2020年3月31日火曜日

揺らぎ 推敲 30


これまで主として物質に見られる揺らぎについて述べてきたが、揺らぎの問題は結局はランダム性や予測不可能性に通じているということを、ある程度はお伝えできたのではないか? そう、世界が揺らぎで構成されるということは、世界での出来事は、そして人の心は基本的には予測不可能な「ランダムウォークrandom walk」であることを意味するのである。

ランダムウォークと予想不可能性

ランダムウォークは今では「ランダムウォーク理論」として確立しているが、もともと酔っ払いの千鳥足のことである。「酔歩」という訳語もあるくらいだ。つまりどこに向かうかが全く偶然に、アットランダムに決まる場合、その人はどこに行くのか。おそらく私たちの多くがイメージするのは、「結局その場を足踏みするのではないか、あるいはその周囲をうろうろするだけでどこにもいかないのではないのか?」ということである。
このことを少し数学的に表してみよう。ある酔っ払いの代わりにコイン投げを考える。何度もコイン投げをして表が出たら一点をプラスし、裏が出たら一点マイナスとする。そして一回ごとに変わる点数を縦軸に、横軸にはコイン投げの回数を取ってみる。


皆さんに変わって私がそれを描いてみた。大体こんな感じになるのではないか。表と裏が出る確率が半々だとすれば、その累積点数は結局ゼロの周辺をうろうろするであろう。現実がこのように動いてくれるならば、大体このコイン投げのゲームの結末は予想がつくということになろう。勿論少しのプラス、マイナスはあるだろうが、それも誤差範囲ということだ。
ところが実際の例では以下のようになる。といっても10人の人を集めてコインゲームをしてもらったわけではない。コンピューターを用いて乱数をもとに仮想上のコイン投げを一万回してもらったわけである。するとその結果は以下のとおりである。


この図からわかることは、コイン投げを一万回試行してもらっても、その結果はこれだけバラけてしまうということだ。それぞれの点数が揺らぎを持った曲線を描き、ゼロに収束するどころか離れて行っているようである。ことから皆さんが気が付くことは、ランダムウォークは偶発性に基づきながら、一見何らかの規則性を有しているという印象を与えるということだ。もしこれがチンチロリンを複数の人がやった時の成績だとしたら、一番上の黄土色の人は明らかにその名手であり、他の数人よりぬきんでて得点を稼ぎ、それでも成績の上下は伴っているということになる。そしてこの得点の総計の上下のラインは、まさに揺らぎを有しているのだ。そしてこの思考の最初には、誰も自分がどのような点を獲得するかは一切わかっていなかったということである。なぜならこれはすべてコンピューターが作り上げたものだからである。しかしそれでも私たちはこの揺らぎの向かう方向に何らかの法則や規則性、原因を見出さないわけにはいかない。
世界が揺らぎにみちているということは、この世界の出来事には実は原因や規則がないものが多く、その意味でランダム性に支配されており、将来を予想できないという事である。このことに人類は徐々に気が付いてきたわけであるが、最近になり、揺らぎという考えかたへの注目と共に、それが明らかになりつつあるというわけだ。そしてそれ以前は、人類はみなことごとく運命論者であったと言えるだろう。「未来は決まっている。ただ人間はそれを知らないだけで、全知全能の神ならそれを知っている」と考えたわけだ。そして精神の高みに至った人のみがその未来を予言する力を得るとも考えられていた。あるいは科学の発展によりそれをより正確に予想できると考えた人もいただろう。
しかしその科学がある程度進んだ段階で、私たちは世界が不確定性に支配されていることを知るに至った。あらゆる出来事の根底にランダム性があり、未来は原理的に予想不可能なのである。たとえば半年後の今日、空が曇っているか快晴かは全くといっていいほど予測が付かない。チンチロリン(どんぶりとサイコロを用いた一種の賭けごと)で小銭を儲けようとしても、一回振るごとに次はサイコロのどの目が出るかはわからない。あるいは今日の夕方東京発650分の新大阪行きの新幹線が、途中で事故もなく目的地に定刻に着けるかは、実際に乗車してみないとわからない。ましてや今世界じゅうがコロナウイルスに震撼するような事態を、一年前にはだれも予測していなかったのである。

2020年3月30日月曜日

あるエッセイ


脳と心のあいだを揺らぐこと

未だに私たちに巣くう心身二元論

以前から気になっていることだが、私が臨床の話をしていて脳の話題を持ち出すと、聞いている人たちから当惑の眼差しを向けられることが多い。私としては心の話をしていても、脳のことには時々気配りをしながら話していることを示すつもりだが、あまり理解を得られないのである。
私は精神科の医師であるから、初診で深刻な鬱状態を体験している患者さんの話に共感的に耳を傾けても、最終的には薬の処方を考える立場にある以上、心と脳を同時に考えることはむしろ仕事上要請される。もちろん心の問題と脳の問題を考える際には異なる視点に立った、異なる心の働かせ方を必要とするという感覚はある。だから両者の話を交えて人と話す時は、何か相手の話の腰を折ってしまうようで、後ろめたさを覚えることもあった。しかし両者の視点のあいだを常に揺らいでいることは、やはり重要なことだと、最近開き直って考えるようになった。その理由を以下に述べたい。
ひとつには、聞いている人を当惑させるのは、脳の問題とこころの問題を一緒に論じることに留まらないということに気が付いたからだ。私達は異なる文脈にある議論を敬遠しがちだと思う。例えば精神分析的な考察をしているときに、「この患者さんには認知のゆがみが…」とか「行動療法的なアプローチがいいかもしれません」というような話をすると、同じ心の話をしていても、何かタブーに触れてしまったような感覚がある。つまりある文脈になじみのない用語や概念が入ることの違和感が問題となるのである。何か「和を乱す」という印象を与えてしまうらしい。
しかしこれらのタームは、私がどきどき大学関係で出会う外国人の心の専門家たちは、脳の話をしても「あ、それね」ということで当たり前のように受け入れるという印象を持つ。
 昨年しばしば交流する機会のあったベルギー出身のA先生は、英国の精神分析家ビヨンの研究でも有名な方だったが、彼は精神分析についての講演の中で急に「これはデフォルトモード・ネットワークに相当する」などとおっしゃった。Default mode network は脳科学の話である。人の心がいわばアイドリング状態になっているときの脳の活動パターンのことであり、精神分析の話とは全く異なる文脈の話だ。もちろんそこに理論的な必然性があったからこの話が出て来たのであろうが、そのような時に周囲の空気をさほど気にしているという印象はない。むしろそのような文脈の飛躍は、彼の思考がカバーする範囲の広さをそれによって示しているという印象を受ける。精神分析の時に脳の話はご法度、というのは日本だけの現象ではないか、と私は思うのである。

