2021年7月31日土曜日

嫌悪の病理 推敲 8

 3.嫌悪刺激と潜在記憶の病理

嫌悪の精神病理として、報酬系の暴走に伴う嗜癖や依存について述べたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは一部の嫌悪刺激は決して忘れ去られることなく私たちを苦しめ続けるという現象である。これは嫌悪の病理のさらに本質的な部分に関わるテーマである。そしてそこで問題となる記憶はいわゆる潜在記憶であり、その病理の具体的な表れが以下に述べる病的悲嘆やトラウマ記憶の問題である。

喪失体験と終わらない喪の作業

私たちが人生で味わう苦しみの大きな部分が、何かを喪失するという体験である。喪失の対象となるものは人やペットや物かもしれないし、能力や健康、身体機能、地位や名誉などの抽象的なものかもしれない。何かを失ったと知った時、私たちはそれが自分にとって何を意味するかを一挙には体験し切れないものである。最初は何事が起きたかがわからず、徐々に時間と共に失ったものの大きさを感じ、胸の痛みをひしひしと覚えるのではないか。
 ただし幸いなことに、喪失の痛みは基本的には時間とともに軽快していくものである。特に早くから薄れ始めるのが、エピソード記憶に関連した部分である。喪失体験が特定の出来事の克明な記憶を伴っている場合、そのうち特に重要でない些末な部分から徐々に失われていくものだ。これはエピソード記憶がいわゆる「エビングハウスの忘却曲線」を描いて時間とともに消去されていくからである。これが「日にち薬」という表現の意味するところであろう。
 ただし喪失体験はエピソード記憶のみによって構成されているわけではない。ここで記憶の仕組みについて復習しよう。ある事柄についての記憶は、顕在記憶(意識的な記憶)と、潜在記憶(無意識的、感覚的、感情的な記憶)に分かれる。前者は意識化され、言葉で記述することが出来る部分であり、そのなかでも「いつどこで何があったか」、という時空間的な情報がエピソード記憶である。そしてその形成にとって必須なのが、側頭葉の奥に左右一対ある海馬という部分の働きである。エピソード記憶はまずここで作られ、後に「あの出来事について思い出そう」と意図的に回想することが出来る。例えば愛犬を見送ったという出来事について言えば、愛犬が徐々に衰えて最後は看病の末になくなったという時系列的な記憶がエピソード記憶となる。
 また後者の潜在記憶にはその出来事に伴った心の傷つきや痛みなどの情緒的、感覚的な部分が含まれる。そしてそれはやはり側頭葉の奥に左右に一対ある扁桃体という部分を介して脳に刻まれる。こちらはエピソード記憶のように徐々に薄れていく保証はない。なんらかのきっかけにより繰り返し生々しく思い出される傾向にあるのだ。愛犬を見送ったという例では愛犬に結びついた情緒的、感覚的な部分が潜在記憶として残るが、こちらはより長く残り、私たちを苦しめることになる。
 ただし潜在記憶は扁桃体(および線条体も含まれる)だけでなく、そこに海馬も深く関係していることが知られている。
 ここで有名な「症例HM」の例を取り上げたい。彼は9歳のころ自転車事故のために癲癇発作を繰り返すようになった。そこで治療の為に両側の海馬を手術で切除したところ、昔のことは思い出せるのに新たな出来事は一切記憶出来なくなってしまった。そのことから海馬が記憶の形成に必須の役割を果たすことが明らかになったのである。そのHM氏は海馬を失った後は、自分の大好きだった叔父や父親が亡くなったことを聞くたびに深い悲しみに暮れたという。ただししばらくするとそのことを忘れてしまい、「叔父さんはいつ面会に来てくれるの?」などと母親に尋ねたりしたという。そして叔父さんが亡くなったと聞かされると、あたかも初めて聞いたかのように何度も嘆き悲しんだという。このHM氏の例では海馬が障害されていることで、父親を亡くしたことに伴う顕在記憶だけでなく、潜在記憶も成立していなかったことを示す。つまり顕在記憶の窓口としての海馬は、潜在記憶の形成にも不可欠であるという事を証明していることになろう。

スザンヌ・コーキン (), 鍛原 多惠子 (翻訳)2014)「ぼくは物覚えが悪い:健忘症患者HMの生涯. 早川書房.

