次にギャバード先生は脳科学の話題に転じる。セロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)に関し、 この遺伝子が短い人が不安や神経症的な気質となる傾向があるという Lesch ら(1996) の研究に言及する。(ちなみに日本人は特に短い遺伝子(SS)を持ちやすいのだ、ということも話題になっている)。そしてこの短い遺伝子を持つ人は恐怖刺激に対して扁桃核がより大きな反応を示すとされる(Hariri,et al,2002)。ただしこのような遺伝子が残っているということは、不安を感じやすい人がより生存する確率が高いということらしいという。 ギャバ―ドはDSM-5で不安障害の分類のされ方がこれまでと違っていることについても触れている。これまで不安障害の中にカテゴライズされてきた障害、例えばOCDとかPTSDがこのカテゴリーから外れるということが実際に起きていることにはDSM-5が発表された2013年に気が付いたが、あまりその理由を考えていなかった。結果としてOCDは抜毛症や醜形恐怖と一緒に、PTSDは外傷関連障害に分類された。そしてDSM-5では不安カテゴリーには恐怖症、全般性不安障害、パニック障害、場面緘黙、分離不安障害が含まれることになった。要するにそれまでは神経症=不安を主訴としたもの、という常識があったが、それが大きく変わったのだ。これもフロイトの精神分析的な理解があまり通用しなくなったということであろう。 またパニック障害についてもギャバ―ドは検討している。パニックも不安性障害の一つとして従来考えられてきたものだ。これが精神力動的治療の対象となることは多い。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならない。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは実はかなり深い意味を持っている気がする。親の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、マッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。 ギャバ―ド先生は次に恐怖症 phobia の問題に向かうが、そこではもっぱら social phobia つまり社交恐怖についての論述である。実は彼はかなり若いころからこの社交恐怖に興味を持っていたことを覚え,それを精神分析的に論じることにとても高い関心を持っていた。それに社交恐怖は不安と恐怖の両方にまたがる問題を扱い、また対人関係において極めて大きな意味を持つ。p268で彼があげている症例は、人前で自分の名前を言うことを極端に恐れるというケースだが、結局は「自分はMr.Aである」と言うことは、自分は父親(同様にMr. A)であろうとするということを意味し、それが不安を惹起するのだ、ということになる。 これはとてもエディプス的な文脈で語ることが出来るという意味でも分析的な解釈が有効なケースと言えるだろう。 ある研究では一般人の約20%が社交不安症(social anxiety disorder 以下、SAD)を有するということで、DSM-Ⅲで登場したこの新たな疾患は一躍、不安性障害の中で最も罹患率が高いものの一つとして注目されるようになたのだ。しかし他方ではSADを有する人の8割は何も治療を受けていないという。
2025年3月31日月曜日
2025年3月30日日曜日
不安とパニックと精神分析 6
ギャバ―ド先生が最後にあげるのが全般性不安障害(GAD)であるが、この障害はいろいろ問題があるらしい。とにかく併存症が多く、このGADと診断される人の8~9割は別の診断を同時に持っているというのだ。そのうえでギャバ―ド先生は、GADの患者が訴えるであろう様々な身体症状に対して寛容であるべきだという。そしてそのうえで、それらの症状がより深いレベルの懸念 concern に対する防衛になっている可能性に対して開かれているべきであるという。その深いレベルと言えば、不安定―葛藤的愛着パターンであるという。最初に出てきた不安の階層構造の話を思い出して戴きたい。そしてそれが転移関係にも表れるとする。つまり患者の持つ、その関係が結局は失敗に終わるのではないかという懸念だが治療者に対して持たれるのだ。 ギャバード先生の本のまとめは終わったので、ここでこれまでの内容を私なりにまとめてみよう。 不安と言えば神経症症状の一つの典型である。そしてその神経症は精神分析的治療の対象とされる。では現代的な精神分析はこの不安の問題にどのように対処しているのであろうか。 精神分析においては、とても不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。「この意味で不安の存在、もしくは発現は葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2)(以上「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」)のである。しかし現代的な精神分析においてはこれに代わりより現実的で患者の側に立った議論がなされているようである。これに関して、ギャバ―ドの著書を参考にまとめてみる。(GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.)
精神分析理論において不安は中心的な位置を占める。フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。①マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものと、② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるものであり、後者はいわゆる現実神経症 actual neurosis と呼ばれる。前者は原則的には分析により治療が可能であるとしたのだ。後者は単に患者の性的活動を高めればよいことになる。 その後1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。いわゆる不安信号説で、それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号であるとした。(p.258) ギャバード先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠すが、それ自身は意識化されて受け入れられるものであるという。そしてそれの抑圧がうまく行かないと、OCDやヒステリーや恐怖症になる、とした。ギャバードさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。 超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。 Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985. しかしギャバードさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。このような古いモデルをいったん示して、「でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎないよ」と伝えるのが、ギャバードさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。
2025年3月29日土曜日
不安とパニックと精神分析 5
ギャバ―ド先生は次にphobia の問題に向かうが、そこではもっぱら social phobia つまり社交恐怖についての論述である。実は彼はかなり若いころからこの社交恐怖に興味を持っていたことを覚えている。それを精神分析的に論じることにとても高い関心を持っていた。それに社交恐怖は不安と恐怖の両方にまたがる問題を扱い、また対人関係において極めて大きな意味を持つ(それを損なうという意味でも、それをより実り多きものとするためのモティベーションとしても)。p268で彼があげている症例は、人前で自分の名前を言うことを極端に恐れるというケースだが、結局は「自分はMr.Aである」と言うことは、自分は父親(同様にMr. A)であろうとするということであり、それが不安を惹起するのだ、ということになる。 これはエディプス的な文脈で語ることが出来るという意味でも分析的な解釈が有効なケースと言えるだろう。ある研究では一般人の約20%が社交不安症(social anxiety disorder 以下、SAD)を有するということで、DSM-Ⅲで登場したこの新たな疾患は一躍、不安性障害の中で最も罹患率が高いものの一つとして注目されるようになったのだ。しかし他方ではSADを有する人の8割は何も治療を受けていないという。 Kendler (1992)らの研究では、恐怖症はいわゆるストレス―脆弱性モデルによくあてはまるという。つもり生まれつき気弱であることと同時に環境の要因が大きいということだ。(私の母親もとても不安の強い人だったが、そのため私も不安が強い方だと思う。)特に17歳以前で体験する親の死や、過保護と同時に放棄する親の姿勢が大きな要因となっているという。また養育期の母親のストレスが大きな影響を及ぼすという研究もあるという(Essex et al. 2010) 。 SADの話に戻るが、患者は大脳皮質下の活動が過剰となる特徴があるという。これはある意味では当たり前だ。人前では扁桃核などがビンビンに反応してドキドキしてしまうのだ。わかる、わかる。また「不安とパニックと精神分析 4」に登場したジェロ―ム・ケーガンの子供時代の「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」という特徴はSADにも当てはまるとギャバ―ド先生は記述する。そしてSADにはSSRIなどの抗うつ剤だけでなく、精神療法が有効であるというのだ。こうでなくちゃ。しかしCBTと比べると、後者に軍配が上がるという。そして力動的な治療者であっても患者を恐れる状況に直面化することを勧めるという。
2025年3月28日金曜日
不安とパニックと精神分析 4
そしてギャバ―ドさんの真骨頂。突然脳科学の話にスイッチする。そしてセロトニントランスポーター遺伝子(5-HTTLPR)の話になる。 彼はこの遺伝子が短い人が不安や神経症的な気質となる傾向があるという Lesch ら(1996) の研究に言及する。そうそう、そして日本人は特に短い遺伝子(SS)を持ちやすいのだ、ということも話題になったな。それらの人々は恐怖刺激に対して扁桃核がより大きな反応を示すとされる(Hariri,et al,2002)。そしてこのような遺伝子が残っているということは、不安を感じやすい人がより生存する確率が高いということらしい、とも書いてある。フムフム。 DSM-5で不安障害の分類のされ方がこれまでと違っていることについて。これも実は気になっていた。これまで不安障害の中にカテゴライズされてきた障害、例えばOCD(強迫性障害)とかPTSDがこのカテゴリーから外れるということが実際に起きていることには私もDSM-5が出された2013年から気が付いていた。結果としてOCDは抜毛症や醜形恐怖と一緒に、PTSDは外傷関連障害に分類され、今は不安カテゴリーには恐怖症、全般性不安障害、パニック障害、場面緘黙、分離不安障害ということになっている。要するに不安性障害の中身が様変わりしたのだ。それまでは神経症=不安を主訴としたもの、という常識があったが、それが大きく変わったのだ。 ギャバードさんは次にパニック障害についての記述に移る。パニックも不安性障害の一つとして従来考えられてきたものだ。これが精神力動的治療の対象となることは多いという。パニック発作がどのようなストレスにより惹起されるかについては、精神科医は常に注意してなくてはならない。パニックの患者の多くはその発症に先立ってストレスフルな人生上の出来事や死別、早期の母子分離が関係しているという。ジェロ―ム・ケーガンによる研究では、彼らは子供時代に「見慣れないことに対する行動上の抑制 behavioral inhibition to the unfamiliar 」が関係しているとする。その恐れが親に投影され、親の養育上の矛盾が少しでもみられると、その親を信頼できないと感じてしまう。すると親に怒りが向いて養育上の問題がさらに大きくなるという悪循環が起きるというのだ(p264あたり)。ここらへんに記述されているメカニズムは実はかなり深い意味を持っている気がする。親の側の養育の問題ばかりを重視するわけにはいかず、そもそもマッチングが問題なのである。後で立ち戻って考えよう。
2025年3月27日木曜日
不安とパニックと精神分析 3
実は精神分析における不安の議論は、これまたギャバ―ド先生の労作がある。これが決定版ともいえる資料なので、最初はこれをまとめる作業から入るしかない。少し億劫だがこれを機会にしっかり不安について学ばせていただくつもりだ。
GO Gabbard (2017) Psychodynamic Psychiatry in Clinical Practice. 5th edition. CBS Publishers & Distributions.
