私がこの自由連想的な文で向かおうとしているのは、Hoffmanに言わせれば、Kohut のいう宇宙的な自己愛 cosmic narcissism に似ている。最終的な安寧の境地。葛藤がなく、極楽浄土に至近距離にあり、何の心配もなく、安定した精神状態。全てを受け入れ悟りきった状態。しかし「受け入れ、悟る」事の中には、人間は生きている限り葛藤に身を置かなくてはならない、ということも含まれている、と Hoffman は強調する。結局は死への恐怖や葛藤からの防衛として、ある安住の地を夢想しているだけ、というわけだ。
ここでの葛藤をこれまでの言葉を使って表現するならば、とらわれと、そこからの解放、西郷ドンの例では、「ムカーッ!おいどんを誰だと思っているでごわす!」(鹿児島弁を知らないので、不正確かもしれない。)という気持ちを治めて「いやいや、ひき返しもそ」という、労苦を伴った心の運動である。
ちょっと飛躍であるが、私は「精神的な労働」と、「精神的な苦痛」との区別をを考える。「精神的な労働」と「精神的な苦痛」、というのと違う。精神の苦痛はそれが抑圧を伴い、心にとってのストレスであり、精神的な病を引き起こす可能性のあるものである。「精神的な労働」は、面倒なだけであり、それ自身が抑圧を伴っているわけではなく、精神的病には結びつかない。人間は葛藤を抱え続けるが、その葛藤自身を避けられないもの、誰にでも起きるものとして受け入れることで、それを一種の労働に還元することが出来るのではないか。西郷ドン(この呼び方が定着してしまった)は、隘路を馬を後ずさりさせながら道を譲る時、怒りを抑圧して後になって胃に穴が開くような体験をしているわけではないだろう。でも鼻歌を歌っていたわけではない。きっと「難儀」「シンドイ」体験だったと思う。
ちなみに「精神的な労働」って肉体的な苦痛と言い換えることはできるのではないか、と問われるだけだろう。しかしそうではない。コンピューターを操作することの多い現代人にはわかるだろうが、昔のある特定のメールを探すというめんどくさい仕事ために行うキーボードの操作は、肉体労働としては皆無に等しい。でも精神的労苦、特に抑圧を伴うわけではなく、その意味で精神的な害とはならないまでもめんどくさい作業である。あるいはコンピューターの作業の例を持ち出す前でもなく、人前で無理に挨拶をしたり「ありがとう」を言ったりすることも、すごく「重労働」だったりする。
せめて生きている限り捉われ続ける葛藤を、「精神的な労働」にまで昇華(かなー?)出来ないものか?それでもこれは一種の防衛なのだろうか?