2021年1月31日日曜日

続・死生論 22

  西谷啓治といえば西田幾多郎の弟子という事になるが、その西田が美について考えていることがとても参考になる。どこかにフロイトの臭いがするのだ。参考図書は藤田正勝著『西田幾多郎:生きることと哲学』(以下FM)である。

ちなみに今日のエントリーは井庭崇のConcept Walk という優れたブログを大いに参考にさせていただいた。

どうやら西田の発想は、ベルクソンの「直観」についての考えであったらしい。ベルグソンはの「物自身になって見るのである」という体験を受けて、「我々が物を知るということは、自己が物と一致するというにすぎない。花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」(西田幾多郎『善の研究』)としているのだ。「事柄は外からではなく、事柄自身になってはじめて把握されるという考えは、初期の思想だけではなく、西田の思想全体を貫くものであった。後期の著作のなかでくり返し用いられている「物となって見、物となって考える」という表現がそのことをよく示している。」(FM,p.60

これは世界や対象そのものとなって認識するという事だが、それが芸術に関係していると西田は考える。「事柄は外からではなく、それに没入し、それと一つになることによって初めて把握されるという考えが、西田の「純粋経験」論の根底にある・・・そのような経験のモデルを西田はしばしば芸術のなかに求めている。」(FM.p.62)「たとえば「純粋経験」において主客が人等になっていることを説明するために、「音楽家が熟練した曲を奏する」場合が例として挙げられている。」(Mp.62

しまった。井庭先生のブログの丸写しに近い状態になっている。「行為そのものに没入した境地において究極の芸術が成立するという考えを西田は早い時期から抱いていた。」(p.65

「私は感情というのは精神現象の一方面という如きものではなくして、寧【むし】ろ意識成立の根本的条件ではないかと思う。」(西田幾多郎「美の本質」)←この本は手に入れなくてはならない。
「西田は『善の研究』において、「純粋経験」が何であるかと説明するにあたって、それが「主客の対立」以前の経験であるとともに、「知情意」が一つになった経験であることを述べていた。」(FMp.72

以下は伊庭先生による重要なFMの抜き書き。
「自己の底に徹して、自己を自覚的に把握するとき、われわれは、「絶対無限なるもの」に、つまり自己を超えたものに出会う。しかし、この自己を超えたものは、自己の単なる他者ではない。まさにそこに西田の宗教理解の大きな特徴がある。」(p.151
「一般的には、宗教における絶対的存在は自己の外にあると言われる。しかし、西田は、絶対的なものをそのように単に超越的な存在として捉えることに反対する。・・・われわれがわれわれの自己の底に徹したときに出会われる絶対的に無限なものは、「自己がそこからと考えられるもの」、つまり自己の根底にほかならない。われわれはそこでわれわれを生かしているものに出会うのである。」(p.152

「西田のなかに生きていた東洋思想の伝統・・・・そのような伝統を踏まえて、西洋哲学が前提にしていた思索の枠組みを明るみに出し、それを突破し、事柄そのものに迫るということが可能になったのではないだろうか。あるいはより正確に言えば、東洋と西洋のはざまに立って、西田は西洋哲学を相対化し、それがはらむ問題点を掘り起こしていったように思われる。」(p.161
「日本の伝統的な文化のなかでは、無心ということ、あるいは己れを空しくするということが理想の境地として語られてきた。そのようなことも、西田のものの見方に深く影響を与えたと考えられる。」(p.193
「西田は、西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化は「無を実在の根柢と考えるもの」であらるというように、二つの文化を類型化し、対比的に論じている。「無の思想」という言葉で東洋の具体的にはインド、中国、日本の文化に見られる共通の特徴が言い表されているのであるが、しかし同時に、そこに存在する差異にも目が向けられている。西田によれば、インドの無の思想が「知的」な正確を強くもつのに対し、中国の無の思想は「行【ぎょう】的」な正確を強くもつ。それに対して日本の無の思想は「情的」な特質をもつ。」(p.164

「「絶対の無」はもちろん単なる無ではなく、そこには「深い内的生命」、あるいは「無限なる生命の流れ」がある。「場所」が自己のなかに自己を映すということが、ここではこの「内的生命」の自己表現、つまり「生命が生命自身を限定すること」として捉えられている。(p.165