まずはフロイトから入る。フロイト(1895)は最初は不安を二つに分けた。① マイルドな形で表現され、抑圧された思考や願望によるものと、② パニックや自律神経症状を伴い、性的活動の欠如によるもの、いわゆる現実神経症 actual neurosis である。前者は原則的には分析により治療が可能であるとした。後者は単に性的活動を高めればよいことになる。ここら辺は精神分析の最初のころに学ぶことだが、フロイトの初期の説は相変わらず大胆で多分に性欲論的だ。しかし当時の精神医学界ではなんでも性に結び付けていたのだ。
1926年にフロイトは不安の概念を洗練されたものにした。そしてそれをエスからの性的、ないしは攻撃的な本能が超自我からの懲罰を受けることで生じる葛藤によるものとした。そして不安は無意識からの危険信号であるとした。有名な不安信号説である。それにより自我の防衛が発動する。その意味で不安は神経症的な葛藤の表現であり、それを意識化しないための適応的な信号と考えたのだ。(p.258)
ギャバ―ド先生によれば、不安は「自我の情動 ego affect 」であり、それはより深層の受け入れがたいものを覆い隠す、それ自身は受け入れられるものであるという。その抑圧がうまく行かないと、OCD(強迫神経症)やヒステリーや恐怖症になる、とした。(これを初めて読んだ新人のころは、「そうなのか!」と単純に信じた。)
ギャバ―ドさんは次に不安をいくつかに分け、それらを発達論的に位置づける。
超自我不安、去勢不安、愛を失う恐怖、対象を失う恐怖(分離不安)、迫害不安 persecutory anxiety、解体不安disintegration anxiety。
しかし大抵はこれらが複合した形をとる、として自身とNemiah による共著論文を引用している。
Gabbard,GO, Nemiah JC(1985) Multiple Determinants of anxiety in a patient with borderline personality disorder. Bulletin of Menninger Clinic. 49:161-172, 1985.
しかしギャバ―ドさんはこのモデルを示した後で、下層のレベルの不安、例えば迫害不安は成長につれて克服されるかといえばそうではなく、例えば戦争の原因になる、と言う。この古いモデルをいったん示して、でもこれは臨床家にとってのガイドラインに過ぎない、と伝えているが、これがギャバ―ドさんの通常の姿勢であり、私もそれに賛成である。
2025年3月26日水曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 6
ところで山崎氏は岩倉氏の業績を語る上で【分析的】心理療法と、分析的【心理療法】との違いについて論じる。とても便利な使い分けの仕方だが少しややこしいので、私はここで前者を「分析的」後者を「心理療法」としよう。(余計分かりにくいか?まあいいや。)
この後者はあえて分析的なやり方をしない(無意識、転移を扱わない)という意味で、支持療法的であり、これがいわゆるPOSTというわけだ。しかし支持療法は歴史的にみて「あえて分析的なやり方を抑制する」というようなところがあり、最初から敗北宣言をしているようなところがある。それに比べて「分析的」の方は分析的であることを捨てない週1回ということになり、これがどの程度可能か、ということがこの「週1回」の議論の中で一番の問題となる。
山崎氏が自分の仕事をまとめている部分では、自分自身の言葉であることもあり、とてもわかりやすい議論を展開してくれている。「平たく言えば、私たちは『週一回』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきたのだ、と指摘したのである。」何と正直な。 この主張が興味深いのは、「週一回」はほとんど精神分析的ではないと認める点で藤山の立場を受け入れつつ、でもそれでも・・・・というアンビバレンスがよく出ているところだ。そのうえで山崎氏は自らの立場を明確にする。それをわかりやすく表現するならば、「週一回は精神分析的ではない。それは分かった。もう精神分析と比べるのはやめよう。『週一回』それ自身が持つ治療効果について考えよう。」とでもいうべきか。ただしここは私自身の言葉で言い直したものであり、正確ではないかもしれない。 (ところでこの主張自体はよくわかるが、一つの疑問が浮かぶ。「週一回」が独り立ちするためには、精神分析的であること以外の根拠を見つけるということだろうか?もしそうだとしたら、本当にそれでいいのか。そうではないのではないか。しかしやはり分析的であることにこだわるとしたら、結局は「精神分析と比べる」ことになってしまうのではないか。まあ私見はさておき。) 山崎氏の論文は以下の結論に向かう。「週一回は分析的にするのは難しい」はもうコンセンサスであるというのだ。そしてそのうえで週一回が分析的にではなく有益であるためには、平行移動仮説の成否ではなく、近似仮説の詳細であるという。この提言はもはや若手の間で至っているコンセンサスらしいので、それを前提として話を進めてみよう。(しかし私はまだあきらめていないぞ。) この近似の一つのあり方がPOSTということだろうか。そしてそのあり方については、山口氏が以下にまとめている。それによると分析においては「分析的」では転移を集めるが「心理療法」(POST)では転移を拡散するということであるという。というのもPOSTはなるべく転移を扱わないというのが一つの方針としてあげられるからだ。そしてPOSTでも転移は起きるが、扱わずに「心に留め置く」という。他方では「分析的」は要するに準精神分析だから、無意識も転移も扱うということになる。こんなまとめで正しいのかな。まだ自信ないぞ。
2025年3月25日火曜日
不安とパニックと精神分析 2
精神分析と不安に関して著書「ブッシュ・サンドバーグ 著,権成鉉 監訳 精神療法と薬物療法 統合への挑戦. 岩崎学術出版社, 2023年」の記述の一部をまとめてみる。 精神分析においては、不安は重要視されていた。なぜなら不安は葛藤の存在を意味し、「それゆえに分析家が患者の症状の無意識の起源を探求する助けとなったからである。この意味で不安の存在、もしくは発現は、葛藤が対処されつつあることを示唆するために、有害なものではなく好ましい兆候とみなされるであろう。」「薬は有益であるネガティブな感情をとん挫させる恐れがある上に、患者の自律性と自尊心を損なう可能性があるとみなされた。」(Sarwer-Foner, 1983)(同書 p1~2) 何と「精神分析的」な考え方であろうか。このように考えると不安をやらわげるような薬、デパス、ソラナックスなどの使用はとんでもないということになる。さらには精神分析は抗うつ剤を使うことにもとても否定的だった。鬱はその人の心の同定であり、抑圧された怒りの表れであるとしたら、その問題について扱わずに症状だけ解消するという考え方はおろかであるということになるだろう。 フロイトが自らを冒している癌に立ち向かう際に、鎮痛剤を使用することを拒否したと言われるが、このようなストイックな姿勢はいかにもフロイトらしい。彼は自らの精神の清明さを侵すような化学物質の使用には断固反対したのだ。しかしそのフロイトは精神分析を創出する前にはコカインの精神作用にいち早く注目し、また自らも使用したうえで、それがあらゆる心の病にとっての万能薬であることを示唆したこともまた有名である。ここら辺の矛盾も極めて興味深い。フロイトは化学物質の精神に与える作用の限界を感じて、精神分析に上記のような風土を醸成させたのか。
2025年3月24日月曜日
関係性とサイコセラピー 推敲 5
「週一回」をめぐる議論としては、アムステルダムショック後の1998年に鈴木龍氏が週一回と週4回で転移解釈の有効性の違いについて「精神分析研究」誌で論じていたという点は興味深い。そしてここで週一回は「現実生活の現実性」を正しく評価することの重要性を説いていることも注目に値する。これらは現在の「週一回」の議論においても引き続き論じられているからだ。 しかし週一回が週4,5回よりも「現実的」というのはパラドキシカルな面があり、なぜなら週4,5回の方がよほど現実の出来事をピックアップしてもおかしくないからだ。もちろん週一回だとセッションが現実的な報告事項に費やされて、内側に入っていけないという点は確かにある。しかしそれ以外にも分析家が現実的な話をなるべく回避するという、治療者自身の態度にも関係しているのではないだろうか。
山崎氏の論文(2024、p73)にはMeltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること、Meltzer, Caper により用いられた用語)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること、飛谷氏により用いられた用語)という概念を使い分ける。そして結局は両者とも週4回で成立するのであり、週一回では難しいとする。Meltzer が主張するように、分離を体験するための密着な体験が週4回以上に比べて得られないからだ。しかし転移を扱う①~⑥のほかのプロセスは週一回でも見られると主張する。