心と脳科学のあいだを揺らぐ必要性
さて私の立場はいわば心の問題と脳の問題を揺らぐことはむしろ必要ではないかというものだが、これは私が元来持っていた性癖のようなものでもある。一つのことについて対立している二つの意見を聞くと、その両者を取り持ちたいと思うと同時に、どちらか一方に与することがとても損をしたような気持ちになる、というところは昔からあった。どちらにも決められない性格ということかもしれない。そして精神についても、心の側と脳の側とのアプローチについては、どちらの立場にも偏らず、どちらも取っていたい、両方のあいだを揺らいでいたいと思うからである。そのような気持ちを特に抱いた最近の例を挙げたい。
私が職場には多くの心理学の専門家が属するが、心を扱う心理学者(臨床心理の専門家など)と脳を扱う心理学者(認知心理学者など)ではかなり毛色が異なる。同じ大学の、それぞれが相当の学識と学問的なキャリアを積んだ方々が、人の心に対して全く違うアプローチを取るのは非常に興味深い。たとえば母子の関わりという一つのテーマを取ってみよう。
脳科学を専門とするA先生は、ある実験を試みた。何人かの赤ちゃんを対象にして、ある言葉を発して、同時に皮膚に刺激を加える。他方のコントロール群には言葉を発するだけで皮膚刺激は加えないでおいた。そして後になりに両グループに同じ言葉を聞かせると、
赤ちゃんの脳波は明らかな違いを示した。言葉と同時に皮膚刺激を与えた赤ちゃんの方が、より明確な反応を示したのである。これは母子関係においていくつかの感覚のモードを併用した、マルチモーダルな関りの際に赤ちゃんがそれをよりよく習得することを示唆している。これは素晴らしい知見であると同時に、ある意味では私たちが常識的に考えていたことを証明したことになる。
他方臨床心理学のB先生は、あるクライエントさんからこんなことを聞く。「これまであまりお話ししなかったことですが、私のお母さんは小さいころから決して私を抱っこしたり撫でたりしてくれませんでした。今でもそのことに悲しみや怒りのような気分がこみ上げてきます。」B先生はそのクライエントさんがなかなか人と信頼に基づいた深い関係が築けないことに、その母子関係が影響していたのだろうと理解した。

以下略


2020年3月29日日曜日

揺らぎ 推敲 29

未来の株価はなぜ予見できないか

新型コロナの影響で、株価は大変なことになっている。これもまた3か月前までは全く予想できなかったとんでもない激震である。
株価を長い目で見ても短い目で見ても結局揺らいでいる、ということは、結局「株価は予測できない」ということだが、このことの理解が、おそらく揺らぎの面白さを支えているのである。ある事柄について、その事柄が揺らぎという性質を持つ、ということは、その未来を正確には予想できないことだ。そしておそらく将来を予想できないような性質のものは同時に揺らぎを示していることが多い。
「正確には」予測がつかない、という言い方は奥歯にものが挟まったようだが、次のような意味だ。以下に二つの波を示す。株価の変動を表しているとしよう。縦軸は実際の価格()、横軸はひと目盛りが一年を表している。時間は左から右に進んでいく。ABは結構似ているという人もいるかもしれない。ただBが結局は同じ波の繰り返しであるのに比べて、Aはどこを取ってもその波形が一致せず、フラフラしている。それはある種の規則性を持つようで、正確にはそうではない。周期性がありそうなのでそれを測ってみるが、一定していないのでそれをもとに株価を予想することが出来ない。そしてこのAの方が揺らぎ、というわけである。(この図はある株価の実際の変動Aをもとにして、その最初の部分を繰り返す形で作成したのがBである。

2020年3月28日土曜日

揺らぎ 推敲 28


この様に考察を勧めていくと、ウィニコットが提唱した可能性空間 potential space という概念そのものが、揺らぎの問題と密接に結びついていることがわかる。しかもそれは最初は観念的なものではなく、実際の事物、すなわち移行対象を介したものであるということが大事なのだ。フロイトの孫の糸巻の遊びも、積み木遊びも、それが実際のものであり、いわば物質性 materialiry を有していて、子供が現実にコントロールできることが大事だ。「毛布であることのポイントは、その象徴的価値よりもその実在性 actuality にある。毛布は乳房(や母親)ではなく、現実であるが、それは毛布が乳房(や母親)を象徴している事実と同じくらいに重要である」(W,p8, 1971
この移行対象の実在性、物質性は二つの意味を持っている。一つはそれを自分で扱うことが出来て、コントロール可能だということだ。ぬいぐるみは自分の布団に持ち込むことが出来る。それは自分の意のままになるというところがある。自分がそれを所有し、だれにも渡さなくていい。突然取り上げられることもない。しかしそれはもう一つの重要な要素を持っている。それはある意味では物質であるがゆえにコントロールの領域外でもあることだ。ウィニコットはこの点にも言及していて、それを不確かさuncertainty と表現する。「遊ぶことについては常に、その個人にとっての心的現実と、実在する対象をコントロールする体験との相互作用の不確かさがある。」
つまり現実の移行対象は思わぬ変化を遂げる。例えば劣化だ。ここで例として出しておきたい絵本がある。「こんとあき」という絵本。この本を読んでいて衝撃を受けた覚えがある。あきというおんなのこが、「こん」という狐のぬいぐるみをいつも連れて歩く。「こん」は何でもあきの言うことを聞いてくれる。ところが・・・衝撃の行がカミさんの口から読まれた。「やがてこんは古くなってしまいました。」えー!
こうしてこんは修復が必要になってしまうわけだが、「古くなる」という言葉に衝撃を受けたのは、こんがファンタジーの世界での生き物であると同時に、モノであることのギャップを、あるいはその揺らぎを衝撃的に味合わされたからだ。
まあ脱線はともかく・・・・・。このモノの持つ意外性、主体のコントロール外の性質、ウィニコットの言ったuncertainty とは、まさに揺らぎの一つの重要な性質であったことを思い出していただこう。揺らぎはそれ自体が先が読めないという性質を有するのである。

2020年3月27日金曜日

揺らぎ 推敲 27


じゃれ合うことの意味

笑いを生む行動と言えば遊びとかじゃれ合い、ということになろうが、私にはどうしても不思議なことがある。それは遊びやじゃれ合いは、人間より知能が劣るはずの動物の世界で、すでにごく当たり前に起きているということである。心というものが存在するのは霊長類からか否か、などという問題が真剣に語られる一方では、ワンちゃんだって生まれてすぐから一緒に生まれたきょうだいとじゃれ合い始める。しかも彼らのやることはとても手が込んでいる。相手を攻撃するようで爪はしっかりひっこめている。ギリギリのところで本格的な攻撃を回避する。それをお互いに際限なく繰り返すのだ。もちろん動物学者はもっともらしく説明するだろう。これは仮の練習をするためだ、など。しかしどうしてこんな芸当が可能なのだろうか、と私は不思議になる。
系統発生的に考えてみよう。爬虫類や両生類にじゃれ合いは可能か? 卵からかえったオタマジャクシたちがさっそくじゃれ合っている、という話など聞いたことはない。ワニの子供たちがお互いに甘噛みをして遊んでいる、という光景は想像できない。どう考えても哺乳類からである。試みにグーグルで「じゃれ合い、動物」で動画を検索してみる。やはり出てくるのは猫、犬、馬、パンダ・・・。おそらく海の中ではイルカやクジラだったら可能だろう。しかしサメ同士の追っかけっこなど想像できない。frolicking, animals と英語で入れてみても同じようなものだ。
ちなみにポリベーガル理論についての大著を書いた津田先生によると、「爬虫類でも鳥類でも、遊びらしき行動はあるが、一時的、偶発的で、持続的な社会行動としての遊びは、哺乳類に特徴的なものであるという(津田、p344)。」としっかり文献を引いて解説している。