Corkin, S (2013) Permanent Present Tense: The man with no memory, and what he taught the world Penguin.

2021年7月30日金曜日

嫌悪の精神病理 推敲 7

 他方嫌悪についてはどうか。私たちがしばしば出会うのは、ある事柄や人、生物に対して私たちが時に示す著しい嫌悪感情である。私たちが日ごろキッチンの隅あたりでひょっこり出会うあの虫のことなどは、話題にされるだけでも顔を顰められかねないだろう。その存在に出会うくらいなら、もうあの家には住みたくない、と自宅への帰宅を拒否する女性などの話も聞くくらいである。さらに嫌悪の対象は人にも及ぶ。「あの上司の手に触れたものには近づきたくない」などという訴えには生理的な要素が加わり、いわゆる不潔恐怖のニュアンスがかなり濃いことが分かる。私たちが特定の対象に対して抱く嫌悪感はいったいどのような意味を持ち、なぜ生じるのだろうか。
 一つ間違えのないことは、嫌悪は明らかに学習の産物であるということだ。つまりそれはある種の不快な体験を持ったという記憶により成立する。ダーウィンは、天敵のいない環境で繁栄した野生動物は、人を全く恐れることがないためにあっという間に絶滅してしまうと報告している。恐怖や苦痛を体験することで、ある事柄は脳に嫌悪刺激として刻印され、それがその後の確実な回避行動を生むのだ。そしてその脳のレベルでの主役は中脳の扁桃体である。扁桃体の外側基底核は嫌悪刺激やそれに関連した情報を感知すると、すぐさま扁桃体中央核に送り、嫌悪感情を引き起こすとともにすぐさまそれを回避する行動を起こさせる。そしてそのルートは生涯消えることがない。それにより生命体は天敵を逃れ、捕食される可能性を回避することにより、生き延びることが出来る。その意味ではこの嫌悪刺激への反応は非常に合目的的である。

 いわゆるトラウマ記憶

このように嫌悪刺激への反応は本来は私たち生命体が生き延びるために用いる手法であり、基本的には合目的的である。しかしその嫌悪刺激がある過去の体験に結びつき、それがその人の社会生活を損なう程度の苦しみを与えるとしたらどうだろう。しかも危険を及ぼすような事態はもはや存在していないにもかかわらず、その人を恐怖に陥れ、身動きができない状態にしてしまうとしたらどうだろうか。
 精神医学や心理学の世界でこの半世紀ほど大きな関心を集めているテーマがある。それがいわゆるトラウマの問題であり、そこで問題となる記憶がトラウマ記憶と呼ばれている。このトラウマ記憶はPTSDや解離性障害などの数多くの精神病理と関係している。その中でもいわゆるフラッシュバックと呼ばれる現象は、一種の嫌悪刺激であり、多くの人々を苦しめている。しかし最近の脳科学の進歩により、さまざまな治療手段が模索されている分野でもある。
 トラウマ記憶によるフラッシュバックの特徴はそれが通常の出来事に関する記憶とは著しく異なる性質を持っているということである。それは感覚的、情緒的であり、また唐突に、あるいはトラウマを思い起こさせるようなトリガーにより襲ってくるのだ。
 ここで記憶の仕組みについて復習しよう。ある事柄についての記憶は、顕在的(意識的)部分と、潜在的(無意識的)部分に分かれる。いつどこで何があったか、という時空間的な情報はエピソード記憶であり、顕在的な部分に相当するが、それだけではない。そこに悲しみや傷つきなどの情緒的、感覚的な部分も含まれる。そしてそれは扁桃核を介した条件付けのようになり、その記憶を呼び起こすようなキューにより繰り返し思い出されるのだ。要するにその記憶の含む感覚、情緒部分であり、すでに説明した嫌悪刺激の深刻なものと考えることが出来る。したがってそれをつかさどるのは扁桃核を中心とした諸器官である。
 トラウマ記憶のもう一つの特徴は、それが極めて強く脳に刻印される一方では、そのエピソード記憶の部分がしばしばあいまいであったり、忘却ないし解離されたりしているということである。トラウマにおいては扁桃核が強く興奮する際に海馬の活動を抑制することが知られている。すると通常のエピソード部分を欠いた感覚や情緒的な記憶になってしまうのである。

