2018年8月31日金曜日

解離ートラウマの身体への刻印 26


 トラウマと自律神経の深いつながりについての研究に大きな貢献があったのが、メリーランド大学の Stephen Porges 1994年に提唱したポリベイガル polyvagal 理論 (重複迷走神経説、多重迷走神経説、などとも呼ばれる)であった。彼は従来光を当てられてこなかった腹側迷走神経の役割を解明したことで知られる。
ここで迷走神経についてのまとめ
頭蓋神経は12対あるが、その中では最長、唯一身体にまで長く伸び、結腸にまで及ぶ神経である。感覚機能と運動機能をつかさどる。
感覚機能:身体部分(皮膚、筋肉の感覚)と内臓部分に分かれる。そのほか内耳、外耳、喉、食道、肺、気管の感覚。
運動機能:咽頭、喉頭、軟口蓋の刺激、心臓の拍動の低下、消化管の不随意運動。
迷走神経の障害
迷走神経はあまりに長く、あまりに多くの部位に及んでいるため、その症状も多岐に及ぶ。失声、嗄声、飲むこと、咽頭反射、耳痛、吐き気、嘔吐、胃痛など。でもこれらのことはいつも言われていたことだ。

 この迷走神経とトラウマの関係を解明する上で大きな役割を果たしたのが、上述のポリベイガル理論である。ポージェスのこの理論の意義は、迷走神経が大きく分けて腹側と背側に分岐することを明らかにし、それぞれの系統発生学的な由来について整理したことにある。特に腹側迷走神経(VVC)は従来あまり注目されてこなかったが、それは人が通常は警戒しつつも生きていくうえで大切な部分であり、特に社会での生活の中で発達していくという。そして危機が訪れると、交感神経系を興奮させ、闘争逃避反応を起こす。しかしそれでも逃げられないとなると、背側迷走神経(DVC)が登場し、体をフリーズさせ、解離を起こさせるという。つまり今目の前で起きていることに耐えられずにスイッチしてしまう状態とは、このDVCが刺激されている状態というわけだ。ということはスイッチングの決め手になるのも迷走神経、ということなのだろう。
Porges, W. S (2011) The Polyvagal Theory. W.W. Norton & Company, New York USA
この論文の骨子は以下の通りだ。系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経 unmyelinated visceral vagus で、これは消化を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまう。第二の段階は交感神経系である。第三の段階は、有髄迷走神経 myelinated vagus で、これは哺乳類に特徴的で、環境との関係を保ったり絶ったりするために、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類の迷走神経は、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり副腎皮質、視床下部-下垂体-副腎系、オキシトシンとバソプレッシン、免疫系などと共に進化してきた。
基本的には無髄であった迷走神経は、哺乳類に進化することで、有髄の迷走神経が分岐し、成立した、というのだ。そしてそれも迷走神経核からしっかり出ているという。ポージス先生は、この新しい迷走神経、つまり腹側迷走神経(VVC)は通常は下位の、つまり古くからある交感神経系やDVC、つまり背側迷走神経を抑制しているが(昔から言われているジャクソン仮説だ)、ピンチの時は、この最新のシステムが停止してしまい、下位のシステムが働き出すという。

2018年8月30日木曜日

他者性の問題 11


これまで書いたこと、ちょっと英語にしてみた。

The Problem of “Otherness” in Dissociative Disorder

Treating and interacting with patients with dissociative disorder is a constant challenge to our belief about human mind that we commonly and uncritically hold in our daily life. The matter of “otherness” among parts of personalities is one of them.
A patient of mine, Ms. A, one day talks about her recent experience.

The other day I was driving a car and waiting at a traffic light. When it turned green, a car ahead of me didn’t respond until a moment later and I heard a voice on the back of my head yelling “Gee, aren’t you sleeping ? Get started right away, silly!” I said to myself “My goodness, can’t you be more patient??”  Of course I was driving by myself and it was B, one of my alters, who yelled. 

In this example, it seems obvious that Ms. A has a very different perception and emotional reaction compared to Mr. For her perspective, Mr.B is someone else, another subject, if not altogether another person. The question is whether or not we grant Mr.’s otherness from a perspective of a clinical observer, such that Ms. A feel understood by us ?
If we are not sure about how we can answer to this question, just think about another example in a thought experiment.
M.C is at a traffic light, in a same way that Ms. A did. When a car ahead of her was inattentive in a same situation, she hears a voice from her back. “Gee, aren’t you goofing off ….” Ms. said “Can’t you be more patient??” It was her husband on the back seat who yelled.  
How many of us are sure that we acknowledge Ms.’s perception of Mr.’s otherness, on a comparable level as Mr.’s of her husband, which is a real other person? Perhaps not many. I believe that it is partly due to the fact that we consider multiple existences of subjects in Ms. A as something pathological, that we should try to mend by our therapeutic approach. This belief is most eloquently exemplified by the very definition of DID.
“Dissociative Identity Disorder reflects a failure to integrate various aspects of identity, memory, and consciousness.” (DSM-5, American Psychiatric Association, 2013).

The purpose of my paper is to demonstrate that individual with DID’s perception of their parts of personality as “others” is not altogether pathological but rather a healthy aspect of their perception, from theoretical as well as neurocognitive viewpoints.

2018年8月28日火曜日

解離ートラウマの身体への刻印 25

「身体への刻印」 第三のタイプ
自律神経系への刻印またはPolyvagal theory ポリベイガル・セオリー
トラウマと身体との関連で、最近注目されているのが、自律神経系である。自律神経は全身に分布していて、血管、汗腺、唾液腺、あるいは胃、腸管、肝臓、腎臓、膀胱、肺、瞳孔、心臓などの臓器、そして感覚器官を支配している。ただしそれは不随意的であり、意識的にコントロールできないため、その過剰(過少)な働きは症状となって表れやすい。
例えば職場のストレスを抱える人が、出勤の途中でめまいが起き、心臓がドキドキしたかと思うと汗が出てきて嘔気がする、などの形をとる。これらの症状の扱いは、第二の刻印のタイプとして示した、転換症状とは大きく異なる。すでに述べたように、転換症状は神経学的な所見となって表れる。患者さんは神経内科や眼科、耳鼻科などを受診する。症状の表れている器官は部位は特定できている。しかしめまいや動悸や発汗はいわば不定愁訴の類であり、その原因は不明であったり、あまりに多くありすぎて特定することが難しい。そしてこれらはうつ病の身体症状としても数えられる。患者さんはまずは内科を訪れ、その一部は心療内科や精神科へ紹介されるであるだろう。
さて今うつ病の身体症状を言ったが、これらの自律神経症状は様々な内科的な症状となるとともにうつ病その他の種々の精神疾患にも伴う。するとトラウマと自律神経症状はどのように関連しているのか。自律神経症状はトラウマの身体への刻印としての意味を持つのであろうか?
実はそうなのである。自律神経症状とトラウマの関係は最近のトラウマ研究のひとつのトピックとなっているのであるが、自律神経はトラウマやストレスと密接な関係があることが明らかになりつつあるのだ。

