2013年8月11日日曜日

解離の治療論 子供の人格について (2)


 
解離の治療論としてまず論じなくてはならないテーマがある。というよりこのテーマを論じれば、それは治療論全体を論じたことになる。それは交代人格をいかに扱うか、ということである。そしてそれはトラウマ理論全体にとっての中心的なテーマである「トラウマ記憶をいかに扱うか」という問題とほぼ同じことなのだ。
そうか、こういう言い方がすでにわかりにくいのだろう。
わかりにくいついでに言えば、今年の秋に某所で発表することになっている内容も、このテーマを取り扱っていて、次のような抄録を書いた。これもわかり難さの極みかもしれない。
トラウマ記憶をいかに扱うかは、トラウマの治療論の中でも最も核心的な部分であり、答えが一つに絞りきれない複雑な問題でもある。実際の臨床場面でも、患者の社会生活歴に過去のトラウマの存在を見出した際、そこに介入すべきかいなかは高度の臨床的な判断が必要とされる。トラウマを扱うことが除反応としての意味を持つのか、それとも再外傷体験につながるのかについて十分に予知することは、経験ある治療者にも不可能に近い。トラウマ治療は、かつてのトラウマをあたかも病変部を摘出するかのように扱うという一部の立場から、より保存的、支持的な方針へと移行し、近年の暴露療法が目指すように、安全かつ保護的な状況で再びメスを入れるという立場に戻りつつあるという印象を受ける。少なくとも報告者個人の考え方の変化はそれに沿ったものであり、また各臨床家が自分の立場を確立する上でも同様の変遷があるものと考える。
 トラウマ記憶をいかに扱うかに複雑に絡んでくるのが、医の倫理の問題である。患者のQOL(生活の質)に鑑みつつ治療を行なうべきであるのは、なにも終末医療に限ったことではない。トラウマ記憶の深いレベルにまでく治療の手を及ぼすことは、それが問題を本質的なレベルで解決するという側面と、それによる苦痛を及ぼす可能性の両方を含む。トラウマ記憶を明らかにし、それに対処するという方針が治療者のヒロイズムに先導され、その結果として患者の苦痛が増すことは医の倫理上許容されるべきではない。かつて笠原嘉氏が「小精神療法」の原則の一つとして「
 深層への介入を出来るだけ少なくする。」を掲げたが、それはトラウマ治療の出発点についてもいえることである。
 解離性障害を扱う立場からは、患者における治療的に扱うべきトラウマの存在は、解離性の症状の顕在化として理解すべきと考えられる。患者が生産的な生活を送る上で不可避的に生じる解離症状は、それを治療において積極的に取り扱うべきだという立場を報告者は取っている。解離性同一性障害の治療においては、自ら積極的に姿を現すことのない人格を呼び起こすことには慎重であるべきであろう。しかし治療が進む上で出現する人格については、それを治療場面でことさら呼び出すことさえも必要となる場合が多い。それにまつわる種々の治療的な配慮については、当日会場でさらに敷衍したい。

あれ?一回分になってしまった・・・・・(手抜き、との噂あり。)