「この「空間的」に、つまり形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、それを把握し、それを表現しようと試みてきたところに日本文化の特徴がある、というように西田は考えていたと言ってよい。そしてそれを「情的文化」といように言い表すとともに、その特徴について次のように述べている。「情的文化は形なき形、声なき声である。それは時の如く形なき統一である、象徴的である。形なき情の文化は時の如くに生成的であり、生命の如くに発展的である。それは種々なる形を受容すると共に、之に一種の形を与え行くのである。」(p.166
「西田は日本の精神的な伝統の最大の「弱点」を、それが「学問」として発展しなかった点に、言いかえれば、厳密な学問的方法の基礎の上に構築された理論として展開されなかった点に見ている。まさにその弱点を克服するために西田は、日本の精神的な伝統に対して、それ自身を「空間的な鏡」に映し出すこと、つまり、異質な文化との対決ないし対話を通してそれ自身の不十分性を明らかにすること(「自己批評」)を求めたのである。」(p.170
「私は仏論理には、我々の自己を対象とする論理、心の論理という如き萌芽があると思うのであるが、それは唯体験と云う如きもの以上に発展せなかった。それは事物の論理と云うまでに発展せなかった。私は先ず西洋論理と云われるものを徹底的に研究すると共に、何処までも批判的なるを要するのである。」(西田幾多郎『日本文化の問題』)

「『事物の論理』にまえで発展しなかったという仏教思想の限界を、西田はまた「意識的自己の問題に止まって制作的自己の問題に至らなかった」という言葉でも言い表している。」(p.176『西田幾多郎:生きることと哲学』(藤田 正勝, 岩波書店, 2007

 私がフロイトの考えとの共通点を感じるのは、対象や世界と一体となるという考え方がリビドーの撤去や同一化といったプロセスと、発想として共通しているように思えるからだ。

フロイトにおける対象との同一化はある意味では ego-centric な考えではなく、自らの移ろいやすさ transience を前提としたものであると言えるだろう。対象と一体化するという事は、主格合一、そして主はもはや対象との間を移ろう存在となるという事である。その意味ではフロイトのリビドーの撤収という考え方は誤解を呼ぶともいえるだろう。対象が内側に入り込むというだけではなく、自我が外側に出るという現象が同時に生じているからだ。

2021年1月30日土曜日

続・死生論 21

  そこにないもの nothingness, emptiness の意味を見出し、その価値を問うた哲学が、日本の京都から始まったことには意味があるだろうか?これは西欧では起きなかったことなのか。西欧における虚無主義に対抗する形で西田や西谷が打ち出した空や無の哲学はそのような意義を持っていたのだろうか?もしそうだとしたら、逆に言えばフロイトはそれを先取りしていたと言えるのだろうか?ここが悩ましい議論ということになるだろう。
    一つ明らかなのは、1982年に西谷が「宗教と無 Religion and Nothingness」を出版して高い評価を得たことが一つの大きなきっかけだったらしい。ここから一つ一つ西谷の理論を整理する余裕がないが、ネットでダウンロードできる James Heisig という人の「無の哲学者たちPhilosophers of Nothingness」を読んでみると、貴重な文章に出会う。西谷によれば、空 emptiness とは一種の立場 standpoint であり、そのイメージは仏教における中道であり、「仏教における中道とは客観的に現実的な世界を受容することと、それを主観的で幻覚的だと棄却することの間を言う。つまり現実の両方の側を見ることが出来る視点を指すのだ。Buddhist ideal of a “middle way” between the outright acceptance of the world as objectively real and the outright rejection of it as subjective and illusory, namely a standpoint from which one can see both ideas as two sides of the same reality. (p.223)」これはまさにホフマンが言う弁証法的構築主義の考え方である。あるいはこの方がもっと引用しやすい文だ。

2021年1月29日金曜日

続・死生論 20

 

ということで必然的に私自身の引用になる。

私は「受け身性、行動を起こさないことと日本のエディプス Passivity, non-expression and Oedipus in Japan」という論文で、日本社会では受け身的で、行動を起こさないことが、逆説的にある種のアピールや誘惑としての意味を持つ可能性について論じた。このような世界観は日本の伝統に根ざしていると言える。日本文化に特徴的な秘匿性 secretism や表現しないことnon-expression とどのように関係するか。少なくともこのテーマは空とか無の問題と関係していそうである。本質的であればあるほど形を持たないという逆説がそこに関係している。