2018年8月27日月曜日

ある「前書き」


本書は、精神分析的精神的セラピーを志す者にとっては極めて明快でかつ平易な言葉で書かれたテキストである。(ちなみに本訳書では心理療法、精神療法を「セラピー」と、療法家を「セラピスト」と呼んでいる)
本文からは著者○○女史の息遣いが伝わってくるようだ。精神分析を非常に積極的に日常臨床に取り入れようというその姿勢。そしてそれを確固たる精神分析的なトレーニングとそれに基づく治療理念が支えている。著者の頭には治療の設定、治療構造とはこうあるべきものである、というモデルが明確に備わり、その構造を厳守し、受け身性を保ち、転移解釈を中心とした技法を守るという姿勢が見られる。しかしそのうえで柔軟性に富み、患者に寄り添い、細やかな配慮を忘れない。このようなセラピストを持った患者やバイジーはさぞかし安定した治療の場を提供された安心感や心地よさを覚えるだろう。
患者は○○女史との治療では、時間が過ぎた後に少しぐずぐずしたり、よもやま話をすることは、あまり期待出来ないかもしれない。でもそこには「構造を厳守することで、あなたやあなたとの治療関係を大事にしているのですよ」というメッセージが同時に聞こえてくるだろう。つまり彼女は常に患者のことを考え続けてくれているのである。そしてこれが女史なりの分析的セラピーのスタイルである。
私はこれまでにスーパーヴィジョンや症例検討を通して、様々なスタイルのセラピストたちに接する機会を持って来たが、彼らの多くが精神分析的なオリエンテーションを有する。その彼らとのかかわりを通じて、「セラピストが精神分析を母国語とすること」について考えるようになってきている。サイコセラピーをライフワークとして選び、本腰を入れて学びたい人の多くは、精神分析をその入り口として選ぶ。それは精神分析には長い伝統があり、そのトレーニングの環境がその他のセラピーに比べて整っているからだ。そしてそこでフロイトを学び、転移解釈の重要さを叩き込まれて育っていく。それから後にそのセラピストがどれだけ精神分析以外の世界に触れ、どのように折衷的に、あるいは統合的になっていくかは、ケースバイケースであろう。ただしおそらく彼らの頭の中で依然として用いられるのは、精神分析的な概念である。
精神分析のトレーニングから入り、自分流のセラピーのスタイルを追求したセラピストの中には、最終的には伝統的な精神分析とはかなり異なるスタイルを確立するかもしれない。しかしそのセラピストはおそらく母国語である精神分析の用語を用いてその違いを語るだろう。たとえば「私は治療構造を重視する一方では、分析的な隠れ身は私は重視していません」などというように。そして私はその立場も精神分析的、と呼んでいいと思う。
その意味で○○女史は精神分析を「母国語」とし、しかし柔軟で豊かな感受性を持った、彼女流のセラピーのスタイルの完成形をここに示している。そのスタイルはかなり伝統に忠実でありつつ、それとは距離を置いた点も見られる。そのひとつが、終結をめぐる議論である。彼女は週4回を最後まで続けていきなり終結をするという伝統的な分析のモデルに異を唱える。また治療場面において贈り物を受け取る際に見せる柔軟さにも、彼女らしさが現れている。
本書が備えるいくつかの特徴は、自分なりの精神分析的なスタイルを模索するセラピストたちにとって大いに助けになるに違いない。特に第3章のフォーミュレーションの書き方、第6章の防衛的な患者の扱い、第8章のスーパーヴィジョンの活用、に著者らしさが表れている。これらの記述長年のスーパーヴィジョン経験を裏打ちされる具体的でかつ懇切丁寧なものであり、ビギナーのみならず指導者レベルのセラピストにとても参考になるであろう。
翻訳者○○氏も精神分析を基本的なアプローチとして経験を積んだベテランのセラピストである。彼女が分析的セラピーのスタイルを自分なりに作り上げる上で、○○女史のこのテキストは大きな影響を与えたことが伺える。それが彼女の翻訳の確かさに表れ、私が手を入れる必要はほとんど感じなかったことを付け加えておきたい。


2018年8月26日日曜日

他者性の問題 10


 偉いぞ、視床君、ということでエデルマン先生の論文のもう少し先を読む。こんな大事なことが書いてある。脳の別の部分が意識に関与している時、それらはγ(ガンマ)波の範囲で同期している。もうここら辺は論文にしてもいいくらいだ。They suggests that when separate cortical areas contribute to the contents of CS, they exhibit enhanced synchrony in the gamma frequency band (Engel and Singer, 2001p.2).
 つまりここがバールズ先生とエデルマン先生の理論のハイブリッド、ということだ。GWSとは蜘蛛の糸のように皮質の各部分と交流していて、それが双方向性であるという。するとこのGWSが視床に存在するとしたら(ただそうはまだ読めていない。読解がまだ足りていない)、見事に両理論は合わさっていることになる。)
 ところでこの際エデルマンさんたちの神経ダーウィニズムについても勉強しておこう。彼らによれば、3つの法則があるという。
1.  発達的な選択 - 一緒に発火したニューロンは結びつきあう。これはよく言われる。
2.  体験的な選択 ― 結びつきは体験によりどんどん変わっていく。
3.  再入 reentry ― 脳の一つのエリアからもう一つのエリアに向かっての、長期にわたる、相互的な、そして膨大な並行的結合により、ダイナミックな時空間的なコーディネーションが、グループのサーキットに与えられる。それが統合され、適応的な意識的行動を可能にする。

