少なくともドクターDは、患者に嘘はついていないという意味では自分の役割を果たし、ある種のマナーを守っているのだな、と思うようにもなったのである。
 ところでこのような日本人の対人感受性の高さに貢献しているのが、実は日本人の均一さといいたい。皆が同じような顔立ちをし、同じ髪の色と眼の色をしているから、相手を数段高いレベルで感じ取り、理解してしまう。もちろんそれでも相手を十分には理解しえないかもしれない。しかしアメリカ社会のように、相手を得体のしれない、何を考えているか分からない人と感じて、身構えてしまうようなあの緊張感は私たちの社会にはない。何しろ向こうは、ハイスクールであろうと、クラスメートと喧嘩をすると、相手がカバンからピストルを取り出すかもしれないような社会なのだ。もし日本の外国人がこれからますます増え、職場でもクラスでも3人に一人が外国人という社会になれば、おそらく「排除の力学」の働き方は違ってくるであろう。
最後に 「解除キー」の効用
以上いじめによるトラウマの問題について論じた。最後にいじめの対策について繰り返して述べておきたい。ジャングルの掟を破る一つの有力な手段は、外部を導入することだ。それは場の空気に影響を受けないような存在の力を借りるということである。このことはしかし次善の手段だということも申し述べておきたい。おそらく最も勧められるのは人々の内部告発的な動きである。理不尽なかたちでいじめによるトラウマを受けているという自分の存在を外部に知らせることだ。しかし日本社会では内部告発をしたものを保護する習慣はない。逆に彼らが裏切り者として扱われてしまうほど、日本の群生秩序は強いのだ。するとそれを打破するだけの装置を外的に作るしかないのであろう。前出の内藤朝雄氏は学校に警察や法を持ち込むことを「解除キー」と呼んでいるが、それは群生秩序が外部の秩序を意識することで解体する為の決め手といえるだろう。
参考文献
内藤朝雄「いじめの構造」(講談社新書、2009年)