2020年3月26日木曜日

揺らぎ 推敲 26


治療者の揺らぎとしての「決めつけない態度」

ここから揺らぎの話につなげていこう。揺らぎの心を持つということは、物事に対する決めつけの態度を取らないことである。なぜならすべての事柄に正解も真実もないからだ。
ここでよく私たちがよく引く一つの例を挙げよう。
コップに水が半分ほど入っている。それを見たある人は、「たった半分しか入っていない」、とがっかりし、別の人は「半分も入っている」、と喜ぶだろう。またさらに別の人は特にのどが渇いていないのでコップの水の量に全く何の関心も示さないかもしれない。ではこれらの反応のいずれが正解だろうか?
もちろんこのような例を示された私たちはすぐにでも次のように答えるだろう。
「どちらかが正解ということはありません。それはその人の感じ方、その人の置かれた状況に依存するでしょう。」
その通りだ。その意味で答えは文脈依存的である、と言うこともできるだろう。コップに半分水が入っているという事実は物理的な描写でしかなく、それに意味づけを行うのは意識を持った存在だけだろう。(もちろん人間だけではない。のどが渇いたワンちゃんなら、コップに半分の水を見ても大喜びするだろう。)
この問題はすでに「意味の揺らぎ」として以前に論じたことでもある。ある言葉が様々な意味を含みうることを理解する力を意味の揺らぎと表現したわけだが、それはA君がBさんから送られたメールについてであった。今ここで論じているのは、コップの水についての事実についてであるが、ここにも意味の揺らぎが存在する。そして治療者の決めつけない態度とは、ここで述べているような事実の持つ意味の揺らぎに相当する。治療者の決めつけない態度とは、ある事実や出来事の持ちうる様々な意味を把握し、それらにあらかじめ価値判断を与えないことなのである。
ここで一つ疑問が生じてもおかしくない。コップに半分の水を見てどのような意味を見出すかは、文脈依存的であるとした。すなわち治療者自身がどのような文脈に身を置くかで、結局はそこに何らかの意味や価値を与えていることになるのではないか。治療者は「決めつけ」をせず、価値を一切持ちこまないということは、治療者は心を持ってはいけない、と言っているのに等しいのではないか?
実はこの疑問はもっともなのである。ある意味では治療者は自分の価値基準、ないしはバイアスを持たずにはいられない。ある治療者はコップに半分の水を「なんだ、半分だけか」と感じる傾向にあるとしよう。彼はそこが自分の体験の出発点であることをよく自覚しておく必要がある。するとクライエントが「なんだ、半分だけか」という反応をしたときに、「その通り、正解!」という感覚を一瞬持ったとしても、そこには留まらないであろう。「彼は自分と同様の発想を持ったのだな。その気持ちは私自身もとてもわかる気がする。でもどうして『半分も入っている』という反応ではないのだろう?」
つまり治療者は自分のバイアスと同時に、コップに半分の水に対する二つ(あるいはそれ以上)の意味の揺らぎを保持していることになる。決めつけない態度は、決めつける自分を、揺らぎの視点を持って客観視している、ということなのである。

2020年3月25日水曜日

揺らぎ 推敲 25


7章 揺らぎと心の臨床

この章では、私が専門とする精神分析や心理療法と揺らぎの関係について論じる。精神分析の世界ではここ230年ほどの間にとても大きな動きが起きている。それがいわゆる「ツーパーソン・サイコロジー」ないしは関係精神分析の流れである。そしてこの流れが、心を揺らぎとして捉えるという見方と軌を一にしているのである。
フロイトが一世紀以上前に創出した精神分析は、心を理解して治療を行う上できわめて大きな影響力を発揮した。1900年代になって次々と生まれた精神療法はいずれもこのフロイトの精神分析をヒントにしたり、それを改良したりしたものだったのである。しかしそれはいずれも一方向性の治療法という性質を有していた。つまりそれは治療者が患者の話を聞き、そこに表れた病理や問題を理解し、伝える、介入するという形を取っていたのである。その意味で、問題を持った患者という一人の人間を相手にする「ワンパースン・サイコロジー」と呼ぶべきものだった。そしてそこで行われる治療は、たとえ一瞬ではあれ時間を止め、治療者が患者をフリーズさせ、顕微鏡で覗いて分析し観察する、というニュアンスを持っていたのである。
このワンパースン・サイコロジーは、正確さや客観性を担保するアプローチと言えたが、それには実は大きな問題があった。身体に問題を抱えていたり、脳に問題を抱えていたりする場合には、そのようなアプローチで問題がないわけだが、心を扱う心理療法では、患者と治療者の関わり方そのものが患者にとって大きな影響を与えることが明らかになってきたからだ。
いまや数多くの精神分析家が異口同音に唱えていることがある。それは治療関係はそれを構成する二人(ツーパーソン)相互の力動的な関係性により成り立つということだ。それがツーパーソン・サイコロジーというわけだが、それは専門的な表現を用いるならば「相互互恵的影響mutual reciprocal influence」 であり、Stephen Mitchell, Robert Stolorow, Jessica Benjaminなど現代をリードする精神分析家が皆一致して提唱しているものである(Wallin,2007。そしてこれはある意味では揺らぎの精神療法、心理療法とも言えるというのが私の考えである。
 David J. Wallin, DJ (2007). Attachment in Psychotherapy. The Guilford Press津島豊美() (2011) 愛着と精神療法. 星和書店.

2020年3月24日火曜日

揺らぎ 推敲 24


失敗を生み出す記憶の揺らぎ

失敗に結び付く心の揺らぎに関しては、もう一つ私達が日常的に体験しているものがある。それは記憶の揺らぎである。記憶はそれがあまり定着していない場合ないしは忘れかかっている場合には、想起されては忘却し、また想起される、というかなりの揺らぎを示す。そしてこれもまた失敗の大きな部分を担っているのだ。
ちなみに私は以前から、自分自身の記憶の揺らぎには苦労をしてきた。最も難しいのは人の名前だ。誰かの名前を思い出そうとして、ある程度頑張っても出てこないと、これ以上いくら努力をしても最後まで思い出せないという実感が湧くことがある。つまり思い出そうとする努力がかえってその対象を追いやっているという感覚だ。ちょうど漢字の書き順が分からなくなると、考えれば考えるほど正解から遠ざかるのと似ている。これが私の場合ごく身近にあっている人についても起きることがあるのだ。
すると逆に、いったんは忘れる、ということをしない限り思い出せないという感覚になるし、実際その通りなのだろう。一度ソロバンを御破算にする、ゲームのリセットボタンを押す、という感じだろう。つまり記憶の揺らぎをいったん止める必要があるのだ。
興味深いのは、ある時に思い出せていた人の名前が、ほんの数分後には急に思い出せないという事がおきるということである。あるいは逆のことも起きる。たとえばテレビに出てきたある男優の名前が思い出せない。しばらく頑張るが無駄だと思い諦めてしまう。ところが12時間してふと名前が出てくる。その時はあまり努力をせず、別のことを考えている最中だったりする。このように明らかに想起には揺らぎが存在するようだ。と言ってももちろんしっかり記憶しているものではなく、うろ覚えのものに対してこれは当てはまることが多い。
ちなみに私の場合抽象名詞の場合と大きく異なる。抽象名詞なら、思い出そうとしたらそのうち出てくるだろうという予感がすることが多いし、大抵はそうなる。英単語なども結構こうやって出てくる。そしてこれは私が思春期以降持つ傾向なので、加齢の影響とはあまり関係がなさそうに感じる。(私がこのために受験のたびにいかに苦労したかは、聞くも涙、である。)
このような現象を考えるに、そもそも記憶の揺らぎを生み出すのは、シナプス結合の持つ揺らぎの性質であるということが推察される。記憶に直接関係するシナプス結合は、通常はとても流動的で揺らぎにみちているのだろう。