私はこれを書きながら、一つ疑問がある。私がIJPAという専門誌に論文を掲載してもらったことは、この10年間で一番幸運なことだったが、正直なぜこの論文が受理され、それがどのような意味を持っているのかがわからない。それが分かればそれを継承し、発展させた論文を書いていきたいし、もちろん今書いている死生論のこの論文にも反映させたい。でもそれが何かが分からない。この論文で私が書いたのは次のようなことだった。「日本では秘密にされ、表現されないことの中に真実があると考える傾向にある。そしてそれがエディプスコンプレックスの議論にどのようにかかわるかが問題となる。」これが「日本におけるファルス問題」である。日本人はファルス(象徴的な意味でのペニス)を持っていないふりをしているのか、隠しているのか、実は本当に持っていないのか? これは持っていたらふつう、それが大人の印であり、それを隠す道理はない、という西欧社会のロジックに比べてかなり複雑でややこしい。核で言えば日本は「私たちは核を保有しているかどうかについてコメントいたしません」という立場に似ている。(最も核を保有していないということはあまりに明らかだと世界は思っているので、この「ノーコメント」は何の抑止力にもならない。

ではこれがどのようにして死生学と関係してくるのだろうか。この論文では「羽裏」について論じた。日本で羽織の裏側に華美な絵を施すことを言う。全く同じ模様でも、羽裏は「羽表」(そんな言葉があるかどうか知らないが、要するに羽織の表面に装飾を施すことをこう呼ぼう)にない美しさがあるのだろうか。すると羽裏は隠れていることからくる美しさを持っていることになる。それと同じように対象はそれが本質的には(永遠には)存在しないものとして、いわば不在の在としてとらえることで美しさを発揮するのであろうか、という話になる。「対象の喪を先取りすること」(フロイト)とは「対象をその(本来的な)不在において体験すること」だとすればこれは同じ議論になる。フロイトは羽裏のことを言っていることになる。羽裏を身につけるという体験はそれを実際に体験することだろうか。羽裏を着ている時、その模様は見えていない。でも心の中では見ているし、その模様は心的な意味でも、物理的な意味でも内在しているからだ。

北山先生は transient (儚さ、無常)は時間的な推移であり、transitional (移行の)は場所的な推移であると説明した。しかし実際は transience を今ここで体験するとしたら transitional なものとして体験するしかないだろう。それは羽裏なら裏と表として同時に、対象なら外的対象とそれが内在化された対象とを同時に、ということになる。それが喪を先取りするということにもなり、ホフマンはそれを弁証法として表現した。ここら辺の考察から、美はtransiency に本来的に備わっているもの、という結論を出していいのだろうか? 少なくとも私の研究はそのような主張をしていた。

2021年1月28日木曜日

続・死生論 19

 どうして儚さの問題が美につながるのか。それはフロイト流に言えば、喪のプロセスにより対象は内在化されると同時に、リビドーが撤去されることに伴う快感ということか。外的な対象に備給されていたリビドーが解放されるのが快感という風に考えれば、フロイトの欲動論にも合致することになる。また系統発生論的に言えば、喪の先取りをすることを快楽とする人が生き残ったのか。自分の運命を冷静にとらえられる人(というかそのような思考への志向性のある人)は子孫を結果的に生みやすい?しかしともかくも芸術はそれに接することで内面化、内在化が生じ、それが美の感覚と符合しているという可能性がある。「儚さと美」を理解するカギはそういうことなのか。

内在化が快を生むというのは芸術の一つの特徴と言えるのではないか。ある曲やある絵画を鑑賞するということは、それに感銘して心を動かされることがあればあるほど記憶に残り、すなわち内在化されるであろう。

実は儚さと美を求める傾向は北山論文に見られる、ということで日本の話に結びつけるのが自然だろうか?それはこんな風に書きだすことができる。
 フロイトと同様にtransience について精神分析の文脈で扱った論考の中で、日本の分析家北山の論文は欠かせない。日本文化の中に儚さに美を見出し、そこに失われるものを投影するという伝統が存在することについて論じる。移ろいやすいものは私たちの何かを強烈に投影する。それはフロイトの言うように、時間の流れにおける希少さが価値を生むからだ。北山は特にそれが日本人のマゾキズムと連動している点に注目する。日本人は最後が別離で終わる物語を好む傾向があるとし、こう述べる。「この抑うつ的な傾向は示唆に富んでいるように思われよう。しかしこれは病的なまでに自己破壊的で、自分自身の命も含めたすべてを儚いものと感じることにつながる。