2021年7月29日木曜日

嫌悪の精神病理 推敲 6

 私たちの日常生活は主要部分が「仮想的」快、苦痛である

ところでこのように快、苦痛を「仮想的」「現実的」と分けて考えると、私たちの現実の生活はかなり両者が入り混じっていることが分かる。そればかりでなく、その主要部分は「仮想的」なもので構成されていると考えていいだろう。私たちの求める快も、私たちが回避する苦痛も、その多くについて私たちはそれがあらかじめ予想され、想像された時点で接近ないしは回避という行動を開始するのがふつうである。読者は例のウォルター・ミッシェルの「マシュマロ・テスト」をご存じだろうか。子供は目の前に出された一つのマシュマロを15分間我慢して食べずにいたら、2つのマシュマロをもらえる、と言われる。そしてその後の子供の行動を観察するわけだ。自分の衝動をコントロールできる子供は目の前の、あるいは直接的に体験される快を延期して、最終的に得られるより大きな快を獲得する。フロイトが唱えた「現実原則」はそれを端的に表現しているといえるだろう。
 私たちの現実生活は、このマシュマロテストを常に行っているようなものだ。私たちは直接的な快を求めて生活を営んでいるわけではない。将来の快を求めて現実の苦しさに耐えることもある。さらに言えば、私たちの快や苦痛の多くは、現実的な部分を伴わない、実質上仮想的な部分のみによって構成されているものが多いのである。
 例えば私たちが求める地位や名誉はどうだろうか? 達成感や自尊心の満足でもいい。 あるいはそれらが失われた場合の苦痛はどうだろうか? これらの快や苦痛に含まれる「現実的」な部分はおそらくわずかであろう。地位や名誉は直接生理的に体験することができない部分が大きい。「社長の椅子」の座り心地は普通の椅子の感触以上のものは与えないだろう。しかしそこに「仮想的」な部分(「俺は社長だからここに座っているのだ」という認識など)が加わることで一見生理的な満足に近いものが味わわれるだけである。そして突然社長の地位を追われた人が体験する苦痛もまた「仮想的」な部分が大半であろう。ここでこの「仮想的」部分に深く関係しているのが記憶のメカニズムである。それはそれらの快、苦痛が「仮想的」なものであるために必然的に生じてくる性質である。そしれそれゆえに、これらは時間をかけて、徐々に体験されていくという性質を有する。
 もうひと昔になるが、オリンピックで金メダルを獲得したある水泳選手が、レース後の会見で「チョー気持ちいい!」と叫んだ。金メダル獲得は彼にとって考えられないほどの喜びをもたらしたのであろう。しかし金メダル獲得は「仮想的」なものに過ぎない。メダリストたちがよくやる「金メダルを齧る」というポーズは決して生理的な快感を与えるわけではないのだ。そしてその喜びは一挙に、その場で体験されることはない。ほとんどの受賞者は「にわかには信じられない」「実感がわかない」と心境を語るのだ。そして次の朝目が覚めて、改めて「やった!金メダルとった!」と、より実感を持つようになっていくのだろう。そしてその逆のプロセス、すなわち喪失の場合も同様である。何事かを失ったとき、おそらく私たちはその瞬間にはその全体を体験することが出来ず、実感が持てないという感覚を、それが喪の作業ということになるのだ。