2020年3月23日月曜日

揺らぎ 推敲 23

失敗は二つの揺らぎの複合産物だ

以上の考察から私が導くのは次のことだ。
失敗には二種類考えられる。一つは大体型が決まっていて、それは注意を十分行うことで理論上は防ぐことができる。それはおおむねハインリッヒの法則にしたがい、地震のようにべき乗則に従っていく。しかし地震とは違い、それが理論的にではあれ防ぎうるという点では、その失敗には人災的な要素も絡む。そこで問題となるのは、私たちが物事に対して向けている注意の揺らぎが原因と考えることが出来るだろう。
そしてもう一つはそれこそ自然界の揺らぎ、私たちが第一部で見たような揺らぎにより、それはあらゆる形の事故を生む素地となる。それはまさに予想不可能で、どのような形で起きるかは起きてみないとわからず、まさに現実的な失敗である。そして多くの場合、この二つのタイプが微妙に入り混じっているのである。
例えば2011年の東関東大震災の際の福島原発事故を考えよう。この事故では一方では予想を超えた津波という気象現象が生じ、それは私たちの予想を超えた出来事、自然界の「大揺れ」が生じた。しかし原発の事故を防ぐための最大限の努力をするうえで、地下の電力設備の停止を回避するための十分な方策を施していなかったという意味では、これは一種の人災であったとも言える。
これらの事故のうち特に私たち人間の不注意や注意の揺らぎが大きな位置を占めた場合に私たちはそれを本当の意味での失敗と呼ぶのであろう。そうでない場合はそれらは事故として処理される。それは私たち人間に起きた生理現象や疾病についてもいえる。飛行機のパイロットが突然心臓発作を起こして倒れ、飛行機が操縦不能になったとしたら、これは医学的な事象であり、失敗ではない。ただしここには失敗の要素も交じっている可能性がある。つまりそのような事態が生じることを踏まえて副操縦士を配備しなかったことが問われる際もある。その場合には失敗とも言えるだろう。
失敗の本質は何かと考えた場合、それは結局私たちの注意力の揺らぎではないかと思えると述べた。私たちの注意力は常に一定とは限らない。それは常に揺らぎ、その揺らぎには大きなものも小さなものもある。そしてその注意力が大きく低下した際に失敗が生じると見るべきだろう。そしてその注意力は、覚醒時に求められるだけではない。しばしば眠っている時にも常に問われる。

2020年3月22日日曜日

揺らぎ 推敲 22


1920年当時にそのような概念は唱えられておらず、もちろんハインリッヒも知りようもなかった。しかしハインリッヒはこのべき乗則に近い法則を直感的に認識したということではないだろうか? 事実ハインリッヒの法則について考えると、ひょっとしたらこれはべき乗則についての洞察の一歩手前の状態ではないかとも思えるのだ。なぜなら失敗は、べき乗則に従うような出来事、つまり地震や株価や戦争と似た性質を有する。つまり大きなものほど稀に起きる、という性質である。そして失敗もその典型例だと考えてもおかしくない。
そこで上に見たピラミッド型の図を、べき乗則に従うものとして描き換えるとどうなるのだろうか? まず以前に●章で示したロングテールの図は以下のとおりである。ハインリッヒの図は一番大きいものを頂上に乗せて、より小さいものをその下に配置している。それは理屈から言えば、ロングテールの図を盾にして左右張り合わせたものに事実上一致することになる。

これを二枚用意し、片方を反転させてつなぎ合わせ、90度回転させると以下のようになる。実はハインリッヒが描こうとしていたのはこれではなかったかという疑いが生じる。
ちなみに「ハインリッヒの法則」と「べき乗則」という二つのキーワードでネットで検索してみよう。両方のつながりは結構示唆されているが、「ハインリッヒの法則は結局はべき乗則である」と言い
切っている文章には出あわなかった。このことが「そんな事当たり前ですよ」という意味なのか、それとも「両方は別物です」という意味なのか、それともどちらかを決めかねるということなのか。
しかしいろいろ考えた末、私はハインリッヒ則とべき乗則は類似のものと考えるに至った。

2020年3月21日土曜日

揺らぎ 推敲 21


失敗。私たちが生きていくうえで決して避けて通れないもの。ここにも揺らぎが関係している。
失敗をすることで初めて私たちは何かを学んでいくということは確かであろう。しかし失敗は私たちの心を深くえぐり、苦しめる。私たちが生きて社会で機能を果たすうえで必然的に生じる失敗とは、いわば揺らぎが必然的にもたらすもの、揺らぎの影の部分とも言える。
ハインリッヒの原図
かなり昔のことであるが、ある機会にこの失敗というテーマについて発表する機会があり、それから深く考えるようになった。やがて私は畑村先生の「失敗学」(畑村、2005)なる学問があることを知り、さらに興味を持つようになった。失敗とは私たちが決して避けることが出来ないもの、私たちの本性が関わっていることである。そしていわゆる「ハインリッヒの法則」なるものを知り、それに惹かれていったのだ。しかしこのテーマが本書で論じている揺らぎや冪乗則に関係することなどは思いもしなかった。ただ確かにこの法則はべき乗側と似ている。いわば同じ匂いがするのだ。そこで念のためにこのハインリッヒの法則をここにお示ししよう。まずはハインリッヒが示した原図である。
畑村 洋太郎  (2005) 失敗学のすすめ. 講談社文庫

2020年3月20日金曜日

揺らぎ 推敲 20


まとめ
本章では揺らぎの欠乏としての発達障害というテーマで論じた。揺らぎの欠如ないしは減少は、その人にある程度定着した傾向ならば、その人の脳の一つの特性と言えるだろう。そしてそれが極端になった場合に発達障害、特に自閉症スペクトラム障害と呼ばれるのだ。しかしそれはある種の障害とは決して言えないような何かでもある。キャベンディッシュにしても岡潔にしても、掛け値なしの天才なのだ。そして彼らの業績は確かに揺らがない脳の持つ推察能力やそれに支えられた遂行の突破力に関係している。ただしそれらの揺らぎのなさは強いこだわりや相手の気持の読めなさといった問題も伴なっていた。
本章を終える前に、バロン=コーエンの唱えたシステム化脳と共感的脳の関係性についてもう一度俯瞰しておこう。両者は排他的な関係にあるというのが彼の仮説であった。これは揺らぎとの関連で言えば、揺らぎの欠如と、揺らぎの豊富さとの違いと言い換えることが出来るのだ。そしてその意味ではこの両者は互いが互いを抑制しあう関係性にあるのである。システム化脳は意味の揺らぎをできるだけ排することで本領を発揮する。しかもそれが発揮されている間はその人は他人から見られているかということに無頓着になる。授業そっちのけで黒板の前で思索にふけっていた時、岡先生はもはや教師としての姿を外側から、あるいは生徒の側から見る方向には心は揺らがない状態になってしまったのであり、そのことにより数学脳をフル回転させることが出来たのだ。その意味で彼らの脳は意味の揺らぎと自他の揺らぎの両方の低下を見せていた。
あまり揺らがない岡潔先生の脳
他方では共感のためには心は自他の間の揺らぎを最大限に使うことになる。自分に対する対自的な視点は結局は相手の心を感じ取ることと同様のことである。そしてそれは遡れば母親が赤ちゃんの心をいかに察するかという問題に行き着く。母親にとって子供の感じていることはかなり直接的に伝わってくる。新生児が泣いている姿を見て、デビューしたばかりの母親は一緒に目を潤ませる。その時母親はすでに子供と一緒になっている。自分の子供への声掛けは、子供が聞く母親からの声掛けと重複している。そしておそらくここに男女差は顕著に表れているのだ。しかしこれらのシステム化と共感は、対立するだけでなく、それ等自身が共存し、あるいは揺らぎつつ発揮されることがあってもいいのではないか。

