2011年4月8日金曜日

治療論 その2 (改訂版) 続き 「不可知的な現実」とは?

私は基本的に人間は自分自身のことが見えないようにできているものだと思う。いや、見えては困るのかもしれない。今を生きる、ということは自省する、ということとは相容れないのだ。 車を運転している人間は、まず運転席から見える視界に全神経を集中する。その自分の姿がバックミラーにどう映っているかなどは、当面はどうでもいいのである。なぜなら自分の車がほかの車や通行人と接触することなく、されることもなく、安全に走行できることがまず重要だからだ。
私たちが生きているということについても同様のことが言える。私たちは各瞬間にいかに痛みや苦痛を避けるかを判断し、できることなら心地よさや快感を求めつつ世界の中をナビゲートしていく。何を回避し、何を求めるかは、大抵はとっさの判断にゆだねられる。
他方その人を助手席に座って見ている教習所の教官(一応治療者、スーパーバイザーの比喩である)は、様々なことを考えるだろう。「ぎこちない運転をしているな」、と感じるかもしれない。「何であんなところで急にハンドルを切るんだろう?」と思うかもしれない。実は運転者はちょうど視界の端に映った歩行者が飛び出す予感がして、それを無意識に避けようとしたのだ。その瞬間には本人にとっては理由や必然性のある行動が、周囲には無駄だったり意味のない動きに見えたりすることもある。しかし教官は、助言をするのが自分の仕事だと思っているから、目に付くところはどんどん指摘していく可能性がある。それが運転者にはぴんと来なかったり、指摘される必然性を感じられないことだったりする。教官が「仕事で」助言を与えたり、駄目出しをする分だけ、「うるさい、ほっておいてくれ」、と感じることもあるだろう。
それでは運転者にとってもっとも大切で、インパクトのあるものはなにか。それは体験そのものである。飛び出そうとする歩行者にハンドルを切ったおかげで、こんどは対向車に急接近してしまい、怖い思いをした、など。自分の運転のある種の癖やパターンが及ぼす結果を、現実の体験は教えてくれる。そこからの教えを、運転者は守らざるを得ない。そうすることが危険や恐怖の回避に直接的につながってくるからだ。
では教官=治療者は何もしないのか? 実はその路上実習に誘っているのは教官だったりする。知らない間に高速道路の入り口に入りそうになったら教えてくれるのも彼だろう。時にはこのまま行くと横から突っ込んでくるトラックと正面衝突というときには補助ブレーキを踏んでくれるかもしれない。でも初めての路上実習に出る際の緊張をやわらげてくれるのもまた教官かもしれない。教官は横で、実はいろいろなことを考え、運転者の心中を推し量っているのかもしれない。別に技法があるわけではなく、一見ただそこにいるだけ、に見えるかもしれないが、運転者がのびのびと運転を学ぶのに案外大切な存在だったりするのである。教官もまた「現実」の一部である限りにおいて。(続く・・・・かな?)