2021年7月28日水曜日

嫌悪の精神病理 推敲 7

 喪失体験と忘れられない病理

本稿が嫌悪の精神病理について論じるという目的を持つので、ここで特に「仮想的」な苦痛について目を転じなくてはならない。仮想的な苦痛もまた時間をかけて緩徐に体験されていくものである。その典型が、何かを失う、という喪失体験である。ここで喪失の対象となるものは人やペットや物かもしれないし、能力や健康、身体機能、地位や名誉などの抽象的なものかもしれない。
 何かを失ったと知った時、私たちはそれが自分にとって何を意味するかを一挙には体験できない。例えば愛犬を事故等で突然失った場合、その苦しみは直接的、生理的なものを含んでいたとしても、さほど大きくはない。愛犬を撫でたときの手の感触が失われることは直接的、生理的な喪失と考えるかもしれない。しかし旅行でしばらく家を離れるので愛犬を撫でられないからと言って耐え難い寂しさや禁断症状は普通は起きない。その意味で愛犬の喪失体験は、「現実的」な喪失の上には何層もの「仮想的」な部分が積み重なっているのである。
 喪失の痛みの基本部分が「仮想的」である以上、それは一度に受け入れることが出来ないのが普通だが、幸運なことに、その喪失は時間とともにその痛みが失われていくのがふつうである。もちろん愛する人を失った悲しみや喪失感はいつまで経ってもいえないかもしれない。このように考えるといわゆる「日にち薬」という表現の意味が分かる。
 喪失による「仮想的」な苦痛の中でも、比較的早くから失われていくのが、エピソード記憶に関連した部分である。喪失体験が特定の出来事の克明な記憶を伴っている場合、そのうちの「エピソード記憶」の部分は比較的順調に失われていく。愛犬を病気で失ったという記憶は、その際の出来事の時間経過を追った詳細や部分はやがて薄れていく。

その記憶が徐々に不鮮明になっていくのはエピソード記憶が基本的にはいわゆる「エビングハウスの忘却曲線」を描くからである。
 ただし喪失体験はエピソード記憶のみによって構成されているわけではない。記憶はエピソード記憶のように意識化される部分としての顕在 explicit 記憶とは別に、いわゆる潜在implicit 記憶がある。そこには主として感情的、感覚的な部分が多く含まれる。愛犬を見送った時の時系列的な記憶は徐々に失われても、愛犬に結びついた情緒的、感覚的なものはより長く残り、私たちを苦しめるだろう。ここの部分こそが一挙には体験されず、当初はそれこそ現実のこととして体験されず、やがて時間をかけて実感され続け、はるかに時間をかけて薄れていくのである。
 ところが苦痛な体験はこのような喪失体験のように時間がかかっても順調に失われて行かないものがある。それどころか繰り返しよみがえり、私たちを苦しめるものがある。それがいわゆるトラウマ記憶、ないしは恐怖記憶と呼ばれるものである。

2021年7月27日火曜日

嫌悪の精神病理 推敲 5

 嫌悪刺激を記憶の観点から見る

嫌悪の病理として、報酬系が陥る病理と依存症について述べたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは私たちにとっては一部の嫌悪刺激は決して忘れ去られることなく永続的に私たちを苦しめるという現象である。この問題はより嫌悪の問題そのものにかかわるテーマである。
 この問題について論じる前提として、私たちの体験する快や不快には二つの種類があることを理解しよう。一つは「現実的」、生理的な快ともいうべきものであり、もう一つは「仮想的」、想像的なものである。
 動物実験ではサルを使ってトレーニングをすると、大脳基底核という部分にあるドーパミン細胞が興味ある動きを示すという。最初は果物などの報酬を与えたときに高まりを見せたドーパミンのphasic活動が、それをもらえるとわかった時点での興奮に前倒しされることが分かっている(Schultz 1993
Schultz W, Apicella P, Ljungberg T1993Responses of monkey dopamine neurons to reward and conditioned stimuli during successive steps of learning a delayed response task. J Neurosci 13:900-913.