北山論文(Transience: its beauty and danger, 1998).の中で美に関する記述を抜き書きしよう。In my opinion, transition can be just joyful but it is often accompanied by a sense of transience or transiency that is more or less painful sentiment, sometimes even involving an artistic sense of beauty as well as sense of sadness, emptiness and depression.(p.940)

北山はこう言い切っているわけだが、その根拠は示していない。浮世絵などの美術作品を見れば明らかではないか、ということだろう。でもこれをマゾキズムとするならば、少なくともそれに伴う快感の説明は示されていることになる。

つまりこうだ。日本文化においては自らを消すことによる美をことさらに追及する傾向があり、それはマゾヒズムに関係しているであろう、と。私自身も受け身的で、行動を起こさないことが、逆説的にある種のアピールや誘惑としての意味を持つ可能性について論じた。このような世界観は日本の伝統に根ざしていると言えることを論じた。それが羽裏に表れる。羽裏は表れていると同時に隠れている。来ている人の心には内側の華麗な絵が見え隠れしている。そしてそれは自分の中で完結している。それと同じように自らの死すべき運命も自らの中で完結しているのだ。しかしそれはベッカーの言う祈りや信仰にもつながる傾向なのだ。

2021年1月27日水曜日

続・死生論 18

 後半を「空」や「無」の話に移行させるということでよさそうだが、そうすると前半のフロイトに関する議論と、後半の前半の部分をうまくつなげなくてはならない。ということで前半部分を読み直す。フロイト以降のいろいろな人の論文を読んだが、結局喪の先取り、ホフマンの弁証法の議論と言うあたりがフォーカスになるという考えは変わらない。そのような心の動きを揺らぎ Fluctuating mode of mindという形で、言い表すことが出来ようか。そこまでどうやってまとめたらいいだろう?

フロイトの「儚さ」に描かれていたのは、喪の先取りの重要さであり、それは対象喪失にも自らの死すべき運命についてもそうであるという論旨でこれまで進んできた。結局はすべては悲哀とメランコリーに語りつくされている、というのがSchimmel の立場であると言っていい。彼の口を使ってそのように語ることができる。そしてそれがホフマンに受け継がれたことについては、Slavin が見事に描き表している。そしてこれがまた美にかかわってくる。Slavin さんがこれをどうして美と結びつけたかについての説明はよく分からないが、おそらくauthenticity と関係しているのだろう。あるものを真正なものとして体験している時、そこには欺瞞が可能な限り捨象されているはずだ。では何が真正さかといえば、人間の有限性finitude ということになる。それが美の感覚につながるというのが一つの仮説として成り立つであろう。死を覚悟した人生の処し方はある種の一貫性や透明さ transparency を有するが上に、美的な価値を生む。

前半部分でやはりどうしても未解決と言わざるを得ないのが、揺らぎと美の関係である。あるいはそれに向かう私たちの志向性ということだ。儚さは美という形での快感を生むから私たちはそのような心に向かうのだろうか。それともベッカー流に、それは心の真実だからだ、人が自分に正直になればわかることだ、と言うべきなのだろうか。そもそも私はどうして人生のこの時期に自然とこのテーマに向かっているのであろうか?

2021年1月26日火曜日

続・死生論 17

 閑話休題。大学の修士論文の審査で7本の力作を読んでいる間、すっかり本テーマの方に手が回らなかった。しかし幸いなことに、転んでもただで起きずに済んだ。というのも死生学について書き足していくうえでの重要なテーマを得ることができた。それは「無」ないし「空 emptiness」の概念の再認識である。ある修士論文が扱っているテーマから、私はこの概念に導かれた。西田哲学に始る善や哲学の文脈で、具体的には西谷啓治の空の思想が「儚さ」ととても近い関係にあることを知った。西谷の著書は海外に広く知られている。彼の英文での著書「宗教と無」Religion and Nothingness (Nanzan Studies in Religion and Culture, 1983)などが広く海外で引用されている。そして肝心なのは、結局空が、無常transience と極めて近い概念であるということだ。私たちが「色即是空」などという表現で知っている「空」は何もないもの、ではなく常ならぬもの、あるいはいずれは消えていくもの、儚きものということだ。岩波仏教辞典(第二版)にも、空とは結局「無常」であると記されているという。

