2013年9月14日土曜日

トラウマ記憶の科学(11)

前表紙漱石の「明暗」頑張って読んで、最後が面白くなってきたのに、いきなり「未完」はないよね。誰か続きを書いた人はいるのかしら? あった!「明暗ある終章」粂川光樹 読むか?


この「記憶ブヨブヨ」のテーマとの関連で考えるべき問題がある。それは記憶の不安定化の状態が、その記憶の形成された時期との関係で大きく異なるであろうということだ。簡単に言えば、「トラウマの直後の記憶は、取扱注意!」ということだ。
 トラウマに関する治療が様々な形で行われる中で一つ浮かび上がったのが、例のデブリーフィングの問題だ。デブリーフィングとは、災害なので多くの人がトラウマを体験した際、被災者がなるべく早期にグループを持ち、トラウマの体験を言葉で分かち合うという試みである。ミッチェルという人により考案され、CISD (critical incident stress debriefing) と名づけられ、一時期盛んに試みられた。しかしそれが必ずしもPTSDの発症を減らすということはなく、かえって逆効果にもなりうることがわかった。現在ではトラウマが生じた際の介入には一定の時間の経過が必要であるということが常識になっている。(詳しくは以下の日本トラウマティックストレス学会のHPからの引用を参照されたい。)
 なぜトラウマはそれが生じた直後にはむしろそれについて話すことが害になるのだろうか? それはおそらく記憶の再固定がその記憶が形成されて直後とそれ以後では大きく異なるからであろう。思い切った仮説を設けるならば、あるトラウマ記憶は、直後にそれが語られることでそれの刻印のされ方をより顕著なものにする。例のレコードの比喩を用いるならば、レコード盤に最初の曲が刻印された際、それをすぐに再生するとそれが、さらに深い凹凸により刻印される傾向にあると考えるべきであろう。それは再固定化の際のブヨブヨとは別の現象が起きると考えなくてはならない。
もちろんこの話が、昨日ここに書いた、いやなことがあったらすぐに話すことにより再固定化する、という話と矛盾するのは当然であろう。そしてこのことがトラウマを扱う際の治療者に非常に大きなジレンマを生んでいるのは確かなことなのだ。なぜつらいことがあった時にすぐに話せばよくなるのに、グループでデブリーフィングをするのはよくないのか?この問題はいまだになぞであるが、そこには私たちがまだ知らない記憶の脳科学があるのかもしれない。
(参考)危機介入としての「デブリーフィング」は果たして有効か?』(日本トラウマティックストレス学会Hpより)
1)デブリーフィングとは?
デブリーフィングdebriefingとは、元来は軍隊用語で、前線からの帰還兵にその任務や戦況について質問し報告させることを指していた。それが、災害や精神的にショックとなる出来事を経験した人々のために行われる危機介入手段として転用されたのが心理的デブリーフィングpsychological debriefing(PD)である。もともと米軍のパラメディックでもあり救急隊員でもあった心理学者ミッチェルがさらに構造化した非常事態ストレス・デブリーフィングcritical incident stress debriefingCISD)として開発し、よく知られるところとなった。それは、災害などの2,3日(少なくとも1週間)後に行われるグループ技法であり、2~3時間をかけて、出来事の再構成、感情の発散(カタルシス)、トラウマ反応の心理教育などがなされるものである。
PDは日本でも阪神・淡路大震災を機によく知られるようになった。災害の生々しい体験を直後に救援者や被災者に語らせるという手法は、関係者にいささか躊躇を与えるものではあったが、当時は米国との文化差という文脈から理解しようとされていたのでなかろうか。日本での実践的な普及は今もまだ聞かれることはないが、「災害直後に体験の内容やその時の感情を救援者や被災者に表現させる」ことで、PTSDを始めとするトラウマ後の心理的後遺症の発症を予防するという考え方は既にかなり浸透しているかもしれない。
 