2018年8月25日土曜日

解離―トラウマの身体への刻印 24


「身体への刻印」第二のタイプ
トラウマの身体への刻印の第二のタイプは症状としての身体反応、すなわちいわゆる転換症状である。ただしその詳細な機序についてはほとんど何も明確になってはいない。転換症状は臨床上は極めて多彩な形で表現されている可能性がある。それを一言で表現するならば、「機能的な神経学的症状」となる。通常は個別の随意筋による運動機能や感覚器官による感覚機能は、そこに器質因がうかがわれる際に神経学(神経内科) neurology の扱う対象になる。例えば右下肢の運動麻痺、ないしは感覚麻痺があるとしたら、右下肢を支配する運動神経や感覚神経のどこかに何らかの器質的な原因を探る。具体的には、神経が途中で切断されたり、脱髄が生じたり、骨や腫瘍その他に圧迫されていたりした場合だ。しかしそれらの病変が見つからないにもかかわらず症状がみられる場合、それは「機能的」な神経学的症状として記載する以外にない。この「機能的な」障害とは非常に苦し紛れな、しかしそれ以外に表現しようのない状態像なのである。「下肢には目に見える病変はありませんが、足は動きません」という表現であり、それは原因不明であることを言外に含んでいる。そして従来の転換性障害は最新の診断基準であ るDSM-52013)および ICD-112018)においては「機能性神経症状症 functional neurological symptom disorder 」となっているのだ。従来の転換性障害からこの病名への移行は、同時に、いわゆる転換症状という概念そのものの信憑性が問い直されつつあることも表していると言えよう。
ところでこの本来その原因をさかのぼることを停止した状態である機能性神経症状症(障害)について、もう一歩進んで考えるとしたら何が言えるだろうか? ここでは機能性の運動障害ということに限って考えてみる。人の脳は、足に向かう神経に対して、足を動かすような信号を送るように命令する。運動野の前段階としての運動前野の働きだろう。ところがここにはほかの命令も入り込みうる。例えばサッカーの観戦をしていて思わず動きそうになった足を「動かすな!」と意思の力で止めることもあるであろうし、もう少し早く、あるいは遅く、もっと右に向かって … などと様々な指令が入る可能性がある。この場合一度足の筋肉に「動かせ」と命令を送りかけて「やはり動かすな」ともう一つの意思が加わった際には、結果的には足が動かなくても本人に違和感はないはずだ。しかし心の別の部分から「足を動かすな」という運動抑制の命令が運動前野に送られ、そしてその当人が、「足を動かすな!」という命令を意識していない場合はどうだろう? 
転換症状、ないしは機能性の神経症状障害では、この不思議な事態が生じていると考えざるを得ない。ただし上述の例での運動抑制が運動前野よりさら「上流」の、たとえば帯状回運動野などの運動連合野において生じているのか、あるいは「下流の」高次運動野に生じているのかは正確には不明であるが。すると問題を突き詰めればこうなる。人の心の知らない部分が自らの意図に反する命令を下すことなどできるのであろうか?
100年前のフロイトならこう考えた。「心の中で抑圧している部分、すなわち無意識がそうさせているのだ。」そしてその意図が無意識になっているということは、その理由を当人が意識化することを拒絶しているからだ、と考えた。たとえば「足が動かないという理由で仕事を休みたい」という無意識的な願望があれば、そのような症状が成立すると考え、この抑圧によるエネルギーが症状へと転換されたという意味から「転換症状」という概念が生まれたのだ。(後に述べるように解離の理論は、脳の解離された、別の場所からの命令が生じる、と考えることになる。)
フロイトの用いた転換症状という概念は、身体症状に、心的な葛藤を置き換えたり、それを通してその葛藤を解決しようとしたりする試みで、それは身体運動や身体感覚の形式をとる。これはフロイトの経済論的な見地によるものであり、抑圧された思考から切り離されたリビドーが神経学的なエネルギーに変換される。         
Laplanche J. et Pontalis, J.-B.: 1967 Vocabulaire de la psycho-analyse. Presses Universitaires de France, Paris. 1967. (村上仁監訳 精神分析用語辞典. みすず書房1977
しかもそこには象徴的な意味が付与される。そしてその機序については、フロイト自身が分からないと言っている。ここでのキモは、フロイト自身による以下の表現である。
libidinal energy is transformed or converted into a somatic innervation.
リビドー的なエネルギーは身体的な innervation 神経支配に「転換」される、と言っているわけだが、innervation って、なんだろう?すっごく曖昧。解剖学ではこれを「神経支配」などと呼んでいるが、要するに身体に神経が通うことによるエネルギー、という曖昧な言い方しか出来ない。
以上をまとめるならば次のように言えるであろう。いわゆる転換性障害においては、その刻印のされ方は、トラウマ性のストレスと何らかの関連を有しているものの、その象徴性は明確でなく、その意味では刻印というよりはトラウマの事実を伝えているということが出来よう。

ただしそのように言うと誤解を与えるかもしれない。失声は、それなりに意味がある、声を出すことにまつわるトラウマにより生じたのだ、という理解を生むかもしれないからだ。しかし実際の失声は、おそらくある種のストレス下で、偶発的に選択されたというニュアンスを持つ。歌を歌うというときだけ声が出なくなってしまった歌手の場合は、仕事の継続を断念せざるを得ない症状に何らかの意味を見いだせるかもしれないが、そもそもその症状そのものがトラウマ的なストレスとしての意味を担うし、症状による疾病利得を考えることも難しい。無論仕事から離れることで、別のストレスから解放されるという意味を持っていたかもしれないが、そのように考えていくときりがなくなってしまう。その意味ではこれをトラウマの刻印としてとらえることには、様々な誤解も付きまといかねないという点をここで付記しておきたい。

2018年8月24日金曜日

他者性の問題 9

 ということでこの短い論文を少し読んでいく。実はこれを読むと、例えば「意識とは何か」という極めて基本的なことが学問の世界でも何もわかっていず、せいぜい仮説的なものしか提出されていないということがわかる。しかしそれでもノーベル賞受賞者ジェラルド・エデルマン、以前京都にも来た統合情報理論のジュリオ・トローニ、そしてグローバル・ワークスペース理論のバーナード・バールズあたりがこの研究では傑出しているらしい。ただし彼らの理論もすごくファジーだ。
 これらのうち三人目の先生は私が知らなかった人だが、エデルマンがこの論文で自分の説と統合しようとしているのだ。このグローバル・ワークスペース(GWS)理論について少し調べてみたが、要するに心とは狭いワークスペースに向かって、様々な心の機能がつながっている状態のことを指すらしい。といってもワークスペースにたくさんのものが一度に載っているのではなく、ある刺激がそこに与えられると、それに関係するあらゆるものが、無意識ではあってもいつでも繋がり意識化されるような状態にあるというのだ。それをバールズ先生は、ステージの上のスポットライトが当たった状態と、暗闇の中にいるたくさんの観客との関係として描いている。うーん、なんだかわかったような、わからないような。 でもとにかく意識の在り方は、あたかも目の網膜の黄斑部で中心視をしながら、周辺も見ている、という感じなのだろう。あれ、こっちの比喩の方がよほどわかりやすい気がするが。
 さてエデルマンさんの本は昔読んでいたから少しわかるが、意識とは、大脳皮質と視床との間の高速の情報の行き来により生まれるという説だ。エデルマンは、この昔から言っている理論を繰り返すところから始まる。意識がある時、必ず皮質と視床は活動しているよ、と。そしていずれかが大きく損傷すると意識が形成されなくなってしまうと説明する。特に視床の intralaminar nuclei 髄板内核という小さな部分が損傷すると、意識が成立しなくなるという。ふーん、そうなんだ。やはり視床は大事なんだ。