Lehel Balogh という人の2020年の論文 Nothingness, the Self, and the Meaning of Life Nishida, Nishitani, and Japanese Psychotherapeutic Approaches to the Challenge of Nihilism Journal of Philosophy of Life Vol.10, No.1 (July 2020):98-119を読んでみる。西谷は1949年に京都で「虚無主義nihilism」についてのレクチャーを行うことにしたのが始まりだという。そこで強調されたのは京都スクールや森田療法や内観療法がいかに危険な虚無主義から脱出するかを探る上で考え出されたものであるという。そうか、ここら辺はみなつながっているというわけだ。

 

2021年1月25日月曜日

続・死生論 16

 最後に必読文献Tammy Clewell (2004) “Mourning Beyond Melancholia: Freud’s Psychoanalysis of Loss.” Journal of the American Psychoanalytic Association 52.1 (2004): 43-67. を読む。この論文の主張は、Schimmel とも少し違い、フロイトの意見は「悲哀とメランコリー」や「儚さ」(1917)の時代から、「自我とエス」(1923)の間にある変化を遂げたということを強調している。それは「喪の仕事は完結する」という立場から「決してそれは起きない」という変化である。もう一つは前者では同一化はメランコリーで生じることとされていたが、後者ではそれは喪における重要なプロセスであるという主張の変化があったということだ。そして後者を自我の「哀歌調elegiacの構成」と呼び、そこでは対象備給の沈殿物precipitate of abandoned object-cathexes が自我を構成しているとする(p.52)

そして対象は記憶になるのだが、そのために過剰想起hyperrememberingが起きるのだという(p.44)

しかし文中では「儚さ」ですでに喪のプロセスがそう簡単にはいかないことの認識を示した最初の論文でもあったとも言っている(p.58)。「悲哀とメランコリー」ではフロイトは喪は完遂すると言っていたが、「自我とエス」では一生続くという意見に代わっている(p.61)。ということは「儚さ」は両方の論文をつなぐ橋となるような意味を持つのか。実際に「儚さ」(1916)は「悲哀とメランコリー」が書かれた数か月後に、戦争が始まって15か月後に書かれたというのだから、まさに過渡期の考えがそこに詰まっているということだろうか (p57)

2021年1月24日日曜日

続・死生論 15

 ところでこの文脈でSchimmel の論考を振り返っておくのは重要である。(Paul Schimmel (2018) Freud’s “selected fact”: His journey of mourning. International Journal of Psycho-Analysis, 99(1):208-229)フロイトの「悲哀とメランコリー」は、従来はフロイトがその一部を破棄したとされるメタサイコロジーの一連の論文の一つとされると考えられていたが、それとは異なる見解を示す。それはこの論文が「戦争への失望と私たちの死への姿勢」(1915)や「戦争に関する時評」(1915)や「儚さ」(1916)と一緒に分類されるべきであり、それらはフロイトがそれまでのリビドー論から抜け出した新たな境地を示しているという。そしてそこには第一次大戦からの影響が大きかったという。彼の楽観的な考えをよそに戦争は拡大し、彼の長男のエルンストも徴兵され、フロイト自身もうつ状態に陥る(p216)。論者によってはそれはユングとの決別にまでさかのぼるとする(p225)。「私たちの死への姿勢」(1915)でフロイトは、死の現実を認め、受け入れることで人生はより充実し完全なものになると書いている。The recognition and acceptance of the reality of death allows life to become fuller and more complete.「儚さ」の論文に出てくる詩人は実はメランコリーに陥っていたフロイト、喪の作業を行えないでいたフロイトであり、それに語り掛けたフロイトは失われたものを乗り越えて新たなるリビドーを獲得した喪についての理論を打ち立てたフロイトをあらわしているともいえるという(P.217)。

Schimmelはフロイトが発見したのは、「喪の中心テーマは、喪失による精神的な苦痛を耐える能力こそが、心的な現実に向き合い続けるための条件である」ということであり、これこそが彼が臨床的な現実から出発した発見であると述べる。The centrality of mourning, that is the capacity to tolerate the psychic pain of loss, as a condition for maintaining contact with psychic reality, is a clinical fact.(Schimmel, p.225) 

