2011年8月21日日曜日

「母親病」とは何か?(9)


香山リカさんの本は、実は信田さんや斉藤さんの本を読んだうえで書かれているために、それらを俯瞰するうえでも都合がいい。そのうえで彼女が「親子病」という呼び方を用い、「子供は健康な状態で誕生し、その瞬間に親子という病の病原菌に感染し、それで健康をむしばまれて、最終的には死に至る。」(158ページ)と言い切る小気味よさがある。彼女は基本的にはこの病の処方箋はないという。ただしその後の章にみられる実際の処方箋は、それなりに非常にまっとうである。この「親子という致命的な病」という考えには、おそらく深い臨床経験がある。患者さんたちの話を聞いている私たちの身と、一般の人々との違いは「最終的には親子は和解することができる」という幻想をいかに持ち続けているかにかかっているように思われる。私が診察室で母や娘に伝えることは「もう別々に生きていいのですよ。」というある意味では当たり前のことであり、それを繰り返し伝える必要があるということは、この常識がいかに難しいかということだ。
香山さんの本についてはおいおい触れていくとして、書く者の常として自分の立場との違いをまず見つけるという習性があるので、それを簡単に書いておきたい。
ひとつはその生物学的な起源を私は強調したいという点か。「親子という病」というのは、私が「母親病」と呼ぶ立場と同じで、一種のメタファーである。実際には親子の間の絆の深さのおかげで子供は育っていく。ウィニコットが「通常の母親の没頭」と呼んだ母親の子供への同一化は、それが過剰であるぐらいがちょうどいいのであろう。実際に相手をすればわかるとおり、子供は理不尽でしつこく、一日24時間注意を払うことを要求してくる。これほど苛立たせるものはない。母親がそれを自分に同一化させることで、つまり我が子の痛みが自分の痛みに勝るくらいで虐待は阻止できるのであろう。そしてそれは動物のレベルでもまったく同じなのだ。そしてその過剰な同一化は人間の場合簡単にはスイッチオフされないようにできている。何しろひとり立ちするのに20年かかるのであるから、親のほうから愛情が撤去されるのが早すぎては不都合である。その結果として母親は子供をいつまでも幼く不完全な存在としてみなすということを継続するのだろう。そしてそれがとてつもない弊害を生むというわけだ。
私の観察からは、親が子供を子供としてみるということは決して消えることがない。だから母親病は不治なのである。では子供、特に娘のほうが母を恨む根拠についてはどうか?香山さんはある40歳代のシングル女性が母親に支配されているという体験を語る。その母親に実際に会ってみると、ごく普通の母親だというのだ。しかしおそらく怒りの源泉は、そのシングル女性がまだ幼いころの、今は穏やかな母親の顔に浮かんだ憎悪や怒りが関係していると思う。子供が無力なときに母親はおそらくはるかに自己愛的であり、子供の自由への希求を踏みにじっている。そしておそらくきれいさっぱりに忘れてしまうのだ。そう、ニュアンスとしては私は香川さんと同じか、やや娘側に肩入れしているのだ。
(明日は、母子双方に問題となる罪悪感について考えてみる。)