2020年3月19日木曜日

揺らぎ 推敲 19


...... 言葉によるやり取りを考えるうえで一つ重要なことは、通常は私たちは言葉を様々な用途で用い、それは一つのことを伝達すると同時に、別のことも同時に伝えるということだ。そしてそれは実はきわめて込み入ったプロセスでもある。Bさんの「今度の日曜日は予定があります」は、ほかのいくつかメッセージを可能性として含みうる。それは「別の日曜日なら都合がつく」でもありうる。「今度の月曜日(火曜日、水曜日・・・・)なら予定はないわよ」かも知れない。しかしそれ以外にも「実際に次の日曜日には別の予定が入っているから映画には行けない」や「あなたとのデートはお断りです。」かもしれない。「それでもあきらめずに私の誘うつもり?」でもありうるし、「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。本当は少し興味があるの。もう一度誘われれば考えるわ。」の可能性も否定できない。「本当は行きたいけれど、貴方にこれ以上惹かれてしまうのが怖いの」かも知れない。「男性からの誘いはどれも断れ、と父から言われているの。ごめんなさい。」も可能性としてはゼロではない。
これらの可能性はいずれも否定はできないし、デートの誘いを断られた側は、ある程度理性を失っていて、より好意的な解釈に飛びつくかもしれない。ちなみにあるストーカー体質の人は、繰り返し断られたデートの誘いに対して、怒りを爆発させたという。「どうして君は、僕への好意に正直に向き合わないんだ!」
このように考えると私たちは、結局は言葉が持つ意味の揺らぎの中で、そのどれとも決めつけることをせず、しかしある程度は的確に読み取る能力を持っているおかげで、社会生活が成り立っているということが分かるだろう。「今度の日曜は予定がある」という返事を受け取った時点では確かに、そのメールは「その次の日曜なら大丈夫です」という意味も持っている可能性はあった。あるいは「ごめんなさい、貴方のことがまだわからないので、いったんはお断りわせてください。でも本当は少し興味があるの・・・・・。」という可能性も少しは残っているかもしれない。しかしそのような返事を受け取ったA君のような立場にある他の多くの男性は、たいていは、二つの可能性の間に立たされたという感じを持ち、揺らぎを体験し、持ちこたえようとするだろう。一つの可能性は相手に断られた、フラれたという可能性であり、これが心に占める割合をおよそ80パーセントくらい、としておこう。そしてそれとは別に、もう一つの肯定的な可能性、つまり「別の日なら大丈夫よ」という意味が込められている、という可能性に一縷の望みを繋ぐことになる。こちらは20パーセントとしておこう。......

2020年3月18日水曜日

揺らぎ 推敲 18



精神分析とは分析家と患者が共に揺らいでいくこと

自由連想が揺らぎであるとするならば、精神分析療法はフロイトの想定したものとどのように異なるのか、と言うのは重大な問題である。しかし本書の「揺らぎと心」というテーマからは方向が逸れ、また既にいくつかの著作で問うた問題なので(岡野 新しい精神分析理論、中立性と現実、治療的柔構造)ここではごく簡単に私が思うところを伝えたい。
私は精神分析は何か一つの目標に向かって心の探求を続けるという営みとはどうも違うような気がしている。それは二人で揺らいでいく、というイメージに近い。これがフロイトのモデルとどのように違うかは、すでに述べたと思うが、念のために述べておきたい。
フロイトの考えでは、患者の無意識にはあるドロドロした固まりがあるはずだった。ドロドロとした固まりという表現がどの程度フロイトの考えを言い当てているかはわからないが、それは考えたくない、見たくない、認めたくないような願望やイメージや記憶であり、それが抑圧という仕組みで心の奥底の無意識にひそんでいている。それが何かを探求するのが精神分析である。そのドロドロした固まりは患者本人も意識していないのでなかなか姿を現さないが、ある種の規則に従って自由連想という形で表れてくる。その規則とは象徴化と言い直すことが出来て、一見バラバラでまとまりのない連想は実はある種の見えないロジックにより繋がっている。分析家はそれを見抜くエキスパートである。(そのロジックの例は、本章の前半のイルマの注射の夢に例示した通りだ。)
この一見バラバラでまとまりがない連想が、実はそうではない、と言うところが、フロイトにとっての自由連想は「揺らぎ」ではないという意味である。
さて私が身を持って体験した自由連想は、揺らぎそのものであった。それははっきりした理由もなく、場当たり的に出現し、それを話している私にも意味は分からないし、分析家のドクターKがそれを取り上げて解釈をしたり解説してくれたことはあまりなかった。彼もその連想の流れを聞いていて、おそらく心の中で彼なりに自由連想をしていたであろう。もちろん分析家は自分の自由連想を患者に語るという役割ではないので、私はそのように想像するしかなかったが。
でも一つ言えるのはドクターKは私の揺らぎに5年間付き合ってくれたということである。改めてこう書くといかにそれが長いプロセスだったかがわかる。週に4回ないし5回を5年間、である。私は自分がどのような子供自体を過ごしたのか、父母とのどの様な思い出を背負っているのか、何てだめな人間なのか、自分がいかに将来に希望を持っているのか、いかに子供の健康問題で不安にさいなまれたか、いかにカミさんとの口論で腹を立てたのかを語り続けた。彼は確実にそこにいて、「ふーん?」とか「へー」とか、時には「いつもそれが出るね!」とか「すごいじゃない!」とか「それはつらかったね」と私と一緒に揺らいでくれたのだ。おそらく私は彼が揺らぎに付き合ってくれる中で、自分なりに過去や現在の体験と折り合いをつけていったのだ。誓って言うがドクターKは私の揺らぎをどこかの方向に引っ張っていくことはなかった。彼はむしろ私の揺らぎを認めてくれて、揺らぐままにさせてくれたのだ。そして私は自分の考えを発展させ、自分のケースを終え、家庭を支え、そして最終的に17年間の留学を終えて帰国した。
皆さんはこう聞くかもしれない。「あなたの中のドロドロした固まりはどうだったんですか?
それに対して何も読者を満足させることが出来るような解答はないが、一つ言えるとすれば、私は私の中に持っていると思っていたドロドロした固まりから解放された、ということだったのだ。そしてそのためにああでもない、こうでもないと考え、反省し、回想し、諦め、受容し、新たな希望をもった。それは長いデフォルトモード、安静時脳活動の集積だったのかもしれない。そして確かに私は以前よりは自信を持って分析のトレーニングを終え、帰国したのである。

2020年3月17日火曜日

揺らぎ 推敲 17


フロイトは科学者志向だった

フロイトのものの考え方は、ひとことで言えば、決定論的であったと言える。決定論、お分かりだろうか? つまり物事は理論的に説明でき、それにより過去の出来事を解明することができ、また将来を予測することもできるという考えだ。もしそれができないのであれば、それはデータが不足していて、また十分な方法論が確立していないからというわけである。そしてそのような志向はフロイトが生きた19世紀後半の科学者が典型的な形で持っていたものであった。現在の科学者はもちろん決定論的な考え方を皆がするわけではない。ただ当時は皆そのような決定論的な考え方をしていたのだ。
特に1800年代の終わり頃は、ヨーロッパではいわゆるヘルムホルツ学派の考えがとても優勢だった。心も物理学や生理学の様な法則に従って展開していく、と考えがこの学派の特徴である。それはいわゆる実体主義 positivism と呼ばれる考え方だった。実体のあるもの、明確に存在して分節化され得るもの以外にはあまり価値はなかったのだ。
そもそもフロイトは、医者になるために医学部を選んだのではなく、あくまで自然科学者を目指していた。フロイトがウィーン大学で過ごした1870年代は、実証主義科学としての医学が確立した時期であり、フロイトの師となった医学者もそうした厳密な実証主義者であった。大学時代のフロイトは動物学の講義を熱心に受講し、フランツ・ブレンターノの哲学の講義を受講していた。医学生時代にフロイトが発表した論文はヤツメウナギの幼生の神経細胞に関するものであり、脊髄の微細な切片を顕微鏡で観察し、末梢からの刺激を伝える感覚神経がどのように脊髄につながっているのかを明らかにしようとする。それは根気強く丹念な手仕事を持続させる研究であった。そして、この論文の背景には進化論があった。フロイトにとって進化論は観念としてあったのではなく、観察によってそれを実証しようとしていたことをこの章で明らかにした。
フロイトが師事したエルンスト・ブリュッケはそのヘルムホルツ学派の一人に数えられる生理学者であり、当時の学界の権威であった。ブリュッケはそれ以前の生気論を否定し、生命体には物理、化学的な力しか作用していないという立場に立った。生気論とはすなわち生命体を霊魂に似た性質のものとして説明する立場であり、それ自体がとても時代錯誤的なものだったが、生命を生理学的、ないしは物理、化学作用により説明するという立場もまた極端なものであった。しかし当時はその考え方が一世を風靡したのである。
フロイトはプリュッケ教授からそうした生理学の精神を徹底的にたたき込まれていた。ブリュッケの講義録には、精神分析の根本につながる見解を見いだすことができる。また、生理学研究所におけるプリュッケの後継者エクスナーの考察は、ヨーゼフ・ブロイアーに受け継がれ、さらにフロイトヘと継承される。こうした意味でも、ウィーン大学生理学研究所は精神分析の一つの始点であった。