2018年8月23日木曜日

解離―トラウマの身体への刻印 23


トラウマ刺激が入力された場合は、それに強く反応した扁桃核は記憶を司る海馬を強く抑制することにより、その陳述的な記憶を阻害する。こうしてトラウマ記憶はその内容の詳細は想起できないにもかかわらず、強い情動反応を伴うことになるのである。扁桃核は側頭葉の奥深くにある左右一対のアーモンドのような形をした器官である。VDK先生はこのような扁桃核の役割を「煙探知機smoke detector」と呼ぶが、そこではそれが自らの生存にとって危険と感じたならば、すぐにそれと直結した視床下部や脳幹に指令を発して、ストレスホルモン(コルチゾールとアドレナリン)を放出するとともに自律神経を介して身体全体を闘争逃避反応のモードに切り替える。この反応がいかにすばやく生じるかを私たちはよく知っている。森を歩いていていきなり上から毒蛇が降ってきたと認識した次の瞬間には、私たちは素早い筋肉運動を生じ、素早くそこ飛び退り、その時にはすでに心臓の拍動は高まっているはずだ。このように扁桃核は極めて巧妙な形で見に迫る危険から私たちを守ってくれるが、トラウマを体験した人では、この扁桃核の過剰反応が起きる。何気なく自分に近づいてくる人影を攻撃者と認識して闘争を起こさせる、偶然他人が体に触れただけで驚愕反応を起こすという事態が生じるのである。
ちなみにこの扁桃核の興奮はほかの様々な反応を引き起こす。VDKが強調するのは、フラッシュバック時には左前頭葉の一部にあるブローカ中枢(運動性言語中枢)をブロックし、同時にブロードマン19野を刺激、それにより人が言葉を奪われると同時に活発な視覚イメージを体験させるという様子を説明する(原書、P44)私たちがここで気が付くのは、このフラッシュバックで生じている脳の興奮パターンは、最初のトラウマの時とそっくり同じだということである。トラウマとはこのようにその時の身体的な反応をまさに生き写しにした形で、生体に再現するのであり、その意味での身体への刻印が生じているということなのだ。


2018年8月22日水曜日

他者性の問題 8

このテーマについてあれこれ調べているうちに、ネットで興味深い論文を発見。Gharaibeh, N. (2009) Dissociative identity disorder: Time to remove it from DSM-V? Current Psychiatry. September 2009 pp. 30~36
ようするに、DIDはそもそもDSMから外すべきなのか、という挑発的な論文だ。それによるとアメリカで精神科医の専門医を対象に行った研究があるという。1999年の話だ。すると35%の人はDIDについては問題なく受け入れているという。ところが43%の人は疑いを持っているというのだ。そして15%は診断はDSMに加えるべきではないという。もし同じ質問を統合失調症やPTSDにしてもこんなことにはなり得なかったであろう。つまりこれは一種のスキャンダルなのだ。DIDにおける他者性ということで書いているが、それはこの疾患概念そのものに言えるのではないか。DIDという概念そのものが他者なのである。そして21%の精神科医のみが、診断基準として科学的な信憑性を持っていると感じているという。(Only 21% believed there was strong evidence for DID’s scientific validity.) このことはDIDにおける別人格は本当は他者じゃない、自分の一部だ、と信じる傾向をそのまま表しているのではないだろうか? DIDにおいて起きているのが、Divisive splitting なら、要するに別人格がいるというのは一種の「気のせい」なら、まだ許せるというわけである。 301 board-certified U.S. sychiatrists were surveyed in 1999 about their attitudes toward DSM-IV dissociative disorders diagnoses: 35% had no reservations about DID, • 43% were skeptical
• 15% indicated the diagnosis should not be included, in the DSM. Only 21% believed there was strong evidence for DID’s scientifiic validity. 

ということでいよいよマルチトラックセオリー、なんとか形にしなきゃなあ。
 私たちの中枢神経系に「意識」を生み出す最少部分が考えられる。これについては様々な仮説があった。Edelman の説(視床‐皮質)など夢中になったな。どうしているだろう?ということで調べてみると、なんとタダで論文を入手できた! Gerald M. Edelman,1,* Joseph A. Gally,1 and Bernard J. Baars (2017)Biology of ConsciousnessFront Psychol. 2011; 2: 4.

2018年8月21日火曜日

解離―トラウマの身体への刻印 22

「身体への刻印」第一のタイプ
1の反応についてはすでにエイブラム・カーディナーの戦争神経症の記載において、その概要は示されていた。そしてそれは1980年に刊行されたDSM-Ⅲにその概要が記載され、近年さらなる研究が進んでいる。PTSDの病理についての研究をリードした研究者である一人の van der Kolk 氏の著書をもとにそれを開設しよう。(Bessel van der Kolk (2015) The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma Penguin Books  (柴田 裕之翻訳 身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法紀伊国屋書店2016)
PTSDにおいて生じるフラッシュバックのメカニズムは、その機序が広く知られるようになってきている。そのためには通常の知覚情報の処理の経路を理解しておかなくてはならない。
通常視覚、聴覚、触覚などの知覚情報は、大脳皮質の一次感覚野に送られ、そこでおおざっぱな形で処理が行われたのちに、視床という部位に送られる。そこで出来事に大まかな意味が与えられる。たとえば森を歩いていたら、長い紐状のものが上から降ってきたとしよう。「頭上から落下する紐状のもの」とは視床が意味を作り上げる程度のレベルとして例示してある。視覚野から送られてくる情報から長い棒状、ないし紐状という形態を認識し、それが動きを伴い、それが接近してくるという情報は、これでも網膜に並ぶ個々の視神経からの情報をまとめ上げるという、かなりの量の情報処理を行った結果であることが理解されよう。
視床でまとめ上げられた情報は、扁桃核に送られるが、そこでは視床で得られた情報から「大変だ、蛇に襲われた」という反応を生む。そしてそれは視床下部へと伝達され、種々のストレスホルモンが放出されると同時に、心臓の活動が昂進し、血圧が上昇し、筋肉への血流が増大する。こうして人は闘争・逃避反応を見せることになる。ここで重要な点は、Joseph Ledeux の研究により示された、high road low road の概念である。つまり知覚刺激は通常は直接的に扁桃核に伝わり、そこでアラームが鳴らされる一方では(low road)、前頭皮質に伝わった情報がそこでさらに行動の情報解析の対象になるということである(high road)。トラウマ刺激が入力された場合は、それに強く反応した扁桃核は記憶を司る海馬を強く抑制することにより、その記憶の定着を抑制するのだ。