そしてその説明のために山崎氏は転移のプロセスを以下の6つに分ける。①精神分析設定に患者が参入する。②転移が治療者に向けられる。③分離が適切に扱われる ④転移が醸成され切迫した当面性のあるものとなる。⑤転移を解釈する。⑥転移が解消して変容がもたらされる。そして週一回でも④⑤⑥は成立しているのではないかという。(p.76)(実は私はこの記述がいまひとつ理解できていない。この④~⑥は転移の解釈にまつわる部分であり、これはむしろ分析でないとおきない、という主張の方が趣旨に合っているのではないかと思うのだ。ただしこれは私の誤読かもしれないが。もう少し考えてみよう。)
山崎氏はそれを論証する上で提示されたケースにおいて「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを週一回に「平行移動」させたがそれが失敗に終わったというプロセスを描く。そこで与えた解釈は、Strachey のいう「当面性のある切迫点」においてなされたわけではなかったというのだ。(ここら辺は日本語は分かりにくいが、Strachey は、point of urgency とか emotionally immediate として表現している。転移の解釈は、その体験が身に差し迫った時になされるべきだという意味であり、患者の治療者に対する転移感情が非常に差し迫って生々しく感じられるときに解釈されることで変容性 mutative であるということだ。)
そして結局山崎氏が至るのは「形ばかりの転移解釈を投与すること」の弊害である(山崎、2024,p.21)そして週一回で必要なのは、「転移を能動的に考え、しかし転移解釈というアクションはしない」という姿勢である(同、p.24)。ウーン、そうなるとやはり⑤は週一回では入れない、ということになるのではないか?まだ私の理解が追い付いていないようだが、先に行こう。
2025年3月23日日曜日
不安とパニックと精神分析 1
不安と言えば神経症の症状の代表的なものである。そしてその神経症は精神分析的治療の対象とされる。では現代的な精神分析はこの不安の問題にどのように対処しているのであろうか? これから「大人の事情で」不安の論文に取り掛かるが、このとば口になるのがギャバ―ドさんのある論文だ。Gabbard GO, Bartlett AB (1998). Selective serotonin reuptake inhibitors in the context of an ongoing analysis. Psychoanal Inq 18: 657–72. この論文は要するに精神分析と薬物療法の接点について扱ったものだが、いきなりこんなことを言っている。米国で最初に認可されたSSRIであるプロザック(fluoxetine)を使用することで、BPDの症状が改善したことは当時は大いに話題を呼んだが、それについて。「多くの患者が自分の症状がいかに苦痛に満ちたものであるとしても、それに無意識的に抵抗している。しかし精神分析にSSRIを併用することで、彼らの無意識的な抵抗を扱うというユニークな機会が訪れる。」 ギャバ―ド先生は次のようにも言う。「フロイト以来分析家が気が付いていたのは、恐怖症の患者に関しては患者は恐れている状況に直面しない限りはほとんど前進がないということだ」(2003,p835)。 つまりこういうことだ。「精神分析では意識的な問題をあまり扱わないという不文律があることが、それにより表面的な不安や恐怖症の症状を扱わないことになっていることで、治療の効果が上げられないのではないか?」
なんか今日は短いな。忙しかったのだ。
2025年3月22日土曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 4
高野氏と類似の立場を主張する岡田暁宜氏の論文についても取り上げたい。フロイトは純金としてたとえられる精神分析に、示唆 suggestion 等の(銅のような)余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏はその比喩を受けて、「フロイトは純金に銅を混ぜるな、と言ってゐるが、銅に純金を混ぜるなと言ってはいない」と言う。そして「週一回とは『日常生活や現実に基づく』ということに利点があるのであり、そこでは日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業であり、それが『週一回』の意義である」とする。こうして岡田氏は少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。 「序説」では平井正三氏の論文も参考になった。彼は一方ではストラッキーの変容惹起性解釈についてそれを精神分析の治癒機序として挙げているが、同時に米国では「週一回」は合金でも、英国では週一と週4以上は本質的には変わらないという考えの方が優勢であると指摘している(Tayllor, 2015)。 「序説」の中で私が一番注目したいのは村岡倫子氏の「治療経過とターニングポイント」である。彼女はBohmの論文(1992)での記述「ターニングポイント(「新たな予期せぬ部屋の新しい扉が開く瞬間」)」を「治療者・患者の双方に予期せぬ驚きをもった出会いが生じる局面」と言い換える。そして村岡氏が用いている小此木の引用は貴重だ。少し長いがここに示そう。「治療者の意図を超えて与えられるか、治療者・患者間に気づかれないまま形成されている治療構造を認識し、その意味を吟味したり、治療者が意図的に守ろうとしている治療構造が偶発的ないし一時的に破綻したり、あるいは意図しない要因がそこに介入したりする場合に、そこにどんなあたらな治療関係が展開するかを理解し対応する技法などを含んでいる」(小此木の「治療構造論」からの引用。p20) 小此木先生がおっしゃっていることは(お師匠さんなので呼び方が変わる)構造は実はそれが破綻することを通じて実感されるということだ。そして村岡氏のターニングポイントも同様の契機を指している。構造が破綻しかかる時に出会いが生じる、とはある意味ではそれを活用するというところにも治療構造の存在意義があるということだろう。相撲を見ていると、まさに土俵際での攻防という感じがするが、あれはまさに土俵という境界が存在することにより生じるのだ。(土俵の真ん中で勝負がつく、ということはほとんどない、ということは考えてみれば興味深いことだ。) ところで彼女の理論は「治療構造にまつわる現実的要因」(128)に根差したものだという。その意味では上述の岡田氏の考えに近い。そしてそれがある種の治療者―患者間の出会いの契機のようなものを生むと考えている。これについては村岡氏は以下の様に記述する。 「週一回の治療を複数回のそれと比較したとき、治療外の現実の要素が大きく作用し、転移・無意識的幻想といった内的力動を生き生きと扱うのが困難であるという難点がある。だからこそ、その困難をいかにクリアしていくかが、週一回の治療のだいご味ともなるのだと私は考えている。そこで私が注目したいのが、「生きた転移」が宿る場としての、治療構造にまつわる現実的要因である。」 ただしこの種の現実は精神分析で起きてもおかしくないのではないか。週に複数回だと内的な作業が優勢となり、週1回だと外的現実がいわばその障害物として現れる、という考え方がそこにはあるが、週4回だって山あり谷ありで、偶発的なことばかりだ。ようするにそれを取り上げるかどうかという治療者の姿勢が問われるのであり、それはエナクトメントをいかに治療手段として重視するかということだ。それは週4回以上でも週1回でも変わらないのではないか。
2025年3月21日金曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 3
(前承)
私は基本的にこの藤山氏の記述に好印象を持つ。そのうえで言えば、実際に週4回でも週1回でも、それほど「供給と剥奪のリズム」を感じることはあまりないような場合も多いのではないかと思う。敢えて言えば週4回会っている精神分析の場合、「ああ、明日も明後日も、その次も4日間連続して治療者と会える。なんと満ち足りた気分だろう」とはなかなかならないかもしれないのだ。勿論そのように感じるということはまだ治療者と患者の間の十分な(陽性の)転移関係が成立していないからだ、と言われてしまえば、それまでなのだが。 もう一つの問題はこの供給と剥奪のリズムという考え方は、乳幼児の心をモデルにしているという点である。乳幼児と違って大人の私たちは相手のイメージを心に留めておける。目の前の対象が消える事は、そのまま剥奪とは感じられない。それは例えばボーダーライン心性のある人や、それこそ熱烈な恋愛関係にある人の場合には起こりうるが、ふつうは目のまえから誰かが消える事で身を引き裂かれるような思いをすることはない。それはその相手はすぐさま内的対象に移行してくれるのだ。勿論目の前の誰かがこれから二度と会えないという状態で去っていくという場合なら別だが、ふつうは心の中の対象像にスムーズに気持ちを移行させることが出来るのだ。 藤山氏の主張で特に注目するべきなのは、週一回はむしろ「難しい」という一見パラドキシカルな主張である。基本的には週一回の場合の間の6日は「何の環境的供給もない」ことや「分離という外傷的できごと、寄る辺なさ(helplessness)」(2024,p.65)に患者をさらすことであるという。そしてその場合は精神分析的な治療の根幹となる転移の問題を扱うことが非常に難しくなるという。そして「転移、特に乳幼児的な水準の関係性を帯びた物語は圧倒的な分離に吹き飛ばされ、ごく離散的に体験されるにすぎなくなる。この状況の中で『転移解釈』という関係性を帯びた物語を紡ぎだしそれを語るという行為はかなり実現困難だろうし、それに治療的重要性を与えることも現実的ではないのではないだろうか。」(同p.66)とする。 この藤山氏の議論は山崎氏の「週一回の精神分析的心理療法における転移の醸成」という論文でさらに考察が加えられている。これが私の眼にはかなり学問的なレベルも高く、それだけに容易に読み込むことはできないものの、藤山氏の議論が実はStrackey だけでなく、Melzer(1967)やCaper(1995)、飛谷氏(2010)などにより継承されてきた議論であることを伝えている。
