2012年8月20日月曜日

報酬系の続き(5)

  
 さて「快感原則」と「不快原則」と「不快の回避」との関係だ。これらはどのように脳の中で打ち合うのだろうか?
 一つ打ち明けると、実はこれまで「快感原則」、つまり気持ちいいことはやる、としていたところに、「不快の回避」というファクターも含まれていたのである。不快の回避はしばしば安堵感を生むので、それも快感と呼んでしまおう、ということだったのだ。しかし実は不安の回避と快感を一緒にするわけには行かない。
 たとえばムチを持った飼い主の前でお預けをしている犬の話を思い出していただきたい。犬がえさに突進せずにお預けを守っているという行為について考えると、まず快感のリストは、そうすることでえさを将来確実にもらえることへの先取り快感と、ムチ打たれることへの恐怖の回避が数えられる。そして不快のリストは、今えさを口にできない苦痛である。ホラ、快のリストに実は「不快の回避」が含まれていたではないか。考えてみれば最初から不快の回避をこのお預けの行動を分析する際に、しっかり数え入れておくべきであった。何しろまったく快の要素がなく、「不快の回避」だけの行動というのもいくらでもあるからだ。たとえば犬がムチをもって追いかけてくる人から必死になって逃げているという場合などはそうだろう。
 ところで「すべての行為は快の追及と不快の回避の二つの要素からなる」という提言には、ちょっとしたトリックがある。これは「その行為を起こさないという行為」と表裏一体だからだ。先ほどの犬のお預けの例で、逆にお預けを破ってえさに突進するという行為を考えよう。こちらは快のリストには、えさを頬張るという快楽が来て、不快のリストにはムチ打たれることの苦痛という項目が来る。後者が大きいので、この行為は妨げられることになる。つまりある行動を起こすことは、それを起こさないことを「しないこと」となる。(お預けを守るということ=お預けを守らずにえさに突進するということをしないこと。)するとある行為の快のリストには、その行為をしないことによる不快の回避、という項目は必然的に含まれることになる。アタリマエだ。それが「不快の回避」の正体であったのだ。
  ちょっと複雑な散歩の例に戻ってもう一度考えよう。快のリストとしては、歩くこと自体の心地よさ、体にいいことをやったという達成感の先取りが来る。不快のリストとしては、歩くことによる足のウオノメのかすかな痛み(新登場!)を考える。さて散歩における「不快の回避」は?そもそもこの散歩は、「最近体重が増え気味でメタボ体型になってきた。そこで何か体にいいことをやろう」と思い立ったからであった(とは書いていなかったが、そういうことにして欲しい。) つまりは「不健康になってそのうち死んでしまうのではないか」という不安感という不快の回避であった。やっぱりこれにも不快の回避の要素は含まれていたわけだ。
  ところで最後の「死んでしまう」は常には意識に上がってこないのではないだろうか?というのも「このままで行くと徐々にメタボリック症候群がひどくなり・・・・」という想像は簡単には浮かばないからだ。(少なくとも私の場合。)それはテレビのメタボの特集の番組などを見てようやく身につまされる程度なのだろう。まだ糖尿病が発症した、というわけでもないだろうし。しかし「メタボで死んでしまわないように」というのは散歩を始めた根本的かつ重要な動機だったのだ。ということはこの不快の回避はどこかに行ってしまったのだろうか?いつも意識にあってほかの項目と競争してくれなくては困るではないか? 実はそれは形を変えて、快のリストに依然として残るのだ。これは、たとえば達成感、安堵感に書き換えられるというのが私の考えだ。散歩を終えて「今日もいいことをした!」という達成感の根拠を調べていくと、あの時番組を見て、メタボ予防の重要さを知ったから…」ということになるが、いちいちそんなことを考えなくてもいい。「これはいいことなのだ。これができたのは達成なのだ。オレって偉いんだ。」と置き換えておけばいいことになる。すると「不快の回避」の項目の値は減って、より純粋な快の部分が増えていく。これが「快の錬金術」である(また例によって新しい概念の無責任な創作である。)