もし彼が言うとおり、フロイトが精神性的なテーマに代わる大きなテーマを確立したのであれば、Beckがあれほど批判したフロイト理論の非実存主義的な性質は、喪の理論により超えられていたともいえよう。

このSchimmel の主張に私が付け加えたいのは、フロイトは対象喪失の問題を通して、おそらく自分の人生に対する喪の作業を含んだメッセージであったということである。そしてそこで描かれているtransience の意味は彼によっては大きく取り扱われてはいないが、これが死生学thanatology と関係し、そこに美の要素が加わって論じられているということである。Schimmel が述べている、フロイトのメッセージ、すなわち喪失による精神的な苦痛を耐える能力とは、端的にフロイトが自らが死すべき運命であることを知るべきだという主張について述べているようにも思える。

 

2021年1月23日土曜日

続・死生論 14

 スラビンさんの論文はとても重厚で、でも感覚的な筆致である。詩的、と言ってもいい。Psychoanalytic Dialogue という専門誌の性質だろうか。この論文で私が学んだのは、要するにホフマンのいう構築主義的弁証法のテーマは、死生論を超えているということである。スラビンさんはホフマンの立場をuniversal features of the human condition と呼ぶ。そしいて人が知性を得て抽象的な思考を操れるようになることで払わざるを得なくなった代償は私たちが有する有限性 finitude だが、それは自分という意識がいずれは消える、対象はやがて失われるという儚さ transience だけでなく、いくら他者がいても私達は孤独だということも同様に含まれるということだ。安永浩先生のパターンのA面、B面のように、生と死、自己と他者という関係性は図と地の関係にある。片方を体験するとき、もう片方はどうしても意識外に消えるのだ。例えば他者とつながったと感じるときにその他者が自分を(あるいは自分がいつその他者を)いつ裏切るかわからないという考えは浮かばないことになっている。(というかAをそのものとして純粋に体験するときにBは入り込めない)という性質を持つ。そして人間が知性を持つということはこのBがいつ何時襲ってくるかわからないということだ。これをフロイトは「喪の味見 foretaste of mourning 」と表現したのだが、このような心の動きをそのままホフマンは「構築主義的弁証法」と名付けているのだ。

スラビンさんがこれをどうして美と結びつけたかについての説明はよく分からないが、おそらく authenticity と関係しているのだろう。あるものを真正なものとして体験している時、そこには欺瞞が可能な限り捨象されているはずだ。では何が真正さかといえば、人間の有限性finitude ということになる。それが美の感覚につながるというのが一つの仮説として成り立つであろう。死を覚悟した人生の処し方はある種の一貫性や透明さ transparency を有するが上に、美的な価値を生む。

2021年1月22日金曜日

続・死生論 13

 Slavin, MO. (2013) Meaning, Mortality, and the Search for Realness and Reciprocity: An Evolutionary/Existential Perspective on Hoffman’s Dialectical Constructivism. Psychoanalytic Dialogues, 23:296–314.の中身を見ていく。

 Slavinは言う。私たちが生きると言うことは意味をつむぎだすことだが、それは残念ながら永遠には続かない。愛も、目的も、美も。私たちの生きる主観的な宇宙は常に浸蝕されている。ホフマンはしかしそれを悲劇的ではあっても、grim (冷酷でぞっとするような)ではないという。むしろ高貴で美しいと言うのだ。ただ彼が美、というテーマに言及するものの、その根拠はあまり示されない。むしろ彼が強調するのは、死すべき運命を緩和する母親の役割についてである。そこでは自分の限界があるということは、子供にとっては他者の持つ限界、もう少し言えば他者は自分自身を最も愛するということ(もちろん自分もまた自分自身を最も愛するということは当然である)というどうしようもない限界性と闘うこととして表現されている。「生―死」と「自―他」は似たようなものなのだ。そして両者は人間が知性を獲得したことの代償として必然的に生じてくる問題であるという。

(やたらと短いが、7本の修士論文を読まなくてはならず、まったく時間が取れないのだ。)