高野理論と岡田理論
この「週一回」の議論に弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編)という著書である。この本では北山修氏、高野晶氏に加えて藤山氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導する論者たちの考察が提出され、この「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。その中でいくつかを取り上げよう。
高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その姿勢は基本的には週一回のサイコセラピーは精神分析と似たところがある、というものであり、それを「近似仮説」として提出したのである。この高野の仕事で注目すべきなのは、藤山の「平行移動仮説」を「近似仮説」により「もう一歩推し進めた」ことだという(山崎)。確かに日本の精神分析界においてはこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきで、この高野の主張は多くの分析的な療法家にとって安心する内容であろう。
この1017年の高野の提言は抑制が効き、常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。印象としては藤山が「週一回」と精神分析の間にある種の質的な相違を見出しているのに対し、高野はむしろ両者の違いを相対的(「近似的」なものとみているという違いがあると言えるだろう。
2025年3月20日木曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 2
「週一回」の議論のいわば火付け役としての役割を果たしたのが、もと精神分析学会長の藤山直樹氏である。(彼の議論は第4章「関係性以前の接触のインパクト」に詳しい。)彼は2014年に精神分析学会の会長を退く際の「会長講演」で、週4回以上のカウチを用いた精神分析による治療は、週一回の精神療法とは質的に異なるという点について論じた。この背景にあるのは、1993年のいわゆる「アムステルダムショック」であり、それまでは我が国では「週一回」がほぼ精神分析とみなされていたという背景がある。その後は一方では週一回の精神療法が週4回の精神分析とは異なるものという認識が生まれたものの、この事実に対する「見て見ぬふり」(山崎、2017)が存在していたとされる。そして藤山氏の講演はこの点を正面から取り上げた画期的なものであったということになる。
藤山氏の説を簡単にまとめるならば、週4回以上ではスムーズに、ないしは精神分析理論に沿って展開する治療が、週一回では大きな困難にぶつかる、というものである。それは端的に言えば週に1度治療者と会っただけで残りの6日間は治療を受けないという構造が非常に外傷的であり、治療においては冒頭部分においてそれを扱うことに多大な労力が割かれてしまうということだ。週に一度のセッションでは患者は情緒的に揺さぶられたまま残りの6日間を過ごすことになり、「抱えは乏しく、患者は剥き出しのはく奪にさらされている可能性がある」(p.67). 治療者としてはこの問題を扱うことが先決であり、それを扱わないことは分離のトラウマを治療者自らが否認していることにある。 この発表の中で藤山氏の有名な「平行移動仮説」という用語が示された。それは週4回以上の精神分析の実践により意味を持つ「関係性の扱い」、すなわち変容惹起的な転移解釈(ストレイチー)などが、そのまま(平行移動して)週一回の分析的治療でも行われるという考え方で、基本的には藤山説はこれを否定するという形をとっている。 藤山氏はいう。「よく誤解されるのだが・・・・週一回の価値を軽く考えているわけではない」(p.60)しかし論旨としてはやはり平行移動仮説への批判を展開することになる。その意味で「平行移動仮説」は棄却されるというのが藤山の趣旨だ。 藤山氏の論文を読むと結局は週一回の治療はできれば避けるべきだと主張しているようである。それは経験を積んだ精神分析家がより注意深く扱うことによってはじめて外傷的とならずに治療的となりうるからであるが、藤山氏は週一回の独自性や存在意義については特に言及していない。 藤山直樹氏の主張をさらに遡るならば、彼はこの「週一回」の議論に関連してこれまで2012年、2015年、2016年、2019年の4本の論考を発表している。
藤山直樹(2012)精神分析的実践における頻度一「生活療法としての精神分析」の視点.精神分析研究,56(1);15-23. 藤山直樹・妙木浩之(2012)セッションの頻度から見た日本の精神分析.精神分析研究,56(1);7 藤山直樹(2015)週1回の精神分析的セラピー再考.精神分析研究,59(3);261-268. 藤山直樹(2016)精神分析らしさをめぐって.精神分析研究,60(3)i301-307.藤山直樹(2019)関係性以前の接触のインパクト:週1回セラピーにおける重要性.精神分析的心理療法フォーラム,7;4-9
この中で一つ興味深い点は、藤山氏のこの一連の論文のうち最初のもの(「精神分析的実践における頻度」,2012年)で、週2回は、週一回より週4回の精神分析に近い、と述べていることだ。「ある意味で週2回は、週一回より精神分析の方に近いように感じられる。単に量的な面で言えば、圧倒的に週一回に近いと感じられるだろうが、私の実感ではそうではない。」(p.20)。つまり初期には藤山氏は週4回 VS 週1回という対立軸よりは、週二回以上 VS 週一回という対立軸を考えていたらしいということだ。
さて藤山氏は週4回以上の精神分析のプロセスを、患者にとってある種の特別な体験であり、「人生の一時期、覚醒時と睡眠時を丸ごと巻き込む」「ある意味『生活療法』なのである」(2012, p.18)とする。そして述べる。「分析家が」6日間の社会生活を送る患者を見る視線は、一人の大人を見る視線であり、それは明日会う患者を見る時の子供を見守る視線とは違う。」(2012,p.20)。そして「乳児的部分が十分に抱えられている設定においては、患者の心の中の関係性と今ここでの患者と分析家の間の関係性はスムーズに交流しやすい。同じ関係性が連想内容と『今ここで』と同型の反復を持つ。それは相当に病理が重い患者でも部分的には起きる。」と述べる。
2025年3月19日水曜日
関係論とサイコセラピー 推敲 1
30日間かけて書いたこの論考の下書きが終わったので、今回から推敲に入る。(といってもこれを将来どこかに発表するという予定はないが。)
この論考は我が国の精神分析学界おいて過去10年余りの間議論ないしは論争が継続的に行われている、「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関して、新たな視点から考察を加えることを目的としている。 この「週一回」の議論は日本の精神分析の世界において大きな盛り上がりと学問的な進展をもたらしたものとして高く評価できると考える。しかしその議論の全体を俯瞰した場合、ある一つの視点ないしは概念により閉ざされているのではないかという懸念がある。それは精神分析がもたらす治癒機序について、J.ストラッキー以来の転移解釈を最善のものとするという前提である。しかし現代の精神分析は多元論的であり、治癒機序に関しても様々なモデルが提案されている。転移解釈に基づく治癒機序が週4回で達成できて、週1回では無理であるという議論がもし妥当であるとしても、それが多くの患者が現実に受けている週1回の治療の価値を考えるうえでの足かせになるとしたら、それは非常に残念なことだ。そして新たな視点から治癒機序を考えることでこの議論をさらに実り豊かなものにできるのではないかと考える。 「週一回精神分析的サイコセラピー」をめぐるテーマに関しては、それを包括する内容の学術書が昨年出版され、またそれと密接な関係にあるいわゆるPOST(精神分析的サポーティブセラピー、岩倉拓、関真粧美、山口貴史、山崎孝明、東畑開人著、金剛出版、2023年)という試みについての議論も興味深い。全体として言えるのは、我が国における若手の精神分析的な臨床家たちがこのテーマをめぐって議論を重ね、一つの流れを生み出していることであり、それは非常に頼もしく、また心強い動きであるということだ。私はたまたまそれらの著述に接し、書評をまとめる過程で様々なことを考える機会を得た。それが本論考を書く一つのきっかけとなったのである。 「週一回サイコセラピー」(以降は「週一回」と略記する)の流れについては、以下の書に詳しくまとめられている。
高野晶、山崎孝明編 (2024) 週一回 精神分析的サイコセラピー. 遠見書房.