2018年8月20日月曜日

他者性の問題 7 

 すでに書いたことだが推敲ついでに書きなおす。他者性の問題が、DとSでどのように違うか、というテーマだ。Sではヤスパースの自我障害の問題1~4(能動性、単一性、同一性、自我境界)に様々な形で問題が生じている。たとえば幻聴「あの人は敵だから攻撃せよ」という声は、そのまま自分の意思となり、実行される。その意味で「させられ」ですらないだろう。他者の声が自分の思考でもあるという世界だ。また2も問題だ。他者の声が自分の意図になるという意味では、もはや単一の行為主体ではないことになる。同一性は? これはあまり問題とならないだろう。昨日の自分は今日の自分でもある。そして4の境界も怪しくなる。「アイツが敵だ」という声が自分の考えになる、というのは自他の境界があいまいになる、という言い方をされるが、自他の区別の意味がなくなる、という言い方の方が正しいのではないだろうか? その意味ではSにおける行為は「自分が」行ったことであり、それに対して免責が行われるというのは矛盾しているともいえる。
それに比べてDではどうか?ABを体験するのはどのような形でか? A自身はおおむね自分の意志を持って行動する。もちろん時々「させられ」ることもあるが。そうしてABとは異なることを自覚している。(「彼と私を一緒にしないでください」)。3はどうか。一番怪しそうで、実はこれもおおむね保たれている。なぜなら今日はAでいても、昨日は主としてBで活動していたという体験を考えても、Aは「昨日は奥で休んでいた」からであり、だから「その間のことは記憶にない」のである。4はどうか。通常はしっかり分かれているからこそ、曖昧なときには「混乱」させられるし、二色のソフトクリームのような感覚を味わうのである。
結論としてDではSに見られる深刻な自我障害に伴う他者性の問題は起きていないことになる。
ちなみにこんな論文があった。高くて買えないので、abstract のみ。
S.Ebisch2016The social self in schizophrenia: A neural network perspective on integrative external and internal information processing. European Psychiatry, 33, Supplement, S45 
Social impairment is recognized as a basic aspects of schizophrenia. Although the nature of aberrant self-other relationship in schizophrenia is still poorly understood, it has been suggested that some social impairments could have their roots in self-disturbances typical of schizophrenia. For instance, experiencing otherness could become problematic with anomalous self-recognition. Furthermore, deficits in the processing of self-relatedness of social stimuli disconnect the self from its social environment. On the one hand, this could lead to problems in self-other distinction caused by misattributions of ownership of experience and agency in social interaction. On the other hand, this could result in feelings of isolation and reduced intersubjectivity due to interrupted self-referential processing of social stimuli, likely also mediated by memory and emotion. Brain networks involved in self-referential processing, sense of ownership, and agency also have been implied in social cognition. Whereas cortical midline structures are associated with self-referential processing of external stimuli including social information, sensorimotor and affective networks involved in bodily and interoceptive self-processing are also involved in the ability to share others’ experiences. Schizophrenia has been linked with a reduced integrity of these networks underlying various aspects of self and social impairments, though rather separately. Recent neuroimaging findings will be highlighted explaining how self-disturbances can pervade the social domain in schizophrenia. In particular, disruptions of the social self in schizophrenia will be addressed from a neuronal network and connectiomics perspective providing a unifying framework.

  もちろんよくわからないが、自我障害を生じさせるような脳画像の所見のことを言っている。Dがやはりニューラルネットワークの在り方に関連するという議論を行う際に使用できる文献かもしれない。

2018年8月19日日曜日

解離ートラウマの身体への刻印 23


本文を書き出す。

本稿は「解離-トラウマの身体への刻印」と題し、トラウマがいかに身体的なレベルで刻印を残すかについて、解離の文脈から論じることを試みる。
 DSM-Ⅲから登場したPTSD post-traumatic stress disorder という疾患概念は通常「心的外傷後ストレス障害」と訳されている。いわば身体にではなく心のこうむった傷である。単純に考えれば、あるいは常識的には、身体への受傷は身体症状として、心への受傷は心的な症状を生むのであろう。ところが第1次大戦における「シェルショック」の概念はそのような常識とは異なっていた。1914年にこの概念が報告された際は、その身体症状が前景に立っていたこともあり(耳鳴り、頭痛、記憶障害、眩暈、震戦、音への過敏性、頭部外傷や毒物の影響によるものとされた)心的なトラウマが、身体症状を生むものと考えられた。
この件に関しては、しっかり文献から引用しなくてはならない。絶好の論文を見つけた。Jones EFear NTWessely S2007Shell shock and mild traumatic brain injury: a historical review. Am J Psychiatry. 164:1641-5.
以下は無料で見ることのできる抄録。
 Mild traumatic brain injury is now claimed to be the signature injury of the Iraq and Afghanistan conflicts. During World War I, shell shock came to occupy a similar position of prominence, and postconcussional syndrome assumed some importance in World War II. In this article, the nature of shell shock, its clinical presentation, the military context, hypotheses of causation, and issues of management are explored to discover whether there are contemporary relevancies to the current issue of mild traumatic brain injury. When shell shock was first postulated, it was assumed to be the product of a head injury or toxic exposure. However, subsequent clinical studies suggested that this view was too simplistic, and explanations soon oscillated between the strictly organic and the psychological as well as the behavioral. Despite a vigorous debate, physicians failed to identify or confirm characteristic distinctions. The experiences of the armed forces of both the United States and the United Kingdom during World Wars I and II led to two conclusions: that there were dangers in labeling anything as a unique "signature" injury and that disorders that cross any divide between physical and psychological require a nuanced view of their interpretation and treatment. These findings suggest that the hard-won lessons of shell shock continue to have relevance today.
 DSM-ⅢにおけるPTSDの登場以来、心的外傷がいかに身体症状を生むのかというテーマは広く研究され、最近の医学的な技術の発展に伴いますます新たな知見が得られている。
 本稿ではトラウマの身体表現について、以下の三種の項目を設けて述べたい。
トラウマの身体への刻印として、二種類を提示することにしよう。一種類はフラッシュバックに伴う身体反応である。これはある程度その性質が知られている。もう一つは転換症状としての身体反応であり、おそらくこの機序はほとんど知られていないのである。そして第三には、自律神経系を介する刻印である。

