2010年10月27日水曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(2)

初めて寒さを感じた朝であった。まだあのうだるような暑さがすぐに思い出されるから、それよりはまし、という気になる。
そろそろ終盤の留学記。結構健闘しているのにわれながら感心する。やはり「学問でもなく、観光でもなく」である。


ライネック病院はネッケル病院から歩いて10分ほどの、パリ第7区にあるやや小さい規模の総合病院である。時代がかった病棟の外見とは裏腹にその内部は明るく比較的清潔であつた。精神科の病棟(シャルコー病棟)は11床と規模が小さかった。いつも新しい環境に入って行くのに時間がかかる私は、それでもネッケルのときよりはかなり早くそこを居心地の良いものにすることが出来た。病棟の規模が小さく、スタッフが身近に居て、しかも私にも出来るような簡単な仕事がいつでもある、という、言わば私自身の存在意義を感じ取る事が出来る環境は私が願ってもないものであった。病棟のメンバーも気さくな人々ばかりで、私はパリジャンについてのイメージが一新する思いがした。私はそこで、言葉に依然不自由しつつも一応は精神科医として扱われることになった。フランスの常で、他国ですでに医師になっている場合はフランスでもその資格があるとの前提がある。但しあくまでもそこでの医長の責任のもとで活動する事になるのであるが。そこで私も右往左往しながらも突然医師としての振舞いを期待され、余儀なくされる、というちょっと奇妙な存在となった。私はもうバリを去る時期がわずか3ヶ月しかないこともあり、思い切っていろいろチャレンジして見ようと思っているのであるが、病棟にいると冒険をするどころか見当違いのことをせずにそこにいるだけでも精一杯である。毎日が冷や汗の連続であるが、しかしスタッフ達は私のその様な様子を故意に看過するようなところがある。
その様な環境で困るのは、例えば看護室の電話が鳴り、その時私が一番そばにいれば、それを受けなくてはならないことである。日本にいてさえ人前で電話を取るのが苦手な私がそれを皆の見ている前でフランス語でやらなくてはならない。いざとなれば内容が分からなければ他のスタッフと代わることが出来るが、彼等は私の苦労を知りつつも受話器を先に取ってくれはしない。それでいて私が仕方なく相手と話し出すと、ニヤニヤしながら私のあわてふためいた応対ぶりを聞いていたりするのである。
更にもっと困るのは、他科からの精神科のコンサルテーションの依頼がよく有り、それを時には一人で出掛けなくてはならないことである。その往診を必要としている入院患者と差し向かいで話す分にはさして問題はない。それよりもそこの何人かの医師や看護婦の集まっているところに、精神科の専門家と称して行き、東洋人というだけで注目されてしまう上にそこで何等かの説明をして彼等を納得させなくてはならないことである。これも私の対人緊張をいたく刺激することこのうえない。始めは何とか一人で行くような状況を避け、アンテルヌのリシャールの後にくっついて行っていた私も、早晩一人で行く羽目になり、半ばやけになって出掛けて行く。全く「恐怖突入」の最たるものである。
私は病棟にいることで、周囲が私に任せてくれる仕事の範囲から類推する形で、外国人医師が一般に任され得る診療内容を知ることが出来た。フランスの医療制度について詳しく調べたわけではないが、私がパリで体験した限り、自国のライセンスを持つ外国人の医師は、診療のかなりのレヴェルにまでタッチ出来、また報酬さえ得ることも出来る。そのレベルは大体フランスのアンテルヌと同等、と言うことが出来る。パリ大学医学部に登録した外国人医師の多くは、二年目からF.F.I.という制度によりアンテルヌの仕事を代行するのが通常である。事実私と同時に研修を始めたファティマやクリスティナは既にパリ郊外の精神病院で5000フラン程度の報酬を得ながら勤務を開始していた。私も報酬はないものの病棟に居る限りは、勝手が分からないながらも医師としての振舞いを余儀なくされることは述べた。
例えば見舞いに来た患者の家族が、本人の吐き気の訴えを伝えに看護室に来ると、他に医師がいなければ私が対応しなければならない。さもなければ、どうしておまえはそこにいるのだ、ということになってしまう。私がとっさに適当な薬を思い付かないと、患者と家族で勝手に「おまえ、このあいだはフォスファルゲルが良く効いたじゃないか。先生、どうでしょう?」私はこのフランス人にとってはなじみの制酸剤を初めて聞くので、とりあえずは手帳に書き留めるのにやっとである。すると彼等は私の様子をみて、「フォスファルゲルをご存知ないのですか?」「おまえ、失礼なことを言うんじゃないよ。この人は医者だよ」などという会話を始める。断わるまでもなく、フランスではこのような状況で私に残された手だては一つしかない。すなわち絶対にその薬について分かり切っているという態度を保ちつつ、間違いを犯す前に何とかその状況を切り抜けることである。私は「そうですな。うんうん。それがここの病棟の常備薬にあるか見て来ましょう」などと言って看護控え室に取って返し、ヴィダール事典(フランスでは各診察室に一冊は備えている薬の事典)で調べ、看護婦のカトリーヌに尋ねる。そしてその薬の日本での相当物などを想い浮かべ、有る程度落ち着き、患者に持って行くと同時に、患者が同時に欲しい薬の候補として挙げていたプランペロン(これは要するに日本でもなじみの「プリンペラン」のフランス語読みだから私も知っている)との機序の違いなどを聞かれないうちから述べて彼等の私に対する疑いを少しでも軽減し、私自身もフラストレーションから少しは解消される必要があるのである。
こういう体験は私が最も苦手なものだが、かといって他に旨く切り抜ける方法も見当たらない。しかし余りこういうことが毎日重なると、一体こんな事を続けていると自分はどうなって仕舞うのだろう、などというへんな興味が沸いてくる。それにしても恐らくこれからは私は患者の吐き気の訴えに関して少しは巧く切り抜けることが出来るであろうが、この様な体験を一体何百回繰り返せば私はここに適応して適切な振舞いが出来るようになるのであろう?こう考えるとあと3ヶ月足らずとなった私のフランス滞在、ということも気になる。日常的に出会う目新しい事柄をいちいち手帳に記入するのも、これから先の私の3箇月を支えるだけ、と考えると余り意味が無い様な気がしてくる。すぐにパリを離れて仕舞うのであるから、病院にいること自体傍迷惑なのかも知れないという気もする。しかし後3箇月だと思うから「旅の恥はかき捨て」とばかりに、もう少し思うままに振舞って見たい、とも思うのである。