2012年8月22日水曜日
報酬系の続き (7)
快の錬金術の補足-快を新生する力
ところで「やらなきゃいけないこと」を「やって達成感!」に変えることは、快を生むことだ、と言ったが、これには補足が必要だ。なぜなら両方とも最初から快のリストに初めから載っていたのではないか?ということはその総計は変わらないのに、快が新たに生まれる、とはどういうことか?人は他人ないしは環境から何かを与えられることなく、自分から快を新生することなどできるのだろうか? ここのところを改めて考えてみたい。
つまりこうだ。最初はいやいやながら散歩を始める。その時は目の前に快がなかなか見えない。「メタボになるのが嫌だから、と昨日決めたから」とか「三日坊主になるのは嫌だから」という消極的な理由ばかりである。しかしこれも一応快のリストに載っている。不快のリストには山ほどある。かったるい。疲れる。足のウオノメが痛い。巻爪もズキズキする(新登場!)これだけの逆風で、よくも散歩が続けられるものである。しかしこんな感じで日常生活を送っている人は多い。仕事などもこんな感じかもしれない。
この散歩が少しでの快の要素を含んでいるとしたら、「ああ、今日はもう散歩をしなくてもいい」「今日のノルマは終わった。これから23時間は散歩から解放される」(よほど嫌いらしい)という安堵感なのである。でもそのうち人はこの散歩を楽しむようになることもあるのだ。ああ、今日も散歩がしたい。もちろんごく一部の人がこうなるのだが、ある程度の楽しみを感じられるようになる人は結構いるものである。これは大変なことなのか? それともアタリマエのことなのか?
そこに絡んでくるのが先日も述べた私たちの持つ忘却の力である。人は生きていくうえで多くの傷つきや、恥ずべき体験を持つ。それは大きな苦痛を伴う。しかしそれは通常は徐々に忘却されていく。不快は消失していくのだ。同様のことは快についても同じである。獲得した喜びは徐々に忘却される。そのうち当たり前のようになる。このような忘却の力はもろ刃の剣といえる。(ちょっと比喩、違うかな?)私たちを過去の辛い思い出によるストレスから守ってくれると同時に、不幸にもすると言えるだろう。つまり失ったものを再獲得する楽しみに変える力が与えられていると同時に、過去に自分を幸せな気分にしてくれたものが、あっという間に色あせてしまう、ということも起きてしまう。
散歩の例で言えば、健康診断の結果が思わしくなく、日課としての散歩が必要となったということ自身は不快体験であるが、それに慣れるに従い、健康な体を取り返すことへの希望や喜びが大きくなる。
ここで先ほど問題になっている快の新生について考えてみる。これは新生というよりは、実はかなりの部分が「忘却分」として説明できるのではないか、というのが私の主張である。私たちの人生の楽しみは、実はかなり過去に失ったものの痛みを忘却した分からなる。そしてもちろん同じことは苦痛についても言える。