Q:ところで先生、この小さい字で、「自己愛憤怒について聞いてください」とあるのは何ですか?
A:あ、そうそう、対人恐怖の話を終る前に、この話をさせていただこうと思っていたのです。自己愛憤怒とはいわば、恥の力、威力のようなものです。恥というと何か話すべきでないもの、あまり誉められないもの、というニュアンスがあると思いますが、実は恥というのはとてつもない威力を持っているという話です。
Q:恥のポテンシャル、・・・ですか?(上野樹里風) また我田引水で、恥を美化しようとしているという感じですね。
A:まあそうですが、最近の恥の論者たちは皆そういう傾向があります。話の発端はコフートという精神分析家の概念ですが、この分析家は精神分析という土壌に、恥の議論を持ち込んだ人です。人は常に他人から認められようとしている。それが得られないと感じられるのが恥である、と言った人です。
Q:人に情けないところを見られることによる恥、というのとちょっと違いますね。
A:まあ、恥の定義にはいろいろありますが、自己愛の文脈で恥を論じる、というのが一つのアメリカでの風潮なわけです。そしてコフートが、人は自己愛を満たされなかった時、まあそういう意味で恥をかかされた時、ものすごく怒りのパワーが出るということです。これってすごくよくわかる・・・・
Q:先生、なんか遠くを見る目つきになっていますね。
A:はあ、私もいろいろ恥をかかされたことがあるので。そういうときに人は恥じ入って、穴があったら入りたくなるわけです。でもそうではなくて、猛烈に怒ることがある。憤怒、とはそういうことです。どういうときかわかりますか?
Q:いえ、ピンときません。
A:あなたより年下だったり、あなたより会社などで地位が低い人に恥をかかされた場合です。その時に人は怒りの頂点に達することがある。恥をかかされた時の人間は怖い。政治の世界なんてまさにそこらへんで動いているようなものじゃないですか。彼らの世界なんて、足の引っ張り合い、恥のかかせ合い、メンツのつぶし合いみたいなところがある。
A:そうですね。政治の話になったところで収拾がつかなくなる前に、今日はこの辺にいたしましょうか?