2020年3月16日月曜日

揺らぎ 推敲 16


第2章 「揺らがない心」と精神分析

決定論者フロイト

本章では目を心理療法や精神分析に転じよう。心のデフォルト状態としての揺らぎという議論は、心の臨床にどのように関連するのだろうか。
実は心の揺らぎの問題を心の臨床に結び付ける試みは、実はやっと始まったと言っても過言ではない。というのもそもそも心を理解するという試みは、心を揺らぎのない、ある一定の法則に従ったものとして捉えるということから出発したという歴史があるからである。これまでも述べてきたことだが、人間は先が読めないこと、曖昧なことに我慢が出来ないところがある。「揺らぎ」の現象が私たちの身の回りにあふれていても、それを見て見ぬふりをする傾向は、人の心を扱うことを生業とする心理療法家、分析家でも変わらない。そしてそれには長い歴史があるのだ。
過去100年を振り返って心の理論の土台をつくった人を挙げるとしたら、まずはフロイトとユングを考えなくてはならない。フロイトの伝記を読み、精神分析の理論が生まれて発展していった様子をたどると、当時の分析学者たちが持っていた、心を解明して治療につなげることへの並々ならぬ情熱がうかがえる。フロイトが1900年代の最初に打ち立てた精神分析理論に従って治療を行うことは当時の分析家たちが命がけであり、そして大きな期待を寄せていたのだ。
私が本章の表題をモデルをあえて「揺らがない心と精神分析」としたのは、彼の理論がすでに見たデフォルトネットワークモデルや、神経ダーウィニズムで表現したような揺らぎに基づく脳の働きの理解とは一線を画していたからだ。すなわちフロイトの頭の中では、心とは決定論的な展開を行うものとして想定されていたからだ。彼の意識、無意識と言った局所論モデルも、超自我、自我、エスといった構造論もその路線で立てられた議論なのだ。
フロイトの理論は、ある意味では心はある種のロジカルなプロセスとして解明できるという主張であった。これまでは特に意味を与えられなかったことの背後には、無意識的な、そして分析可能なプロセスがあると説いたのである。このフロイトの考えは、喩えて言うならば、「ラプラスの悪魔」の世界観のようなものである。1700年代の終わりのピエール=シモン・ラプラスはフランスの学者だが、こんなことを書いている。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
— 『確率の解析的理論』1812

2020年3月15日日曜日

揺らぎ 推敲 15


デフォルトモードは瞑想状態なのか?

デフォルトモードネットワーク(DMN)を理解するうえでしばしば出会うのが、いわゆる瞑想状態との関連についての議論だ。デフォルトモードでは、心はぼんやり浮遊していて、何事の焦点を定めない。その状態はまるで瞑想のように思える。ところが瞑想はこのDMNとは逆の活動なのだ、という説明によく出会うのだ。瞑想にもさまざまな種類が提唱されているが、最近流行しているいわゆるマインドフル瞑想などは、むしろ心を浮遊させないような試みといえる。つまり心をDMNに向かわせないことが心身の健康に役に立つ、と説明されてある。しかし他方では、このDMNは人間が何か創造的な活動を行う上で決定的な役割を果たしているとの記載もされているのだ。
最近は脳科学の発展によりDMNに関する科学的な知見は沢山提出され、それぞれが得られた所見を論文等で発表するのだが、それらが示すものは時には矛盾していたり、つじつまが合わなかったりする。それらのデータをどのように理解して、少なくとも治療的な仮説を作り上げるかは、実はそれぞれの臨床家にかかっているのである。そこで以下が私の独自の理解である。
まず瞑想には「観察瞑想」と「洞察瞑想」という事なった瞑想が存在するとされる。観察瞑想は心に湧きおこってくる思考や感覚を観察するという。これはいわばDMNを高める瞑想といえる。そして洞察瞑想、あるいはマインドフル瞑想と呼ばれるものとは逆の瞑想という事になる。
ここで私が特に注目すべきと考えるのは、いわゆる「マインドフルネス瞑想」に関する研究である。まずマインドフルネス瞑想においては、心がある一つのことに注意を向け続けることで、心がそこからフラフラと一人歩きをしていくことへのブレーキをかけることが求められる。マインドフルネス瞑想でしばしば注意を向けるように促されるのが呼吸であり、たとえば鼻から唇にかけて息が吹きかけられるときの感覚などに焦点を向けることが要請される。通常人はそれをしばらくは行うことが出来るが、それはしばしば中断されてしまう。気持ちはそこから逸れて、他愛もない事柄に移っていくからだ。それはある意味では必然的な事であり、心とは実は一定の事柄に注意を集中するという活動と、そこから離れるという活動を交互に行っているのである。これはたとえば何かを注視している際にも、時々瞬目して注視を再開するという運動に似ている。(実際瞬目時はDMNが生じているという研究もあるほどだ Nakano et al. 2013)。
Nakano, T, Kato, M, Morito, Y, Itoi, S and Kitazawa,S (2013) Blink-related momentary activation of the default mode network while viewing videos. PNAS 110: 702-706.

2020年3月14日土曜日

揺らぎ 推敲 13


脳の全体の揺らぎがシンクロナイズすること

ここで一つ補足説明が必要かもしれない。脳の活動を理解する際に、ひとつの決め手はそこで生じている脳波がどの程度同期化しているかどうか、ということだ。脳波計は大脳皮質で起きているさまざまな信号を拾うのであるが、普通はそれぞれの部位がバラバラな活動をしている。ところがある事柄について、それを一つのもの、ないしは同じものと見なすという現象は、脳のある部分が一緒になって活動していることを意味する。例えばABが、実は同じ物体だということが分かった時、両者に関する信号は同期化するのである。
このことをもう少しわかりやすく説明しよう。私たちがある遮蔽物の上下で動く物体をみるとする。その際上下の物体は互いに別々の方向に動いていると認識されるため、視覚野においてそれぞれに反応している部位は、ばらばらの信号を出す。ところがその遮蔽物を通して、上下の物体まるがつながっていることが分かった場合、視覚野における上下の物体に反応した部位は、同期化する。つまりは脳波の位相(山と谷の位置)が一致するのである。(これに最適の図をどこかの本で見たが、あいにく見つからないので省略。)
 もう少し身近な例を出そう。小さいころ親しくしたAさんという友達がいるとしよう。そして20年後にたまたま出会った人が、しばらく話すうちに同じAさんであったということを知ったとする。すると幼少時のAさんに関する記憶と、目の前でそれまで別人と思っていたAさんに関する記憶は突然同期化をすることで重なることになる。その時私たちは「あ、そうか!」という体験を有することになる。すべての事柄がつながったという感覚、それまでバラバラにしか認識できなかったことが一つにまとまった体験。刑事事件でそれまで断片的であった証拠が、ある犯行の詳細が分かることですべて繋がった時の感覚。これを人はたとえば「ジクソーパズルのピースがはまった」という言い方をするが、感覚的にはその通りなのである。