2018年8月18日土曜日

他者性の問題 6

統合失調症における自我障害

  これについては前に書いたが、復習の代わりだ。そもそもブロイラーが精神分裂病(統合失調症) schizophrenia を言い出した時、その「分裂」」とは結局はスプリッティングのことだったことはあまり知られていない。そしてもっと知られていないのは、ブロイラーが描いた患者像の多くは、解離的であったということだ。当時はDIDという概念も分裂病の概念も明確にはなかったわけだから、彼は両方をごっちゃに見ていた可能性がある。その結果自我が分裂することが統合失調症の主たる病理であるという定説が生まれた。何しろ名前がそれを表しているからだ。
 私が示したいのは、確かに統合失調症では、「自我の分裂」らしきものが起きている。しかし
DIDにおいては、その種の分裂は起きていないということだ。その代りそこでの病理はもう一人(以上)の自我の出現であり、それに対するおそらく「正常な」反応なのである。
 思い出していただきたい。確か一月ほど前だったが、ヤスパースの自我の定義を次のように書いた。
1.  自分自身が何か行っていると感じる「能動性の意識」
2.  自分が単独の存在であると感じる「単一性の意識」、
3.  時を経ても自分は変わらないと感じる「同一性の意識」、
4. 自分は他者や外界と区別されていると感じる「限界性の意識」
 
 これらは「能動性、単一性、同一性、限界性」の4つにまとめることができよう。ところでこんな議論、英語圏でもなされているのだろうか?気になり始めた。ということでネットを探っていくと、ここで英語の文献を見つけた。Harvard Review に載っている (Disordered Self in the Schizophrenia Spectrum: A Clinical and Research Perspective Josef Parnas and Mads Gram Henriksen) という論文 (これも無料でダウンロード可能だ。)
 この論文はヤスパースの論文の英語版を引いている。Jaspers K; Hoenig J, Hamilton MW, trans. General psychopathology. London: John Hopkins University Press, 1997 [1913].これを読んでいくと、出てきた。こんな文章だ。
The basic sense of self signifies that we each live our conscious life as a self-present, single, temporally persistent, bodily, and demarcated (bounded) subject of experience and action.
この下線部が、能動性、単一性、同一性、限界性、に対応することになる。そうか、やはり英語圏でもしっかりヤスパースの議論は紹介されているのだ。ところが一つ気になるのはこの自我障害を、英語では disordered self (自己の障害)としているのだ。え?「自我 Ich 」は、ego じゃないの、ヤスパースはあくまで Ich の障害、として統合失調症を描いていたはずだが。と言いたいところだが、Ich を ego(自我)とするのは、精神分析の決まりごとであり、精神医学ではそうとは限らない、ということらしい。精神医学では一般にドイツ語の Ich self と訳されるらしいということだ。まあこの方がわかりやすいけれど。それとこの文献で書かれていることは、ヤスパースはそもそも統合失調症では、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が侵されている、と書いてあるというのだ。やはりここも解離の自己の問題とはかなり異質、より深刻、ということになる。ヤスパースにしてみれば、この能動性、単一性、同一性、限界性がすべて問題となっている、深刻な危機的状態が統合失調症、ということなのだろう。
 私が示したいのは、極端な話、自他の区別は解離においてはついている、あるいは統合失調症のような形では冒されていない、ということなのだ。

2018年8月17日金曜日

解離ートラウマの身体への刻印 22


ポリベイガル、まだ納得していない。一種の流行なのだろうか?でもトラウマの世界で明らかに注目されている。やはり理科系である以上、Porges 先生の原著に立ち戻りたい。何しろネットでただでダウンロードできてしまうのだ。
Porges SW. (2009). The polyvagal theory: New insights into adaptive reactions of the autonomic nervous system. Cleveland Clinic Journal of Medicine, 76:S86-90.
難しい話は省略するとして、彼は心臓に対する迷走神経の二つの相矛盾する作用に気が付き、研究し、結局迷走神経が二つに枝分かれしていることをみつけたらしい。迷走神経とは、何日か前に書いた、第10神経、一本だけ体の奥深く伸びていく(迷走している)神経だ。解剖学の歴史は長く、また肉眼で観察される対象でありながら、こういうことも起きるらしい。ともかく彼が主張しているのは、脊椎動物には迷走神経が存在しているが、基本的には無髄であり、哺乳類になって、有髄の迷走神経が成立した、というのだ。そしてそれも迷走神経核からしっかり出ているという。ポージス先生は、この新しい迷走神経、つまり腹側迷走神経VVCは通常は下位の、つまり古くからある交感神経系やDVC、つまり背側迷走神経を抑制しているが(昔から言われているジャクソン仮説だ)、ピンチの時は、この最新のシステムが最初にやられてしまい、下位のシステムが働き出すという。
ここら辺は分かるんだけれど、私にはどうしても疑問なのが、どうして第5,7,9,11神経まで迷走神経になっちゃったの?という単純な理由なのだ。VVCの枝を追っていくと、ひそかにこれらの神経にも入力していた、とかいう記述があれば、一気に納得するのに。そこでネットで手に入れたもう一本にも目を通して見る。これはずいぶん古い。彼がこの理論を言い出したころだ。
Porges SW1995Orienting in a defensive world: mammalian modifications of our evolutionary heritage. A Polyvagal Theory.
Psychophysiology. 32:301-18.
.これを読んでいくと、それらしい記述があった。「it has been demonstrated that visceromotor functions regulated by the ventral part of NA provide the parasympathetic support for the somatomotor projections from NA and trigeminal and facial nerves.神経解剖学的な研究によると、内臓運動機能は、NA(擬核、迷走神経の出ている核)の腹側部により調節されているが、それらはNAや三叉神経や顔面神経からの身体運動投射に対する副交感神経系のサポートを提供している・・・・・」
ややこしくて漠然としか分からないが、迷走神経と、第5、第7神経(おそらくは同じ感じで第9、第11神経とも)連絡を取り合い、社会生活を営む上での主として顔面における運動と自律神経とが強調するような仕組みが出来上がっている。まあこの文章でなんとなく納得した、ということになるだろうか。