2025年3月18日火曜日
関係論とサイコセラピー 29
このギャバ―ドさんの論文を一週間かけて読んだことになるが、その成果は十分あった。視野がかなり広がった気がする。この論文の最後に、彼は以下の5項目に分けて結論を述べている。
1.治癒機序は一つではないのだ。おそらくいくつかのメカニズムの複合であり、それらのうちには私たちが知りようがないものも含まれる可能性がある。← これはとても謙虚な姿勢であり考え方だと思う。
2.ある治癒メカニズムはある人にとってしか有効でない、ということがおそらく起きているのだろう。だから「これが唯一の治癒メカニズムだ」と言いたくなるたびに、それは私たちが持つ、「不確かなことへの不安」が関係していると思うべきである。治癒メカニズムについてもう少し洗練されたものにしようとするならば、人格の機能を構成するようなもの(動機、認知、情動、情動のコントロール、対象関係)についての極めて精緻な議論を必要とすることになるだろう。(それをしないで治癒機序だけ詳細に論じることは出来ないだろうという意味だ。)
3.上に述べた介入はそれぞれが複雑に絡み合っている。例えば洞察により情緒的な制限から解放されると、より親密な関係を結ぶようになり、それによりかえって危機的な状況にさらされる可能性も増える、などということが起きる。どれ一つとして単体で働き、一つの効果を生むという形はとらない。
4.治療目標や介入のそれぞれが互いに葛藤的とならないという保証はないこと。探索的で非介入的な手法と介入的でアクティブな介入は、時には相互に抑制し合うということもあり、これまでに述べた介入を単に組み合わせるだけではうまく行かないこともある。
5.これはギャバ―ド先生の教えの真骨頂か。「精神分析においては、治癒機序については、何が治療的で患者にどのように援助するのがベストかということについて、論理的に考えることが出来ると思いがちである。しかしこれはむしろ経験的 empirical な疑問であり、何が効果があるかについては、それぞれの立場から、自分たちのそれぞれ隠された治療経験のみをもとに論じているにすぎないからだ。(中略)今後は何が治療的かを論理的に示すのではなく、証明する必要があるのである」(p838)。
2025年3月17日月曜日
関係論とサイコセラピー 28
ギャバ―ド先生は、この後4.暴露、5.自己開示、へと進む。やはり作戦としては同じだ。純粋な精神分析ではやりにくいことを列挙しつつ、分析的な精神療法の方に分があると言っているようである。
4. 暴露
不安ないしは恐怖症の場合、恐れている状況に直面しない限り、無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks を改変する事は出来ない。なぜならそれは扁桃体や視床などの皮質下の経路を含み、それは解釈などの認知的、大脳皮質的なアプローチでは改変できないからだという。そして次のように言う。「フロイト以来分析家たちは恐怖症の患者さんは恐れている状況に直面しない限りほとんど前進しない」(Gabbard and Bartlet 1998)。 ここにはいかにもギャバード先生らしい方略がみられる。分析家、それもほかならぬ彼自身が論文にしていたからこそ、彼は自己引用が出来、こうすることで分析においても暴露が必要であるという提言を精神分析家たちも肯定せざるを得なくなるのだ。自己引用を将来できるように論文を書いておく、というかなり先を見据えながらの仕事を彼はしているようだ。
そしてギャバ―ドさんは「多くの分析的な介入は暴露にかなり依存している」というワクテル(Wachtel,1997)の論文を引用している。またメンタライゼーションの論者であるFonagy, Target (2000) の次のような提言も引用する。「患者が信念 belief やファンタジーと事実を区別するのを助けるためには、一種の暴露が必要である・・・・」。
5.自己開示を含む介入
これは愛着において誤ったワーキングモデルを植え付けられた患者に対して有効であるという。それらの患者にとっては、治療者が限局的な自己開示を行うことは、彼らが人間をよりよく理解し、信頼感を維持し、情緒表現や親密さに関するこれまでと異なる表現を体験することにつながるというのだ。治療者の注意深い自己開示はメンタライゼーションを促進する、とも言いつつ、再びギャバ―ド先生は自分自身の論文を引用する。
そして6.もあったぞ。見落としていた。簡易化方略 facilitative strategy というものだそうだ。それについて書いてあることも素晴らしい。それは患者治療者の両者がより心地よく協力関係を維持できるような方策を意味し、社会的な関係の中でお互いにとって心地よいユーモアや教育的なコメント(「今日のこのセッションでこの話題について話すことは~の役に立ちます」などの説明)などを含む。語弊を恐れず言えば、治療者が「愛想よく」接するという当たり前のことだ。
2025年3月16日日曜日
関係論とサイコセラピー 27
p834 からギャバ―ドさんが論じている幾つかの「二次的な方略 strategy 」の記述が面白い。彼はまず治癒機序としては二つのことを挙げる。それらは洞察を育てること fostering insight と作用機序の媒体としての関係性 “relationship as vehicle of therapeutic action” というのだが、これらは精神分析プロパーでもっぱら用いられる。そしてそれらに加えて精神療法ではいくつかの strategy があるとして5つを挙げる。あたかも精神療法の方がこれらの二次的な作戦を自由に使えるという意味ではより広い治療的な介入だよというような言い方をしているのが興味深い。もちろんギャバ―ドさんは、最初の二つが精神分析、二次的方略は精神療法、という風にはっきり分かれているわけではないよ、とくぎを刺している。ではそれらを以下に見てみよう。
1.変化についての明白な、あるいは非明示的な示唆
suggestion
2. 機能不全にある信念や問題行動や防衛への直面化
3.患者の意識的な問題解決や決断の仕方へのアプローチ
4. 暴露
5.自己開示を含む介入
これらをもう少し詳しく説明しよう。
1.変化についての明白な、あるいは非明示的な示唆
フロイトは示唆を絶対に精神分析から排除するべきだと言ったわけだが、実際にはあらゆる解釈的なかかわりに示唆が含まれているという理論は多く聞かれる。
2. 機能不全にある信念や問題行動や防衛への直面化。
これは言ってしまえば、認知療法じゃないか、ということになるかもしれない。でもこれは抑うつや不安症状を有する患者に特に有効であるという。なぜならそれらの症状はこの機能不全な思考により、さらに永続的になってしまうからだという。ここら辺はCBTを精神分析の世界に取り入れるというギャバ―ドさんのしたたかさを感じさせる。
3.患者の意識的な問題解決や決断の仕方へのアプローチ
ここには精神分析的とは言えないかなり具体的かつ指導的 directive なアプローチを意味する。
臨床例として、ある非常に適応してはいるが上司に対して感情的な反応をした患者について書かれている。そのような場合今にもアクティングアウトを起こしかねない患者に直接「指導」やアドバイスを与えることも、時には非常に大きな助けとなるというのだ。
2025年3月15日土曜日
関係論とサイコセラピー 26
ところでギャバ―ドさんは、それとよく言われる「構造的な変化」についても論じている。すぐ分析家は無意識レベルでの解釈による構造的変化、とか言うが、実際に連合ネットワークはそれが根本から生まれ変わる、あるいは大きな変化が訪れるということは起きないのだという。だいたい古いネットワークが再編されるときは、古いパターンがある程度抑制されて新しいものに一部書き換えられるという形で徐々に書き換えられていくのであり、程度問題ということだ。古いビルが取り壊されて新しいビルになるような、旧→新へとスイッチされるというような代物ではない。
もう一つ重要な点は、2の意識的な思考,動因の変化である。ギャバ―ドさんは、精神分析では意識内容に対する、暗黙の裡の implicit 無視の傾向があるという。でもそもそも意識レベルでの思考の改変がなくては心の変化は起きようがないではないか、とも言う。「無意識の意識化」ということを精神分析が言う以上は、両者はともに重要なのだ。そこらへんはCBTと被ってもいいじゃないかということまでにおわせている(p829)。このp831~832あたりでギャバ―ドさんはこれらについて雄弁に語っているが、私にはとてもうまくまとめきれない。
p832にはそもそもこの「週一回」に関する議論にとって重要なことが書いてある。精神療法に比べて精神分析はより転移解釈を徹底するということだ。この点に関してギャバ―ドさんが書いている別の論文には、かなり皮肉なことが書いてある。 GLEN 0. GABBARD(2001)OVERVIEW AND CON\MENTARY. Psychoanalytic Quarterly, LXX., 287-295)
要するに精神分析は精神療法と同じような治療目的を掲げていると大変なことになってしまうと。「治す」ということに対して精神分析が精神療法と一緒に競ってしまうと、そのうち精神分析に訪れる人たちは分析家の訓練生に限られてしまうよ、というのである。(同論文p,288、Owen Renick の論文の引用により。)
2025年3月14日金曜日
関係論とサイコセラピー 25
それにしても私にとってのギャバ―ドさんは高知能の一つの到達点という気がする。(しかも彼は両親が俳優であったということもあり、若いころは実にイケメンだった。)そして彼の論文の書き方についてもその高知能ぶりがうかがえる。彼の論文は査読した人のだれもがそれぼボツにできないような書き方がなされている。だれも反対のしようのない構成をしているのだ。重要な提言はその一つ一つに典拠が示されている。またどの理論についても真っ向から否定せず、むしろそれを弁証法のもう一つの極として取り込むという姿勢に表れる。 彼はかなり関係論的な見方をする人であることはよくわかっているが、古典的な解釈中心の考え方もその有用な部分を見出し、それを取り込むのである。しかしこれは利点ではあっても欠点にもなりはしないか。彼のそのような意図をわかっていないと、何を言っているのかわかりにくい。多くの人にとってどっちつかずの wishy-washy な印象を与える。
ギャバ―ドさんはしかし彼の主張の根拠をしばしば最近の神経科学の知見におくという形でそれを盤石な形に仕上げる。「何と言っても現代の科学の進歩がその信憑性を証明してますよ」と言われると査読者としても反論しようがないではないか。
彼は精神分析にとって大切なのは次の二つだという。
1.無意識の連合ネットワーク unconscious associational netoworks の改変
2. 意識的な思考、動因、感情統御のパターンの改変
ここで1の連合とはどのようなものかと言うと、a.問題となるような情緒反応、b.問題となるような防衛反応、c,機能不全の対人パターンのトリガーとなるもの、であるとする。