2) デブリーフィングの有効性
 
しかしながら、特に1990年代後半からPDの有効性の問い直しを迫る論文があいつぎ発表されている。昨年9月、かのランセット誌にこれらの臨床研究論文を収集してメタアナリシスを行った論文1)とその論文に対するコメンタリー2)が掲載された。この論文の目的は、単回セッション制のPDPTSDやその他トラウマ後障害の慢性化に有効な介入であるかどうかを評価することである。著者らが検索したPDの効果を評価する論文29編中、PDがトラウマから1ヶ月以内に施行され、施行前後での心理評価がなされていることなどの条件を満たした7つの無作為化抽出研究が対象論文となっている。
 
これら7研究にメタアナリシスを行い得られた結果は、(1CISDとは異なる介入群(Non-CISD)および介入のない群ではPTSD症状の改善があった、(2Non-CISD群と介入なし群では、PTSD以外の症状の改善がないか、あるいは検討できなかった、(3CISD群ではPTSD症状およびその他症状の改善がなかった、というものである。さらに各研究ごとにエフェクト・サイズを比較し、(1PTSD症状は「自然経過」でも回復が認められる、(2Non-CISDは「自然経過」以上の意味はないが、もう少しデータが集まれば「自然経過」よりも良い結果が出るかもしれないという期待は否定できない、(3CISDを施行すると「自然経過」で見られた回復がなく施行前よりも状態を悪くしているかもしれない、と解釈を加えている。著者らはメタアナリシスに耐え得る研究数が少ないことや条件の統制が難しいことを断った上で、最終的に「CISDNon-CISDは予後を改善しない」と結論づけている。
 
著者らはCISDの有効性への疑義を唱える理由をいくつか考察している。例えば、CISDが侵入症状や回避症状の自然回復のプロセスを阻害するのではないかとか、CISDは正常なトラウマ後反応をかえってより意識させてしまい、トラウマ刺激に感作されやすくしてしまうのではないかといった仮説を紹介している。デブリーフィングには、参加者に満足感と援助してもらえた実感を与えるという報告もあり、実証的研究のみで今後の施行の是非を問えるものではないとしつつも、最終的には「デブリーフィングが慢性的な心理的後遺症への発展を予防するという主張は実証的には保証されていない」という文章で締めくくられている。
 
なお、インターネット上で医学的なエビデンス・データを発信しているThe Cochrane Libraryも数多くの研究論文や研究者との直接連絡から、PDの有効性に関する検討を行っており、こちらでは「PDは心理的苦痛を緩和することも、PTSD発症を予防することもない」とより厳しく結論づけ、「トラウマ犠牲者・被災者への強制的なデブリーフィングはやめるべきである」とまで言及している。 文献3)は4)の抄録であり、無料でアクセスできる。
 
3) これからのトラウマ後危機介入
 
ニューヨークテロ事件の予備調査で、PDを受けない自然経過で予想以上に被害者のPTSD症状の改善が見られることが示されており、個々人やそれを取り巻くサポートの持つ自発的・自助的な回復力が改めて見直されてきている。事実、テロ事件では実際のトラウマ体験を語らせることよりも、安全感の確立や日常生活の再建に重点を置いた危機介入がなされたと聞く。また、PTSD発症のリスクを比較的非侵襲的かつ確実に評価できる有望なアプローチ法が現れてきているという。
 
 (広常秀人、小川朝生)
 
【文献】
1
van Emmerik AAP, Kamphuis JH, Hulsbosch AH, Emmelkamp PMG: Single session debriefing after psychological trauma: a meta-analysis. Lancet 360: 766-771, 2002.
2
Gist R, Devilly GJ: Post-trauma debriefing: the road too frequently traveled. Lancet 360: 741-742, 2002.
3
http://www.update-software.com/abstracts/ab000560.htm
4
Rose S, Bisson J, Wesley S: Psychological debriefing for preventing posttraumatic stress disorder(PTSD)(Cochrane Review). In: The Cochrane Library, Issue 4. Oxford: Updated Software; 2002.

 文責:冨永良喜