2013年3月19日火曜日

精神分析と家族療法(2)


私は家族の間の行き違い、特に夫婦間の行き違いに非常に興味を持っている。最初は少しでも一緒に居たくて結婚した筈なのに、しばらく経ってみると、これ以上のミスコミュニケーションがあっていいものか、と思うほどの心のすれ違いが、しかもほんのわずかの会話の中に込められるようになる。「親しい付き合いは、距離があって初めて成立する」(まあ、「多くの場合」、と付け加えようか)という当たり前のことを改めて考えさせる。
この間「サワコの朝」という番組に「劇団ひとり」が登場し、阿川佐和子相手に、年始早々の夫婦げんかについて話していたのが面白かった。
ひとり:「雪、積もったね。」
(大沢あかねだったと思う):「ねー。」(とおそらく「私が予想したとおりでしょ」と自慢げなトーンで。)
ひとり:「『ねー』じゃなく、『ねー』(ごく普通に肯定する調子。)でしょ。」
妻:ウルサーイ!!(「相槌のうち方ぐらいで説教しないでよ。」というニュアンス。)

わずか数言で、場合によっては一言で生じてしまう夫婦げんか。実に面白い。
ここで交わされるいくつかの短い単語には、夫婦の負の歴史が、凝縮されているのだろう。
もちろん夫婦の間だけではない。親子だってそうだ。ある患者さんが教えてくれた例を少し変えてみる。

娘:「お母さん、やかんのお湯が沸いているわよ。」
母:「じゃ火を消しておいてちょうだい。どうしてそのくらい言われなくてもやってくれないの?私がいま野菜切っているのわかるでしょ?」
娘:「だって・・・。」
母:「またそうやって言い訳をしようとするの?私があなたの年のころは、母親のことはちゃんと手伝って、家事もみんなすすんでやっていたわよ。」
娘:「・・・・・」

私と神さんの間でもいろいろ例があるが、それは書くのは控えよう。
ウーン、面白い。とうにんたちにとってはしんどいが。
  
私は精神分析では「関係精神分析」学派に属している、ということになっている。(てっとり早く、何かの学派に属していることにしてしまうほうが、この世界では過ごしやすいのだ。) 関係学派は具体的な人と人とのやり取りに焦点を当てる。精神分析的には治療者と患者の間の関係性が中心となる。それはそうなのだが、これは結構難しい。シンドいのだ。精神分析では転移関係を扱うことが常識、ないしは王道とされる。あまりにも自分たちのこと過ぎて、too hot to handle なのだ。それに比べて家族で起きていることについては、治療者が客観しできる分だけ扱いやすく、しかも患者の日常生活の過ごしやすさやストレスの度合いに直結しているからだ。
私は療法家が家族の問題を扱うことで関係性がすぐにでも改善されると考えるほどオプティミスティックではない。しかし家族の問題を解決する上である程度の推進力を発揮する。治療的に扱うことで、少しだけ進展する。そしてまた止まるのである。