このうち例えば情緒的な反応については、自己イメージと嫌悪感が結びついている場合を例に挙げている。これは無意識の連合ネットワークの一つの例だ。あるいは男性とみると怖い父親をすぐに思い出すとかの例も挙げられている。
2025年3月13日木曜日
関係論とサイコセラピー 24
ギャバ―ドさんの論文、読みだすととにかくすごい。p825あたりから訳しながら読もう。彼は分析において患者にとって重要なのは、患者が無意識に繰り返しているパターンの理解を助けることだ、という言い方をする。確かにここまで抽象化するとフロイトの反復強迫のモデルにも、トラウマモデルにもこれを応用できる気がする。「ヒアアンドナウの転移解釈」にこだわる必要もなくなるだろう。しかしそこで治療関係が決定的に重要になるというのだ。そしてフォナギーたちに倣って言うのは、「治療において患者が治療者のこころに自分を知覚 perceive し、同時に治療者を異なる主観として把握すること」が重要であり、それはジェシカ・ベンジャミンの間主観性の理論にも関係するという。ここら辺のくだりは、ギャバ―ド先生がフロイトの精神内界モデルと関係モデルを融合するという試みを感じさせる。 ギャバ―ドさんの分析のモデルはあくまでも統合的だ。患者の変化は自分の繰り返すパターンについての意識的な理解と同時に Ryons-Ruth の言う implicit relational knowing 暗黙の関係的な知 がそこに生じており、それが 「 出会いのモーメント moment of meeting」により生じるとする。ここら辺は日本では故・丸田俊彦先生がよく論じておられた。そしてそれが生じるためには「分析における境界は特定の分析的な二者により異なる文脈的な問題に関係していなくてはならない boundaries as fluid and related to contexual matters in a particular analytic dyad (Gabbard and Lester, 1005)」(p825)。ここら辺は柔構造(岡野,2007)の概念ともつながるな。そして治癒機序とは何かを応用しようとすることからは程遠いこと、そして常に個別化されなくてはならないこと(ミッチェル)、を強調する。 ギャバ―ド先生の本を読むと本当に一行ごとに膝を打ちたくなる。膝が青痣になるくらいだ。p826にはこんなことも書いてる。簡単に訳すと「結局分析において何が奏功するのかについて唯一のものはない。そしてそれは私たちを謙虚にする。治療者は何も知らないし、患者が治療者は知らないのだ、と知ることこそが変容的だったりするのだ。」「その意味では非防衛的non-defensive な態度こそが重要である。」その通り!(パチン)
2025年3月12日水曜日
関係論とサイコセラピー 23
さて1について論じる際次の論文を参照する。なぜならこの論文の著者 Gabbard 先生はかなり私が言いたいことを言ってくれているからだ。 GLEN O. GABBARD and DREW WESTEN (2003) Rethinking therapeutic action.Int J Psychoanal 84:823–841
彼は現代の精神分析においては、多元主義的な考えが受け入れられ、「治癒機序 therapeutic action に関しても、解釈のみが、分析家の矢筒の中に入っている唯一の矢であるとは言えない状況にある」という(p823)。うん、いい感じだ。そして Loewald はすでに1960年に、分析家のスキルだけではなく、分析家と患者が「新しい対象関係」を築くことが大切であると言っているという。そしてそれは変容性の解釈を論じたStrachey 自身も暗示していたという。それは治療者が新しい対象として患者の超自我に内在化され、その超自我の過酷さを変更するのだ、と言っているという。Strachey がそもそもテクニックに頼っていなかったんだ、というのが Gabbard 先生がよくおっしゃることである。そして現代の精神分析では以下の3つが起きているという。
1.「解釈か関係か」の議論はあまりなされなくなっていること。
2.強調点は再構成から患者と分析家の「今ここでの交流 here and now interaction 」にうつったこと。
3.治療環境 therapeutic climate の交渉 negotiation の重要さが強調されるようになっていること。
そして例の Wallerstein のメニンガー・プロジェクトの結果を引用する。つまり「支持的なやり方も解釈的なやり方も同様に永続的な構造的な変化をもたらした」というものだ。(私もこのWallerstein の提言をいろいろなところで引用している。)
また Fred Pine (1998) は変化のメカニズムは常にindividualized されるべきであるということを言っているとし、その際エナクトメントの概念が重要である点についても強調している(p825)。もうここら辺でお腹いっぱいである。「今ここでの関わり」と言ったらその議論は昨今のエナクトメントの概念に最も集約されているからだ。
2025年3月11日火曜日
関係論とサイコセラピー 22
このように考えていくと、私自身が週一回の問題に関して言えることは次のようにまとめられるだろう。
1.ストレイチー~ギルの理解に沿って、治癒機序をヒアアンドナウの転移解釈とするならば、週4回と週1回の差に関する藤山~山崎の理論は概ね妥当であろう。
2.ただし転移解釈が治療的に持つ意味については、おそらく治療の頻度を超えた、状況依存的な面があり、それは「解釈は意識レベルに近いものから、無意識レベルの介入には注意すべし」という原則にまとめられるのではないか。つまり転移解釈を一つの典型とする精神分析における解釈一般に言える原則は週一回でも4回でも同様に当てはまるのであり、両者に質的な違いを設ける根拠は薄いのではないか。
3.1,2は解釈モデルに準拠した理解であるが、最近では治癒機序自体が数多く提案されている。基本的には出会いや関係性、それを理解するツールとしてのエナクトメントが注目を集めている。そこでは出会いの質が問題とされる。週4回にはそれなりの、週1回にもそれなりの出会いがあり、それぞれが治療への応用可能性を持つと考えるべきか。
2. に従うと、やはり週1と週4との違いは相対的な問題ということになる。「解釈は意識レベルに近いものから」の原則は頻度に関係なく言えることだからである。週4回でも意識レベルに遠ければ解釈には時期尚早であり、週1回でも解釈の機が熟している場合には解釈が妥当となるのだ。そして、1,2のもととなっている「治療者は患者の無意識を知る特権的な立場にある」という原則自体は実は解体されつつある。それは関係精神分析の基本的な立場なのであり、私自身もそれに同調している。
2025年3月10日月曜日
関係論とサイコセラピー 21
さてAさんの身に起きる可能性のあることを分類してみる。 1. Aさんの心が伝統的な精神分析のやり方により「変容」し、人を信頼できるようになる。 2. Aさんが職場の上司を信頼できるようになる。 3. Aさんに上の1,2のことが同時に起きる。 4. Aさんは結局人(治療者、上司を含む)を信頼できるようにならない。
さて現実問題としては、4が一番起きる確率が高いのは致し方ない。ただしこれもケースバイケースである。本当に心の底から他者に不信感を持った人の場合、おそらく何が起きても心から人を信頼できるようにはならないだろう。そして次に起きる可能性が高いのは、私の考えでは2である。つまり上司がAさんに対して親身になって、親代わりのように辛抱強く、気長に接することでAさんは変わるかもしれないのだ。そして1はぜひ起きてほしいものの、2に比べてあまり起きない気がする。何年かの「純粋な」分析治療により人がそのような大きな「変容」を遂げるということは私は身近には体験していないのだ。勿論そう言い切ることは出来ないが、例としてはまれではないか。 ラルフ・グリーンソンは高名な精神分析家であり、マリリン・モンローの分析家だったことでも有名だ。しかも彼は分析家でありながら、伝統的な分析家らしくなく、モンローに対してそれこそ大変な「持ち出し」を行った。家族の一員の様に接することも含めて。何しろ彼にとっての特別患者だったからだ。でもその結果はどうだろう? 彼女は結局オーバードースでなくなってしまったが、彼女の人を信頼できないという問題は最後まで残っていたと考えるべきだろう。そしてそれは精神分析にそれだけの限界がある、というよりはそれほど彼女の抱えていた問題は大きかったということだ。つまりモンローの場合も上の分類では残念ながら4に該当するのだ。 精神分析の歴史を振り返れば、分析家のシャンドール・フェレンチは、治療における大実験を行った人として知られる。それこそ何人かの患者に対して大変親身になって、大きな「持ち出し」をしつつ治療を行ったが、それでも彼の側の逆転移の問題もあったせいか、彼の患者さんの多くは余計問題が深刻になってしまった。 かつての分析家は劇的な治療効果を目指し、またそれが実際に生じたかのように論じたが、実は現実はそうは甘くなかったのだ。この週1回か週4回か、どちらがヒアアンドナウで転移を実際に扱えるかという問題も、実はそのような現実を背景にして。かなり醒めた目で論じるべきなのである。
2025年3月9日日曜日
関係論とサイコセラピー 20