2021年1月21日木曜日

続・死生論 12

 ホフマンの論点に戻るならば、彼はフロイトは「儚さについて」の論文において、明示的にではないが、死についての議論を実存的なレベルで扱っているという。そこでのキーワードは喪の前触れ foretaste of mourning という概念だ。やがて失われる対象に対してあらかじめ喪の作業を進めることの必要性を説いたのである。しかしそこでは愛する対象の喪について論じていながら、事実上自分の死についても論じているとホフマンは考える。つまりこの論文はそのままフロイトにとっての事実上の死生論なのだ。無意識の時間性を主張したフロイトは、しかしこの喪の先取りの問題において、明らかに時間性を持ち込んでおり、それはフロイトのそれ以外での機械論的な議論とは一線を画している。
 人が有限性に直面した時に生じる価値の問題について扱うという実存的な姿勢は、人間の本質的なあり方であるとベッカーは主張するが、フロイトの「儚さ」には確かにそのような傾向が見られる。ただそれによってフロイトは実存主義を超えた、ということはとてもできないとホフマンは言う。そしてここも強調されている点だが、(ホフマン、拙訳、p.95)フロイトは有限性について3つの態度を個別に述べているが、それらが共存するという実存的なあり方をしっかり論じていない。つまり花がいずれ枯れてしまうということを認識することは、物事の価値を奪う恐れと、それを高める可能性の両面を含んでいるという実存的な体験の在り方をとらえてはいないというわけだ。それぞれがあたかも別々に扱われている。それがフロイトの「諦めればいいではないか」というあっさりした態度に表れている。
 ところが人間は実存的な存在であるというキルゲゴールのような立場からは、フロイトの立場はあきらかに強がりであり、無理であるというわけだ。つまりジレンマを扱っていないという意味で、なのである。
 しかし私の見解では、そのことをやがてフロイトは気が付いたのだ。それは「喪は完遂出来る」という立場から、「それは永遠に終わらない作業である」、という立場の変化によってあらわされている。そしてその結果として彼が至ったのは、「喪失からくる精神的な苦痛を回避しないこと、それに直面することが人生に喜びを与えるのだ」というフロイト自身の結論だったというわけである。
 ところでホフマンのフロイトに関する見解は、もちろん彼の提唱する弁証法的構築主義の考えに行き付く。このテーマに関してのSlavin の論文は秀逸である。(Slavin, MO. (2013) Meaning, Mortality, and the Search for Realness and Reciprocity: An Evolutionary/Existential Perspective on Hoffman’s Dialectical Constructivism. Psychoanalytic Dialogues, 23:296–314, 2013.

2021年1月20日水曜日

続・死生論 11

 閑話休題。一つ書き留めておきたいことがある。人の(動物の?)中枢神経は、対象を内在化する際に一種の興奮や快感を生むらしい。シナプスによる連絡が形成されることは一種の快を伴う。ヘッブ則(いくつかの神経細胞は、それが同時に興奮することでそれらのシナプス結合が強化されるという法則)には快感というバックアップシステムがなくてはならない。そしてそれが幼少時にプルーニング(剪定)を伴う連合ネットワーク association network (AN)が形成されていく際は、もうそれ自身がとても快を生むために極めて自然に進行していく。人が母語を覚える過程などはそれである。だからどんなに怠惰な子供でも言葉を覚えるのが面倒くさいので話せない、ということが生じない。そしてこのことはそのまま内在化のプロセスにおいても生じる。

さて目の前の美しいがやがて消えてしまう運命にあるもの、例えば美しい花は、それが内在化される(というか、その体験を覚えておく)プロセスが伴うために大きな快を含むのではないか。対象を知覚し、感じ取る時にすでに内在化は生じ、ANが盛んに形成されていく。美しいメロディーはそれが脳の中のコピーをより詳細に、鮮明にするというプロセスでANがさらに詳細に形成されるので快感を呼ぶ。しかしそれがもう直接体験できないと感じると、それを心に保存し、つなぎ留めておかなければ、と焦るからだ。対象を「不在モードで」(つまりいずれはなくなるのだ、と思いつつ)体験するとそれだけ感動が伴い、それが美の感覚や芸術的な価値として体験される。美とは要するに快感原則なのだ。

ある何の変哲もない(と多くの人が感じる)壺を見て快感を得るとしたら、その人にとっては芸術や骨董としての価値を持つであろう。そしてその時のその対象はフラクタル的に映るのだ。すなわちどのような細部を眺めても、そこにはそこで新たな奥深い世界が展開するために見飽きないのである。