2018年8月16日木曜日

解離ートラウマの身体への刻印 21

ということでこのポリベイガル理論、もう少し調べてみる。これはこれで少なくとも英語圏では熱烈な支持者がいるらしく、いろいろなサイトがあるし著書もある。ポリベイガル理論とは、重複迷走神経説、多重迷走神経説、多層迷走神経説などの呼び方がすでにあるらしい。そして昨日書いた VVC (腹側迷走神経系)、は最近では社会神経系 social neural system という呼び方をされているらしい。自律神経が社会機能を担っている、という論点がポージスの理論ではユニークな点ということになっているらしい。ちょっと調べたら、すでに2001年に、ポージス自身が論文にしている。
 Porges SW (2001) The polyvagal theory: phylogenetic substrates of a social nervous system. Int J Psychophysiol. 42:123-46.
という論文だ。勿論論文を購入するにはお金がかかるので、抄録しか読めないが。抄録は以下の通り。
Abstract
The evolution of the autonomic nervous system provides an organizing principle to interpret the adaptive significance of physiological responses in promoting social behavior. According to the polyvagal theory, the well-documented phylogenetic shift in neural regulation of the autonomic nervous system passes through three global stages, each with an associated behavioral strategy. The first stage is characterized by a primitive unmyelinated visceral vagus that fosters digestion and responds to threat by depressing metabolic activity. Behaviorally, the first stage is associated with immobilization behaviors. The second stage is characterized by the sympathetic nervous system that is capable of increasing metabolic output and inhibiting the visceral vagus to foster mobilization behaviors necessary for 'fight or flight'. The third stage, unique to mammals, is characterized by a myelinated vagus that can rapidly regulate cardiac output to foster engagement and disengagement with the environment. The mammalian vagus is neuroanatomically linked to the cranial nerves that regulate social engagement via facial expression and vocalization. As the autonomic nervous system changed through the process of evolution, so did the interplay between the autonomic nervous system and the other physiological systems that respond to stress, including the cortex, the hypothalamic-pituitary-adrenal axis, the neuropeptides of oxytocin and vasopressin, and the immune system. From this phylogenetic orientation, the polyvagal theory proposes a biological basis for social behavior and an intervention strategy to enhance positive social behavior.
 大事な部分を翻訳すると、次のようになる。
 「系統発生学によれば、神経制御のシステムは三つのステージを経ている。第一の段階は無髄神経系による内臓迷走神経unmyelinated visceral vagus で、これは消化を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまう。第二の段階は交感神経系である。(中第三の段階は、有髄迷走神経 myelinated vagus で、これは哺乳類に特徴的で、環境との関係を保ったり絶ったりするために、心臓の拍出量を迅速に統御する。哺乳類の迷走神経は、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。自律神経は系統発達とともに形を変え、ストレスに対処するほかの身体機能、つまり副腎皮質、視床下部下垂体副腎系、オキシトシンとバソプレッシン、免疫系などと共に進化してきた。
 ここでわからなくなってきた。一応医者だから解剖学は医学部で教わっている。しかしだれも第5神経 (三叉神経)、第7神経 (顔面神経)、第9神経 (舌咽神経)、第11神経 (副神経神経が、結局は全部迷走神経だ、とは教えてこなかったぞ。だって迷走神経は第10神経だ、というのが解剖学の常識なのだから。いったいどうなっているんだろう?というよりいつから迷走神経はそんなに偉くなったんだ? 聞いてないぞ、オイ。
 そこで Wiki 様をひいてみると、結構ヤヤコシイが、どうやら迷走神経は私たちが思っていた以上にストレス反応に関与していることが分かってきたという。VDK さんは、この理論が、なぜ優しい声や表情をかけられるなどの社会的なやり取りがストレスを軽減するのかを説明しているというのだが、私にはまだいまひとつピンと来ていない。先ほどの社会脳とのつながりのことを言っているらしいのだが。もうちょっと時間をかけて読んでみよう。夏休みだし。

2018年8月15日水曜日

他者性の問題 5

人格の複数化という視点の弱さが、他者性の減債につながっているというのが私の主張であるが、その原因の一端は精神分析にあるだろう。というのも精神分析ではスプリッティングという概念を用いることで、「心が分かれる、という考え方はもうすでに十分取り入れていますよ。他に何が必要なのですか?」というエキュスキューズを与えてしまっているわけなのだ。オニール先生は、Brook (1992) の説を引用し、フロイトにおいては心が分かれるという発想が三つみられるという。そのうちの第一が解離的なスプリッティング。これはフロイトが早くから棄却してしまっている。自分はそんなもの見たことがない、と。だから論外だ。この第一の候補を捨ててしまっている点で、精神分析の世界に本当の意味でのスプリッティングは存在しないことになる。
私は思うのだが、人格の複数化の一番の根拠は、その同時存在性ではないか。ある話題について話していると、別の人格が突然訂正に入って再び引っ込むということは、話している人格と、それを聞いている人格が二つ、同時進行していると考えざるを得ない。これは二つの心が葛藤している、両価的である状態とは似て非なるものである。両価的である場合は、話者が交代することはない。Aと考える、しかしそれとは逆のB という考えもありうる、という状況への困惑を体験するのは通常一つの主体である。しかし解離の場合には、Aを主張している主体は、Bを持っている別の主体の気配を感じるのであり、次の瞬間にはそちらの主体への移行が起こる。これは両者の同時進行的な性質を表しているのである。
結局何が言いたいかと言えば、分析的なスプリッティングの概念は、人格の複数化 multiplication とは全く異なるものなのだ。しかし人格の分割化 division を解離の主体とした場合は、一つの心が二つに分かれるという意味では、分析的なスプリッティングとかなり似てくる。「だってもともとのAさんが、A’さんとA’’さんに分かれただけでしょ? 解離のスプリッティングも分析的なスプリッティングと同じじゃないですか?」 と言われてしまうと、この問題について特に深く考えていない人にとっては、「そういうことか・・・・」で終わってしまいかないのだ。これが解離についての理解の弱さを決定的なものにしてしまっているのである。

2018年8月13日月曜日

解離ートラウマの身体への刻印 20

ポリベーガルセオリー、または自律神経系への刻印

ところでこれまでは、転換症状に関係するのは、運動神経と感覚神経であるということにしていた。だからこれらの病変を扱う神経内科に患者さんはまず送られるのである。しかし最近それ以外の神経系、つまり自律神経系もまたトラウマに深く関与しているという説が提唱されている。これは少し前 VDK先生の本を読んでいたら出てきた。こんな風に私は書いた。(コピペじゃないか!

