2012年8月30日木曜日

続・脳科学と心の臨床(85)


心理療法家へのアドバイス 3
患者の脳の中で生じるネットワーク同士の連結という現象は、実は伝統的な精神分析が目指すものに一致する。それがいわゆる「洞察」である。
そこで洞察を得るということはどういうことかについて改めて考える。それは非常にシンプルに考えた場合には、二つないしはそれ以上の異なる体験が同一だということを理解することである。ここでフロイトの「科学的心理学草稿」のidentification (同一視)という概念に注目していただきたい。フロイトが脳科学に見せられていた時代に書いた本に多く出てくるこの同一視という概念。実はこれが洞察の基礎となった概念であると私は理解している。同一視とは「ああ、これはあれだったのだ」という現象である。「これはどこかで見たことがある」でもいい。「この味覚は、過去のあの時の感覚と同じなのだ」という形をとることもあるだろう。これがまさにネットワーク同士の連結という現象である。
おそらく同一視のもっとも原初的なものは、「この人は昨日の人と同じだ」というものである。その原型は母親像だ。人に慣れ、甘え、その前で自分を出す相手は、いつも同じでなくてはならない。いつも同じような笑顔、同じようなしぐさ。同じような語り口調。これがその対象との安定した愛着を生む。その人と出会うと、脳の多くの部分が一斉につながって「鳴り」出し、その人と一体化する。そして心地よくリラックスした気分になれる。この体験があると、それから先に出会うひとの中にも、母親を見出すことになるだろう。これもまた同一視である。
子供が行う最も高度な同一視とは、母親に起きていることと、自分に起きていることは同じだという同一視である。ミラーニューロンと同じ話だとご理解いただきたい。共感、ということでもある。精神療法とはいわば、これらの同一視を縦横無尽に行うことと定義して差し支えない。そして同一視の最も重要な局面は、ミラーニューロン機能を先取りして、自分の中に起きていることは、きっと対象(治療者)にも起きているかもしれない、と思えることである。見えない相手に対する配慮、ということが出来るだろうか。
さてネットワークがつながること自体は快感原則に従い、心地よい体験のはずである。しかし・・・・
精神療法はまたつらい体験でもあると考えられている。自分自身についての洞察を得ることは、時には厳しい現実との直面化や、抑圧していた外傷の想起を余儀なくされることになる。これはつながることは快感、という私の主張と一見矛盾するようである。しかしこれは洞察するという現象の両面性を表しているものと考えるべきであろう。あることを理解すること、それ自身に快楽的な部分がある。ただしそれが認めることに苦しさを体験するような事実であったとする。それ自身は苦痛な部分と言えるだろう。
たとえばある患者が友人がどうして自分から敬遠されているかがわからずに苦労をしているとする。治療を進めていくうちに、その患者が友人に対して言った言葉がその友人を傷つけたという理解を得たとしよう。その患者は、一つ腑に落ちたことになり、それ自身には心地よさを感じるかもしれないが、それは同時につらい自責感を生むかもしれないのである。
私は洞察的な治療をつらく感じることのもう一つの理由は、洞察という概念を狭く取り、患者の問題についての洞察ということに限定しすぎているからではないかと思う。それが前提になると、患者の連想が、夢の内容が、失策行為がことごとく患者が気がついていない問題を反映しているという方向になりかねない。洞察イコールダメだし、という事が起きてしまうのだ。これではつらいだろう。むしろ洞察はあらゆることに向かうべきである。自分と他者との間に起きていること。治療者との間に起きていること。世間をにぎわしているさまざまな出来事。それらの間につながりを見つけていく作業を手助けするのが心理療法家本来の仕事だと考えるべきだろう。
最後に重要なアドバイスを忘れるところだった。治療者は患者が同一視することが出来るように、一定の部分を持っていなくてはならない。自分らしさ、と言うことだ。予想不可能な行動や言動は、少なくとも治療場面では慎まなくてはならない。当たり前のことか。