さて喪の作業においては目の前の対象は半ば、あるいはすでに永遠に消えている。愛犬をなくして悲しみに暮れても、やがて心の中の愛犬の思い出だけで何とか耐えられるようになり、喪の作業は完成に一歩近づく。もう対象に直接触れて新たなANの形成を体験する機会は永遠に失われた。でも心の中の内在化された愛犬を子細に眺めて楽しむことができる。でもその内的対象は残念ながら新たなANを積極的に与えてはくれない。だから人は再び外に新たな対象を求めるようになる。

では自分自身の喪の体験、すなわち死すべき運命の受容の体験はどうだろうか?このような脳内のプロセスを考えることは、喪と美との関係を知るうえで少しは役に立つのではないだろうか。


2021年1月19日火曜日

続・死生論 10

 ホフマンによればフロイトはその理論の変遷の中のいくつかの文脈で死について論じているものの、そこに首尾一貫した死生論は見いだせない。それらの文脈とは以下の4つとされる。1.局所論的モデルからの観点、2 死の欲動の観点、3.構造論的観点、4「無常について」に見られる「実存的」観点である。

このうち1、については、ホフマンは最初にフロイトが死について論じた1915年の「戦争と死に関する時評」(3)で「無意識は不死を信じている」と述べていることを指摘する。死は決して人が想像できるものではないからだというのがその理由であるというのがフロイトが示す根拠である。しかしフロイトはまた「ナルシシズム入門」(4)で「死すべき運命は人の自己愛にとって最大の傷つきともなる」という主張も行なっている。ここで自分が想像することが出来ない死を、しかし自己愛に対する最大の傷つきと考えるのはなぜか、ということがフロイトの議論の中での大きな矛盾点である、とホフマンは指摘する。またこの考えはフロイトの「無意識は無時間的である」という提言と矛盾するという。時間性が欠如するという点については、「不死」つまり未来永劫生き続ける、ということも想像できないはずだからだ。だから結局無意識は死すべき運命も、不死についても、両方を含みうるのではないかというのがホフマンの主張である(p,79)。そしてホフマンは、結局フロイトの主張の逆こそが真なのであり、無意識に追いやられるのは、死すべき運命の自覚であるという。つまり人は「自分はいずれ死ぬのだ」という考えこそを抑圧しながら生きているというわけだ。そして精神分析の世界では死に関するフロイトの矛盾した主張が延々と継承されてきたということを遺憾とする。

ここでのホフマンの主張は常識に照らしてもおおむね納得のいくものだと筆者も考えるが、「不死でありたい」という願望はどうだろうか? それは非現実的だから抑圧されるであろうし、それがフロイトが言いたかったことではないだろうか、と筆者は考える。

改めて考えると、自らの死すべき運命についての心理的な処理の仕方はおそらく多層的である。通常の意味での生が終わることを覚悟はしていても、何らの形での来世の存在を信じるかにより、その覚悟は微妙に異なる可能性がある。ただまず否認や抑圧の対象になるのは、死すべき運命の方であるという主張はフロイト以降の死生学において繰り返して主張される。

エルンスト・ベッカーはその大作「死の否認」において、自らの死すべき運命に対してそれを不安に感じたり否認したりするのは人間存在の根本的な問題であり、実存的なジレンマであるという。そしてフロイトはその理論体系そのもので死の否認を行っていたことを示唆する。その性愛論においても、抑圧されるべきは性愛性ではなくて死すべき運命そのものだという。ベッカーはそれをフロイトの決して屈しない not yielding 性向に関係するとし、「エディプス的な計画」という用語を用い、人が死すべき運命を乗り越えようとする試み、いわゆるcausa-suiの一つであるとする。またフロイトの後年の死の本能という概念が、死すべき運命を生物学的、本能論的なものとして対象化して扱う試みであった。

しかしベッカーは現実の人間としてのフロイトが自らの死をどのように扱っていたかについても言及する。フロイトは他方ではすべてのエディプス的な戦いを止めて屈服することへの願望を有し、それがいくつかの失神のエピソードにも表れていたとする。これらのベッカーの考察は極めて示唆的であるものの、それが特に「儚さ」の論文を扱っていないことが残念である。