こうやって考えていくと、ますますこのテーマは分析家のナルシシズムの問題に行きつくのだが、それはさておき。 ギャバ―ドさんが言っていた、「精神分析の目標は患者が治療の外部で出会う人との関係を理解することである。」という言葉に私は触発された。これで昨日私が書いた内容についても、少し自信がなくなってきたぞ。 思考実験のために具体例を考える。あるクライエントAさんが他人を信用できないとする。「結局人は自分を搾取するのだ」と思え、その例外に出会ったことがないのだ。そのような疑念をそもそも親に対しても持っていたとしよう。つまりこの人間不信は幼少時に根差している、いわば筋金入りのものというわけだ。 さてそのクライエントが職場で、ある程度は信頼できる上司に出会った。そしてその人が信頼に足る人かどうかについて知りたいと思うようになった。そのAさんは同時に精神療法を受けている。もちろんその精神療法家は信頼に足るかどうかも、Aさんにとっては大きなテーマだとしよう。 ここで考える。Aさんがその上司が本当に信用に足ると思える体験と、その療法家を信用出来るようになる体験とどちらが永続性があり、そのクライエントにとって変容的 mutative と言えるだろうか? ストレイチーならきっと次の様に考えたであろう。「もちろんその療法家との転移を解決することが根本的である」と。その具体的な手法としては here and now での転移の解釈を行うことである、というだろう。それがどのようにして可能かと言えば、週4回以上の濃厚な「家庭」(藤山、2012)の雰囲気で転移関係が深まることが前提であり、患者の無意識レベルでの動きが解釈により意識化されるのだ、ということになる。そしてその無意識レベルまで到達できることで真の「変容」が生まれるのだが、それを可能にするのは精神分析以外にはない、ということになるだろう。 でももしそうなったとしても、その分析家は治療構造は決して崩さないであろうし、長くても数年で治療は終結し、両者の直接的な接触はそれ以降はなくなる。(と言うより終結後の再会は基本的にはご法度である。) ここで重要な点は精神分析により「変容」が起きれば、それは治療外の人間関係にも変化を及ぼすであろうと、精神分析理論からは考えられるということだ。少なくとも理論的にはそうだ。 他方職場でのAさんと上司との関係について考える。その上司はAさんと家族の一員のようにして接し、それなりの「持ち出し」をするだろう。その上司の息子はかつて事故で不慮の死を遂げたが、おそらくその亡き息子に対する思いをAさんに投影している可能性がある、ということにしよう。つまりその上司のAさんの思いにこたえようとする本気度には、それなりの根拠があるのだ。そのぐらいでないと、A氏の筋金入りの人間不信を変えるには至らないだろう。その上司はその意味ではかなり中立性を欠いて、Aさんに膨大な「持ち出し」を行う可能性がある。しかしもちろんその上司はAさんとの治療関係にあるわけではないので、中立性などどうでもいいことだ。そしてAさんとはそれ以後も長い付き合いとなる可能性がある。よほどの事情がない限り、簡単に「終結」などすることは考えられない。 ただしその上司は搾取的ではないから、Aさんがやがて自分の元を離れて新しい人生を歩もうとするときには、それを支持してくれるだろう。さもないと、その時までに成立していたであろう信頼関係は崩れてしまう可能性があるからだ。
2025年3月8日土曜日
関係論とサイコセラピー 19
その後ギャバ―ド先生の「精神力動的精神療法」(岩崎学術出版社、2012年)を読み直す。この本には「ヒアアンドナウ」についての言及があるが、p80,81あたりにはかなりハッキリ彼自身の考えが書いてある。わかりやすく言うと、次のようなことだ。 「転移解釈が理想化される傾向にあるが、恥ずかしくてばつが悪いので、それを話したがらない患者もいる。しかし目標は患者が治療の外部で出会う人との関係を理解することである。転移解釈はその手段に過ぎない。」 つまりは最重要課題は、現実での関係性、というわけだ。これは精神分析のオーソリティが聞いても決して良い気持ちはしないだろう。私はメニンガー時代からのギャバ―ド先生をよく知っているが、本当に本音で語ることのできる分析家、というより人間だ。彼の書いた分析に関する文章で違和感を持ったことは覚えている限りは一度もない。むしろ「ここまで言ってくれるのか!!」と感じる事ばかりである。
この問題についてどこかで私は次のようなことを書いた記憶がある。
「大抵の分析家は、自分のことをヒアアンドナウで扱うことに難しさを感じるものだ。誰だって自分の感情を扱うのはもっともストレスフルだからだ。分析家にとっては、患者が会社の上司に対して持っている怒りを扱うことは比較的たやすい。ところが分析家が自分に向けられた怒りを同様の平常心で扱うことは非常に難しい。ある意味で分析家はいくらトレーニングを積んでも、やはり治療内よりは治療外での患者の感情についてこそ、よりよく扱えるものだ。
勿論それを扱えるようになるためには自分自身の逆転移を十分に分析する必要があり、そのために教育分析を受けるのだ、とフロイトは考えたのだろう。しかしそれでも理想と現実にはギャップがあるのだ。
ただし間違ってほしくないのは、ヒアアンドナウはとてもパワフルな治療の機会であるということだ。治療者自身が患者に向けられた様々な感情を冷静に扱うことが出来たら、患者とその治療者との信頼関係はより深まる。そして私は心からそのような治療者になりたいのだ。
そう、私の中で「ヒアアンドナウ」神話は実は生きているのである。しかし同時に思うのは、教育分析を受けることでそれを十分に扱える保証はないということであり、教育分析を受けなくても自分自身の感情に向き合える人はたくさんいるということである。
2025年3月7日金曜日
関係論とサイコセラピー 18
POST(2023)について読んでいくと、「週1回」をめぐる議論と表裏一体という気がする。山崎氏による序章では、POSTの概念(というよりは用語)が生まれる背景が分かりやすく書かれている。まず分析らしさとしては、フロイトの1914年の言葉を引用する。「転移と抵抗を扱う実践はすべて精神分析を自称する権利がある」。これ自体は頼もしい言葉だ。週1回でもOKなのではないか、という気持ちを起こさせる。しかし週4回という高頻度だから治療者患者間の関係性を扱えるのであり、そこでは濃厚な「家庭」(藤山、2012)の雰囲気が濃い。それに比べて週一回では「関係性を扱うことが難しい(というより正確には、扱おうとしても無理をして扱う形になりがちである)、ひいては『精神分析的にするのが難しい』ということになります。」と書かれており、やはり同じロジックに出会う。そして山崎氏は本音を吐露する。「精神分析は、単なる治療ではない。治療以上のものである」という提言は何かかっこいい、という。実は私も正直その通りだと思う。精神分析の持つ「本物」感。そしてそれは常人(治療者も患者も)には容易に通過できないような関門を通ってこそ成し遂げられる。私も分析家になることを一つの目標として渡米した時はそう考えていた。 しかし、と山崎氏は言う。「それは患者が求めているものなのか?(それは必ずしも精神分析ではないだろう。)」ここら辺の理屈は至極真っ当である。 真っ当と言えば、15ページにある山崎氏の主張もそうだ。「『コントロールしようとすることはよくない』という精神分析的価値観とユーザーの適応やQOLを向上させようとする志向性を持つPOSTの実践がバッティングするのです。」(p15)要するに精神分析は患者に治療の方向性を任せるという形をとりつつ、結局は分析家の主導で事を進めるのではないか、ということだ。そうなんだよねえ。 p17に出てくる「精神分析主義」と「心理臨床主義」という対立概念も面白い(p17)。そして山崎氏は、自分は精神分析に肩入れをする一方では、精神分析を「絶滅危惧種」とも呼ぶ。これは「父親」に対するアンビバレンスそのものである。そして20ページ目でまたもや本音。「[テレビドラマの]俳優が歌舞伎のエッセンス日をごろの仕事に生かすことは不可能ではないはずです。」
これで思い出したのが、最近のすし職人の話。シャリを握るだけで何年もの修業が必要であるはずなのに、近頃は数週間ですし職人を育成するということが起きているらしい。そして店を出した寿司屋がそれなりに人気だったりする・・・。 おっと、この比喩は少し危険すぎるか。しかし精神分析の草創期にはかなり短期間のフロイトのかかわりだけで分析家になった人もいたのも確かである。 山崎氏の、「訓練分析を受けていないと転移・逆転移を扱うのが難しい」という考えについては、少し疑問を感じる。これもケースバイケースだからだ。「それを言ったら肝心のフロイトは分析を受けていたの?」となる。ただし私はすべての医療者は、自分が受ける立場を体験することはとてもいいと思う。出来れば体験入院くらいはしたいものだ。(昔の米国の精神科医はそうしていたといううわさを聞いた。) 山崎氏の精神分析の民主的ではない(権威主義的な)側面とPOSTの民主的な側面との違いというのも面白い。
2025年3月6日木曜日
関係論とサイコセラピー 17
POSTにおける解釈の意味について考えよう。それが転移を扱うか否かの問題はとても重要なのだ。POSTにおいては「『無意識の意識化』や内省の促進を期待するのではなく」、「『前意識の意識化』によって自分自身や自分のパターンの認識が広がり、結果として他のPOST技法と同じく発達促進的に作用する」事を目指すという(p178)。そしてここでPOSTにおいて用いる解釈について、「心に留め置く」解釈と「伝える」解釈を区別する。 そしてこの辺は少しややっこしいが、「心に留め置く解釈」には「今、ここでの転移解釈」が、「伝える解釈」には一般的な解釈や転移外解釈が含まれる。この伝えるか伝えないかに関しては、Roth(2017)のレベル1~レベル4の転移解釈のレベルの考えを援用している。1、とは転移外解釈、2は非特異的転移解釈、3は今、ここでの特異的解釈、4は逆転移を含みこんだ理解に基づく3,ということになる。このレベル1→4とは結局どれくらい深いか、どれくらい無意識レベルに踏み込んでいるか、ということになる。そしてPOSTが、1,2についてのみ「伝え」、3,4は「心に留め置く」ということは、1,2は前意識レベル、3,4は無意識レベルということになる。 ここで少し理解しずらいのは、「今、ここ」の解釈は3に属するからPOSTでは扱わない、という点である。たとえば「だれかにそばにいてほしいと思っていたのですね」は2,だが「ここで私にもそばにいてほしいと思っていたのですね」だと3になり、それは伝えない、ということになる。これは少し画一的すぎるという考え方も成り立つであろう。今ここで、ということをGill が言い出した時、それはもっとも切実かつ情緒的な意味合いを持つものとして論じられたはずだ。それをPOSTでは用いないというのは少しもったいない気もするのである。
2025年3月5日水曜日
関係論とサイコセラピー 16
さて順番が違うと思うが、昨今話題になった著書POSTについて改めてひも解いてみよう。POST(精神分析的サポーティブセラピー、岩倉他著、金剛出版、2023年)の内容を見ると、明確にこれを「分析的でない』とする方針を打ち出していることは意外である。POSTは以下のように定義されている(p4)。
①目標は患者の適応状態の改善である。
②無意識については扱わず(言及せず),意識を大切にする。
③転移一逆転移についての理解は治療者の心の中に留め置く。
④見立てや理解は常に精神分析理論に基づく。
⑤患者の自我に注目し,自我を支持する,つまり退行抑止的に関わる。
⑥自我にかかっている負担軽減を目的として,必要に応じ環境調整やマネジメント作業を行う。 ⑦自我を支え,補強することを目的として,励まし,助言などの直接的な介入も用いる。
⑧転移を扱わないため,治療構造や頻度,終結についての扱いは柔軟で多様である。
ウーン、転移をここまで切り捨てているとは思わなかった。これでも「精神分析的」サポーティブセラピーと言えるのだろうか。転移、逆転移は、治療者は心には思っても扱わない(言及しない)とある。かなりあっさりと転移を扱うことをあきらめた感がある。このことは改めて論じなくてはならないが、ここにはある古典的な前提がある。
「治療者は患者の無意識を(患者より先に)知っている。しかしいきなりそれを言葉にされても患者にとっては侵入的と感じたり、理解不能である。本当は患者の無意識にまで踏み込んで、変容を惹起したいところだが、それはPOSTの目的には反する」ということになる。
これは大変だ。どこから話していったらいいのだろう?