揺らぎ 推敲 14

第1章 心のデフォルト状態としての揺らぎ

 まずは心のデフォルト状態、ということから考えたい。英語の「デフォルトdefault 」、とは不履行の、とか怠慢な、と言う意味を持つが、最近ではコンピューター用語での「初期設定の、手つかずの」といった意味の方が広がり、一般化している。心のデフォルト状態、と言った場合も、特に何も手を付けていない、何もしていない、と言う意味で用いることが多い。
 これまでの議論では自然も、生命現象も、そして神経細胞も最初から、何もしなくても揺らいでいる、という話をした。そしてそれは心そのものについても当てはまる、という話から始めたい。そう、心はデフォルト状態から揺らぐ、と言う仕事をしているのだ。
 そもそも私たちの脳は、「何もしない」「ないも考えない」という活動は許されない。少なくとも脳は何もしていなくても、莫大なエネルギーを消費して「活動」を行っている。それは現在の脳科学では常識になりつつあるが、その知見も比較的最近になって得られたことだ。
脳科学者ゲオルグ・ノルトフは、以下のように記載している。
脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫る ゲオルク・ノルトフ (著), 高橋 洋 (翻訳) 白揚社、2016年

 人間の中枢神経系は、何もしていない時、安静にしていて何も考えていないような時でも自発的な活動をしている。それは脳の中央部に集中した領域で、彼が「正中線領域CMS」と呼ぶものである。そしてそこでの活動は「安静時活動resting-state activity」と呼ばれる。
 ノルトフ先生によると、この安静時活動を脳波という形で記録すると、その波形は非線形的であり、非連続的、予測不可能なものとして特徴づけられるというのだ。これらの表現は一見分かりにくいが、簡単に言えばその波形は決して単純な繰り返しではなく、一回ごとに異なり、また次にどのような方向に動いていくかがわからない。つまりはまさに「揺らぎ」の性質を持っているということになる。そしてこのような視点から心のあり方を考えるのが、彼らの提唱する「神経哲学neuro- philosophy」という分野であるという。
 ここで安静時活動というものの意味についてもう少し説明しよう。従来は、精神の活動は外界からの刺激に反応することにより確かめられていた。本来主観的な世界での出来事は客観的に記述することが出来ない。だから心の働きを外界からの刺激に対してどのような反応を見せるかという観点から観察するというアプローチが心理学において主流を占めていた。そのことの名残もあり、脳は外からの刺激に反応をする以外は、静かに何もせずに休んでいるものと思われがちだった。しかし決してそのようなことはなく、休んでいるように見えても、活発な活動を行っていることが最近のfMRIなどの研究によりわかってきたのだ。

2020年3月11日水曜日

揺らぎ 推敲 12


1章 脳は揺らいでいる

話は脳波を発見したドイツの神経学者ハンス・ベルガーに遡る。もう100年も前の話であった。彼は人間の頭皮に電極を付け、きわめて微小な電気活動が起こっていることを発見した。ごくごく小さな揺らぎの発見である。そして彼は1929年の論文で、「脳波を見る限りは、脳は何も活動を行っていない時にも忙しく活動しているのではないか」という示唆を行った。何しろ脳波を見る限り細かいギザギザが常に記録されているからだ。もしこれがフラットに(一直線に)なってしまったら、それは脳が死んだことを意味するくらいである。
しかし世の医学者たちは、脳波が癲癇の際に華々しい波形を示すことに注目したり、睡眠により顕著に変わっていく波形の変化に注目する一方では、それ以外の時にも絶えずみられる細かい波のことは注意に止めなかった。ここで皆さんは雑音ないしはノイズについての議論を思い出すだろう。ノイズはそれが揺らぎとして抽出されるまでは、ごみ扱いされるという運命にあったと述べたが、それは脳波でも同じだったのだ。
 以上、神経細胞という単位ごとに、そこで発生する電気的活動の持つ揺らぎという問題について論じた。しかし脳の活動全体を考えると、一つ一つの細胞自体は極めてローカルで起きている出来事と言えよう。私が何度か用いた地震の比喩を取り上げるならば、脳の活動全体が中等度の地震のサイズだとすると、神経細胞の電気活動は、それこそ砂粒にたとえられるだろう。しかし巨大な岩盤の揺らぎである地震が実は砂粒の動きと連動しているのと同じように、脳の活動も個々の神経細胞の活動に帰着することができる。ただそのスケールがあまりに違いすぎるので、神経細胞の揺らぎから心の揺らぎを論じることにはあまりにも大きな話の飛躍がある。
William Calvin "the Cerebral Codes" より

心の揺らぎについては第3章で論じるとして、ここでは神経細胞の揺らぎに話をとどめておきたいが、次のレベルとして私が挙げるのが、大脳皮質の円柱、コラムという単位である。
神経細胞 → マイクロコラム(円柱) → 機能円柱 → ~野(運動野、など) → ~葉(前頭葉、など)

大脳皮質は厚さ2.5ミリほどであり、それが6層の構造からなる。このコラムは大脳皮質のいたるところで見られる。感覚をつかさどる一次体性感覚野や、運動をつかさどる一次運動野などでもそうだ。直径0.5mmほどのコラムには 約10万個もの神経細胞があるが、その詳細な構造や機能はまだよく分かっていないという。
その構造をもう少し細かくみると、「ミニ円柱(minicolumn)とよび、2540μmほどの大きさの集合であることがわかる。人間の大脳には200億個のニューロン2億個のミニ円柱があるというから、その数はとほうもない。
1つのミニ円柱は約100個ほどの神経細胞により構成される。さらに、このミニ円柱が100個ほど集まったものが機能円柱と呼ばれるものだ。つまりコラムは、神経細胞の10010000個の塊で、地震の比喩では小石くらいの大きさの塊と考えることができる。

2020年3月10日火曜日

揺らぎ 推敲 11


「カオス」と揺らぎ、予想不能性

 以上「カオス」についてごく簡単な紹介をしたが、本書で論じている揺らぎのテーマと「カオス」について確認しておきたい。
ひとことで言えば揺らぎの予測不可能性は「カオス」の性質に由来するということだ。
たとえば次の数字の列を見ていただこう。
19,864.09 20,812.24 20,663.22 20,940.51 21,008.65 21,349.63 21,891.12 21,948.10 22,405.09 23,377.24 ・・・
やたら小数点以下が多いが、先ほど見た「定常状態にならない」「繰り返さない」システムという定義で見たような「カオス」的な動きを見せている。そしてこの数字は2019年の一月からのダウ平均株価の月ごとの値だ。
第○○章で、揺らぎの典型例として株価の上下運動を挙げたことを思い出そう。その動きは予想が付きそうで、しかし時には大きくそれを裏切る。結局どこに向かっているのか分からない。そしてそれは二重振り子や三体問題に見られるような振る舞いに似ているのだ。それはなぜだろうか?
「カオス」の場合は決定論的でなくてはならない。三つの天体ABCはある時点でそれぞれがどのような力を及ぼしているかについて、少なくとも曖昧さはない。なんとなればPC上でシミュレーションをしてしまえばいいのだ。それでも結局動きはバラバラだ。二重振り子の関節部分や、天体Aのシルエットを追ってみれば、まさに「揺らぎ」を見せるはずである。
それでは実際の実験室で行ったらどうだろう? 間違いなく余計「カオス」的になる。「カオス」的、と言うのは、たとえば液体の中で、あるいは宇宙船内で無重力状態を無理やり作ってもどこかでノイズが加わり、あるいは理想的な真球A,B,Cを実際に作ることも不可能だからだ。だから既に決定論的であるという「カオス」の定義を満たしていない。そして三体それぞれが互いに及ぼす微妙な力はますますそれ以外の外力の影響を受けてしまい、仮想上見られる「カオス」よりさらにバラバラで予測不可能になるだろうからだ。
ましてや株価の動きのように、複数の人間が互いの心を読み合うという事態では、仮想的な状況よりもはるかに大きなノイズが加わる。
 結局本章で私が示したかったことは次のようなことだ。ここ半世紀の間に急速に注目を浴びるようになった「カオス」という概念は、科学は、特に数学的では未来を予測できるという楽観的な見方を打ち砕くという意味があったのだ。
皆さんは19世紀初頭のピエール=シモン・ラプラスによる「ラプラスの悪魔」という概念をご存知だろう。当時はニュートン力学により、様々な自然現象が説明できるようになり、「全ての出来事はそれ以前の出来事のみによって決定される」と言ういわゆる決定論や、「原因によって結果は一義的に導かれる」という因果律が唱えられるようになっていた。さすがに科学者たちはそのような考え方から離れては来ていたが、それは「理論では結果は分かっていても、現実はそうはいかない」程度の認識でいる人たちも多かった。現代でも科学に興味を持たない人の多くは同様の考えを持っているかもしれない。しかし「理論上も原因によって結果を知ることが出来ないことがある」ということを示したのが「カオス」の存在だったわけだ。本書では脳について(第二部)、そして心について(第三部)揺らぎについて論じていくが、予想不可能性の度合いはいよいよ増していくと言わざるを得ない。しかし重要なのは、実は理論上も予想不可能な性質を有するのが、この世界であるという世界観を共有しておきたかったのである。