1994年、ポージスという学者が考え出したこの理論。もともとはダーウィンの理論に端を発しているという。自律神経とは要するに交感神経と副交感神経だが、この二つは常にバランスを取っている。私も良くやるが、息を吸い続けていると脈拍が上がり、ゆっくり吐くと今度は下がる。吸気時には交感神経の刺激、呼気時にはその反対。これが常に綱引きをしている。HRVという値が在り、要するに脈拍数がどのように呼吸などにより変動するか、という値だが、これは高いほどいい、という。つまりいつも脈拍が一定、というのは、一見健康そうで、実は交感神経、副交感神経の綱引きがちゃんと行われていないという意味では不健康だという。ボリベーガルセオリーの説明に、ここから説き起こすというのは、VDK先生はさすがだ。ボージス先生の発想も、最初は心拍数がどうして迷走神経によっても強く支配されているのか、という疑問だったという。

 そうか、ここでこの本の説明は止まっていたんだ。それではその続きを読もう。1994年に、メリーランド大学のポージス先生がこの理論を打ち立てた。ポリベイガル polyvagal とは迷走神経 vagal nerve がいくつも分岐しているということだ。ダーウィンがすでにそんなことを言っていたという。 とにかくポージス先生の理論のキモは、腹側迷走神経(VVC)という概念である。迷走神経をよく調べると、腹側に枝分かれをしている、というわけだ。彼が発見したのだろうか? なぜこんなに大事な部分が1990年代まで発見されずにいたのかはわからない。大体マクロ解剖学の世界に、発見されるべきものなど残っていたのだろうか。(後で調べよう)。ともかくもVVCは人が通常は警戒しつつも生きていくうえで大切な部分であり、特に社会生活の中で発達して行ったという。そして危機が訪れると、交感神経系を興奮させ、闘争逃避反応を起こす。しかしそれでも逃げられないとなると、背側迷走神経(DVC)が登場し、体をフリーズさせ、解離を起こさせるという。つまり今、目の前で起きていることに耐えられずにスイッチしてしまう状態とは、このDVCが刺激されている状態というわけだ。ということはスイッチングの決め手になるのもまた迷走神経、ということなのだろう。つまり正常な状態におけるトラウマを回避するための行動も、いよいよトラウマが避けられなくてピンチに至った時の行動も、いずれも迷走神経が関係しているというのがポージス先生の理論である。迷走神経も、これで株を上げたわけである。

2018年8月12日日曜日

他者性の問題 4


極めて大きな錯誤であった「意識のスプリッティング」という理解
 
 ところで一つの問題がある。精神医学の歴史を辿ると、
van der Hart, O, Dorahy, M, History of the concept of Dissociation, (In) Dell, Paul F. (ed.)  Dissociation and the Dissociative Disorders - DSM-V and beyond., Routledge (Taylor and Francis), pp.287-325.1800年代の半ばになり、催眠とヒステリー現象が共に、意識のスプリッティグとて理解されるようになった。ジャネでさえそうだった。彼は精神の力が遺伝的に弱いので、統合できなくなっていると考えた。なぜこのようなことになってしまったかはわからない。
ただしこれに異を唱えているのが、オニール先生である。彼は(”D” bookのp.298あたりに記載)解離は複数化的 multiplicative か divisive 分割的か、改めて問う。この違いはお分かりだろうか。前者は増えていくという方向での複数になること、後者は一つのものが分割されていくという形で複数になることである。そしてオニール先生は、「自分ならそれは複数化的、という方を取る」、という。つまり意識が分かれるのではなく、増える、ということだという。そして前者は多重人格をよりよく説明し、後者は機能的な解離を説明するという。
 <精神分析的な伝統>
ところでオニール先生の論文が面白いのは、この人格の複数化、という問題は精神分析では絶対ありえないこととして扱われているという事情である。それ以来メインストリームの精神分析は、解離の問題はいかに取り入れるかよりはむしろ除外するか、ということにエネルギーが費やされているという。そういえば精神分析で解離を論じているスターンやブロンバーグの議論もこちらの方に近いかもしれない。その中で一人気を吐いていたのがクラフト先生だという。そしてここが重要なのだが、スターンやブロンバークも、Beth Howell (最近よく引用させていただいている分析家)もIPAに所属していないという。知らなかった。やっぱりそうか。精神分析の家元は、解離から距離を置いているのだ。

2018年8月11日土曜日

解離ートラウマの身体への刻印 19


「 刻印」の持つ恣意性
ところでこの転換症状という現象への新たな理解は、本論で扱っている「トラウマの身体への刻印」という意味を大きく変えてしまいかねない重要な問題をはらむ。フロイトは転換症状において生じる現象、すなわち「リビドー的なエネルギーは身体的なinnervation 神経支配に転換される」という現象について述べたが、これは実は仮説的な説明であり、「本当のところは分からない」のであった。ある歌手に生じた失声は、「歌うことへの葛藤」により説明されるとは限らない。実際にこの例に見られるように、その大部分のケースにおいて、力動的な理解によるアプローチを拒絶し、それによる症状の改善に導くことはない。その多くは突然明確な理由なくして始まることが多く、極めて認知行動療法的な、あるいは神経学的な経路を取って改善を図るしかない。その場合、ではその症状(この場合は失声)は何を刻印しているのか?ここでこれをまったく不明と言い切ることは出来ないが、極めて恣意的であると理解するしかないのだ。
ここで少し図式的に書いてみる。
運動前野 ⇒ 高次運動野 ⇒ 一次運動野 ⇒ 脊髄 ⇒ 筋肉運動
まず運動前野には、~を歌おうという情報が、前頭前野や頭頂連合野などの連合野から送られてくる。おそらくここは正常に機能しているであろうし、だから「~の歌を歌おうとする」ところまでは行くだろう。(もしこの部分で抑制がかかったら、そもそも何の歌を歌おうか、というアイデアさえ浮かんでこなくなるはずだからだ。もちろんそのような形での転換性障害もあるかもしれないが、とりあえずそこはクリアーしていると考えよう。) 次に高次運動野は、歌を歌うというために必要なさまざまな運動、つまり肺から息を吐き出す(そのために横隔膜を弛緩させたり腹筋を緊張させることで腹圧をかける、など)、声帯を閉じる、声帯を調節する様々な筋肉を順番に緊張、ないし弛緩させて音程を変え、それをメロディーに乗せる、口の形を複雑に変えることにより歌詞を発音する・・・・・。おそらく何十という筋肉のコントロールをしなくてはならないために、この高次運動野が使われる。しかしここの部分にも邪魔は入らないのではないかと思う。この歌手はベテランであり、復帰した時は普通に歌えたのであるから。すると高次運動野から一次運動野への経路のあたりにおそらく邪魔が入り、信号が伝達されないか、余計な筋肉が同時に収縮することで「歌えない」という現象が起きる。ただしこのプロセスはほとんど皮質下、つまり無意識のプロセスである。誰も歌を歌う時、「エーッと、声帯のこの筋肉をここで緊張させて・・・」、などと考えないからだ。ということはここで生じる障害とはほとんどそれをどこにも辿ることが出来ず、その由来を知る由もないということになるだろう。