まずはたとえ話から。患者は治療者を父親のように感じて恐れているが、それに気が付いていない(無意識的である)としよう。治療者はそれをどうやって知ることが出来るだろうか、ということが問題だが、まあ知ることが出来たとする(というよりそれが事実であったと仮定する)。治療のプロセスでいろいろ紆余曲折があったとして、患者は最終的にヒアアンドナウの解釈により「ああ、先生のことを父親のように恐れていたんだ」と理解し、合点がいったとする。これは週4回でも週1回でも望ましいプロセスと言える。そしてそのようなプロセスは週4回では週1回より起こりやすいかもしれないが、これもケースバイケースである。頻度が低くても起きる可能性はある。 つまりヒアアンドナウによる解釈が時宜を得たものかどうかは、治療の形式だけでは一概に決められないのだ。何しろ週4回でも一向に深まらない場合もあるのだから。だからPOSTと言えども最初から転移を扱わないと決める必要はないのではないか。治療はあくまでも文脈依存的なのだ。さもないとPOSTも転移もかわいそうだ。そしてそれをどの程度扱うかどうかは治療の進展具合により判断していくものだろう。週4回でも週1回でも、時期尚早なことはしない。これは当然のことである。
2025年3月4日火曜日
関係論とサイコセラピー 15
この文脈でヘンリー・ピンスカーの「サポーティブ・サイコセラピー入門」(秋田、池田、重宗訳、岩崎学術出版社,1997) を久しぶりにひも解いてみる。ここにはさぞかし「週4回でないなら、転移はあまり扱わない」ということが強調されているかと思いきや、案外そうでもない。まずピンスカーの言うサポーティブセラピー(支持療法)のエッセンスは私も承知している。これは私が好きなものだ。 「サポーティブ・セラピーは、症状を改善し、セルフ・エスティームや自我機能、適応スキルを維持、回復あるいは改善させるための直接的な方法を用いる。」 そしてそう言う一方で、転移ということについて論じている個所はとても多いとは言えない。つまりこういうことだ。サポーティブ・セラピーにとっては、もう転移云々はあまり関心がないのである。彼らは治療は患者のためになればいい、と思っている。(そして確かに治療は第一にそうあるべきである)。そこに転移を通しての自己理解,などのことは、そもそも優先順位から外れているようなのだ。エビデンスに基づく治療においては、患者が望むのは「自己が変容すること」とはかなり別のことという理解は、もう前提となっているのであろう。 ただしピンスカーの本ではいわゆる表出的、と支持的、という区別に関して論じてはいる。というのも「支持的」という表現の対概念は「表出的 expressive」 であり、表出的、とはつまり分析的(ブンセキ的、と言ってもいい)、ということなのだ。つまり解釈を含んだ本来の分析的な手法との関係については論じていることになる。 ピンスカーの本をさらに読んでいくと、表出的とは「当初は患者の意識外にあるように見える思考や感情に注意を向ける」とある。つまり精神分析的な治療とは「転移解釈」というよりはもっと一般化して「(解釈により)無意識を扱う」と理解でき、それよりも意識レベルを扱う手法として支持的療法を定義づけているのだ。 少し言い直すとこうだ。ピンスカーの支持療法とは「週4ではなく週1だから支持的」というよりは「解釈的ではなく支持的」という意味だ。まあ支持療法では週1,2回が普通であろうが、場合によっては週4回であっても支持的でありうる、ということか。いずれにせよピンスカーの本では「頻度が低いから分析的にやらない(やれない)」という文脈がどうしても薄いのだ。我が国で起きている週4だから転移解釈OK、それ以下なら転移解釈は無理、という議論がどうしても明確には見えてこない。むしろ支持的にやるのが患者の(少なくとも意識レベルの)望みにかない、それを行うのに週4回セッションを行う必要は必ずしもない(それに患者の側もそこまでの金銭的、時間的負担は通常は望まない)というニュアンスか。
2025年3月3日月曜日
関係論とサイコセラピー 14
そのほかの立場はどうだろうか?グレン・ギャバ―ド 先生の「精神力動的精神療法」(池田暁史訳、岩崎学術出版社)は、転移についてかなりの個所で述べているが、あまり精神療法において転移を扱うことの難しさについては論じていない。彼は現代における長期精神力動的精神療法を以下のように定義づける。「治療者―患者間の相互作用に細心の注意を払う治療で、二人の場への治療者の寄与を巧みに理解し、そのうえでタイミングを慎重に見計らって転移解釈や抵抗解釈を行うもの」(p3)。「転移解釈」も「抵抗解釈」とならんですんなりと入って来る。彼が述べる力動的精神療法の基本原則(p4)にも「患者の治療者に対する転移が主な理解の源となる」と書いてあるが、その後ろに「治療過程に対する患者の抵抗が治療の主な焦点になる。」ともある。どうやら転移解釈に至らない場合には患者の抵抗を扱うべし、それでいいのだ、ということを言わんとしているようだ。「転移解釈」は錦の御旗であり、分析的である以上それを掲げないわけにはいかないが、それのみの達成のために一直線に行くべきではないということだ。 ギャバ―ド先生は転移の解釈については次のような警句を発している。「原則としてセラピストは転移の解釈を患者の気づきに接近するまで先延ばしにするべきだ。」「セラピストによって与えられる解釈はめったに劇的な治癒をもたらさない。」 ウーン、海外のサイコセラピーの本を読んでも、週4だから転移を扱い、週1だからそれは無理、ということがなかなか出てこないのだ。その代わりに出てくるのが、ギャバ―ド先生のような慎重論。「転移は機が熟するまでは無理に解釈をしないように」。 実は週4回でも転移がなかなか生じないことがあるし、週1でもしっかり生じることがある。問題は量より質、という感じか。そして転移が生じなくても、それに対する抵抗を扱えばいい、というロジックである。ここら辺でよいのではないか、と言う気もする。
2025年3月2日日曜日
久しぶりの英語論文
臨床をすると同時に研究に携わっている者には、本や論文の出版は記念すべきことである。特に論文はそれがアカデミックな成果の証という意味では特別の意味を持っている。「ちゃんとまじめに勉強もしている」という風に自分で思いたいからだろう。しかし論文掲載までの道は遠い。とりわけそれが英語の論文であれば。
ということで私も英語論文で掲載されたものは数えるほどしかない。書いてはボツ、直してもボツ、最後はあきらめる、ということの繰り返し。めでたく受理されて掲載、というのはまれな出来事だ。しかし先日そのなかなか起きないことが起きて、英語の論文(といっても短い症例報告だが)が掲載された。
最近の英語論文は open access 流行りである。これは誰でもタダでダウンロードできるシステムのことである。そのかわり著者は膨大な掲載料を取られる。いわゆるハゲタカジャーナル(大した査読もなく、営利目的でオンラインで著者に高額をチャージして多くの論文を掲載してしまうジャーナル)ではなくても、それを支払わないと掲載しません、と編集部に迫られ、著者としては泣く泣くその掲載料を払うのだ。Nature や Science のような高名な雑誌に掲載されるために1000ドルあまりを著者が負担することになる。
ということで私も短いこの論文の掲載に1000ドル以上支払うことになった。うまくできたシステムであるが、どの程度営利目的なのかよくわからない。