2020年3月9日月曜日

揺らぎ 推敲 10


一番のストレンジアトラクターとしての恋愛体験

恋愛もまた典型的なストレンジ・アトラクターを形成する。ある男女のカップルを例に取り、その所在地を地図上で追ってみよう。おそらく上に見たローレンツのアトラクターに似たような動きを見せるはずだ。
やがてカップルとなる運命にある二人は、最初は別々の場所で生まれたはずだ。だから両者はそれぞれの地元のあたりをうろうろするだろう。ほとんどは自宅と学校の往復運動をするかもしれない。そのうちどこかで出会って(たとえば大学のサークルの集まりとしよう)、それから週に一度ごとにいっしょになる(デートというわけである)。週に一度合流する、それ以外は自宅と学校の往復運動という軌跡を示すだろう。そのうち両者はずっと一緒の場所にいる時間が長くなり、時間も共にすることが多くなる。つまり同棲ないし結婚したわけだが、これはかなり明確なアトラクターという事になる。
 しかしこのアトラクターが面白いのは、いったん一つのアトラクターに収束したらそれでおしまいかといえばそうとも言えないという点である。10年たってみたら、あれよあれよという間に二つは離れ、しばらくして別のところで互いに地元に戻り、大学以前のそれぞれのアトラクターに近い形で収まるかもしれない。
以上は異性同士の行動をマクロ的に見た場合のアトラクターのあり方であったが、両者が行う生殖行動もかなり独特で強烈なアトラクターである。そして生殖行動については、もちろんこれは人に限ったことではない。生殖を営む動物一般についても同様のことは言えるのである。
 しかしなぜ生物はこのようなアトラクターを有するのか、という疑問を持つことにはあまり意味がない。そのようなアトラクターを有する個体が種を保存し得て現在に至っているのだ。そのような意味では現在存在している生命体はことごとく色好みの遺伝子を有しているのである。私たち(と言っても動物代表として、である)はおそらく異性をアトラクターとして選択し、一定の行動を取るようなプログラムを備えていて、それにしたがって生殖活動を行っていく。ただし異性がアトラクター(惹きつける人)というだけでなく、その行動そのものがアトラクターなのだ。一連の生殖行動を行うとき、動物は普段とはまったく異なる振る舞いをする。普段は近づかない異性に接近し、普段は取らない行動を起こし、それが最終的に遂行されるまでは一心不乱にそれに従事する。その間は天敵に狙われ命を落とす可能性は限りなく増幅するが、それは命を賭してでも行わなくてはならない。いったい何がそのような特定の、普段とはかけ離れた行動へと誘うのだろうか?
Andreas Bartels and Semir Zeki
2000The neural basis of romantic love.11:
3829-2834
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者 Semir Zekiは、人が好きになった相手のことを考えているとき、脳でどのようなことが生じているかを調べたが、その研究結果が興味深い。MRIスキャンの結果、人は夢中になっている相手の写真を見せられた時、大脳皮質の前頭葉が抑制され、批判や疑いといった心の機能がストップすると伝えている。前頭葉は人間が判断(行動選択)を行う重要な部分である。また恐れを感じる扁桃核も抑制され、その代わりに快感を生み出す報酬系が活性化される。つまり生殖行動というアトラクターに嵌っている最中は、それが心地よさを与え、それが危険であるという可能性を忘れさせるような脳のメカニズムがはたらいているのだ。その意味では上述の嗜癖としての要素をそれだけ多く持っていると見ていい。

2020年3月8日日曜日

揺らぎ 推敲 9


べき乗則を可視化してみる
  
べき乗側について一言で言えば、ある値の規模が単調に大きくなるにつれて、それに対応する値がグングン、級数的に、つまり10のn乗倍として変化していくということだ。そしてべき乗側がこの世を支配する、ということは私たちの生活にこのような例はいくらでもあるということだ。
たとえば私たちが有する所得について考えよう。例によって人が持つ所得の行列を考える。するとおそらくほとんど一文無しの人の列が延々と続いて、たまに小金もちが並んでいる。かと思うとごくごくまれにそこそこのお金持ちがいる。そしてその額によってそのお金持ちのレア度が増していく。ごくごくまれに億万長者が混じっている。
あるいはCDを売れ行き順に並べる。すると自費で出した売れないCDの列が延々と続き、時々ヒットが混じっている。そしてヒットの大きさと同時にレア度が増していく。それらを暇な人が売り上げ順に並べると、以下のような表ができる。これがいわゆるロングテール(長い尾)の図式で、左端に行くほど天体の大きさ、所得の大きさ、CDの売れ行きは大きくなり、該当する天体、人、CDの数は莫大になる。他方右端はおそらくとんでもなく永遠に続いていく。
この説明からわかることは次のことだ。揺らぎとは、この表に現れる値(所得、CDの売れ行き、天体、など)を順不同に、あるいは値に関係ない順、例えばアルファベット順に並べたようなものなのだ。世の中の大部分の人は低所得で、その額はどんぐりの背比べだ。でも時々そこそこに高所得な人も交じってくる。それが揺らぎなのだ。小川のせせらぎなどはこの部分だし、風に揺らめくカーテンや旗もこの部分に相当する。日常はこれがほぼ永遠に続くように考えられるので、これを「揺らぎ」などと、のんびり表現しているわけである。
ところが実際はロングテールの頭に属する部分も時々顔を出す可能性がある。だから揺らぎは突然巨大化する可能性を持っているのだ。揺らぎはどんなに波のように見えても、正確な正弦波や同じサイズのジグザグではない。それは時に大きく、時に小さくなり、突然とんでもない大きさの揺れを可能性として含む。ここで「可能性として」というのは、それは実はめったに起きないからだ。でも起きる時は起きる。そんなことが起きてもおかしくないことを予告するかのように、揺らぎは最初から不規則で、ある意味では予想が不可能なのだ。ここら辺、株価の動きに敏感な人は良くわかるだろう。
地震の話に戻って考えよう。地面は常に揺らいでいる。それはおそらく地殻のどこかで小さな岩がずれるということが起きているために起きる。つまりはプレート同士が少しずつズレながら動いている、という、ある意味では不安定な状況が生じているからだ。(地殻やプレートが全く動いていないのであれば、地震など起きようもない。)