 この実験で示されたことは、報酬系の興奮は、果物を口にした時に生じるものと、果物を将来口にできるとわかった時のものの二種類があるということである。そしてこの両者はドーパミンの放出という点は共通していても、決して同一のものではない。
 もう少し身近な例として渇きに耐えて砂漠を歩く旅人のことを想像しよう。彼ははるか先にオアシスを見つける。その時点で旅人は歓喜にふるえるだろう。それはおそらく報酬系の興奮を伴う。しかし実際にオアシスにたどり着き、ひと掬いの水を口に入れ飲み込む時の快感は、それとは別の種類のものである。このときオアシスを見つけ、将来水にありつけることが分かった時の快は「仮想的」なものである。なぜならそれは実際に水を飲んでいることを想像したときのかりそめの快感にすぎないからだ。また実際に水を飲んだ際の快感は「直接的」な快ということになる。
 フロイトはその本能論の中で、生下時には乳児はこの「仮想的」快を「幻覚的」に体験するので、現実的なものと混同すると考えた。そしてそれをいわば精神病的な段階になぞらえることが出来る「一次過程」とよび、それと現実とを区別するより成熟した心のプロセスを「二次過程」とした。しかしこの一次過程から二次過程への移行は比較的速やかに行われなくてはならないことになる。なぜならのどの渇きを覚えた旅人は、水を飲むことを想像した「幻覚的」な快のみに満足していては、たちまち脱水状態になり、衰弱死してしまうからである。生命体はおそらくこの二種類の快や苦痛をかなり明確に区別することが出来るはずである。両者の差が必要な行動を生むからだ。なお生理学的にはこれを「報酬予測誤差」の問題として盛んに研究がおこなわれている。
 同様の区分はもちろん嫌悪刺激についてもいえる。これから鞭打ち刑を受けることを知らされた囚人は、実際に鞭打たれる前から苦痛を感じるだろう。しかしそれは「仮想的」なものであり、実際に身体的に鞭打たれた時の苦痛、すなわち「現実的」な苦痛とは全く性質が異なるといわなくてはならない。この違いを知ることもまた生存にとって重要なのだ。ただしここで述べた嫌悪刺激の「仮想的」「現実的」という区別は、報酬に対する両者の区別と不可分に体験されていたということは重要である。なぜなら将来得られる快を「仮想的」に体験して実際には得られなかったなら、その時のガッカリ感はまさに嫌悪刺激と同じと考えられるからである。そしてその苦痛の部分は図に示されたドーパミン信号の「凹み」によってあらわされているのだ。

2021年7月26日月曜日

嫌悪の精神病理 推敲 4

  私たちの報酬系は、快の程度が一定限度内であれば、穏やかな快感を保証してくれるのであった。それは自分にとって癒しとなり、また生きる喜びにもなるだろう。たとえば毎日仕事があるものの、決まった時間にブレークタイムがあり、ある心地よさを体験しているとしよう。それはケーキやグラス一杯のワインなどの嗜好品かもしれないし、読書やゲームで過ごすひと時かもしれない。それが終わるとあなたは満ち足りた気持ちで再び業務に戻るのである。あなたは明日もその時間を楽しみにし、自分に対するご褒美と考え、それにより仕事へのモティベーションも上がるかもしれない。
 ところがそのブレークタイムに、あなたはヘロインのパイプを提供されるとしよう。あるいはあぶって数純度の高いコカイン(いわゆる「クラック」)でもいい。今日からはこの新しいメニューが続くのだという。あなたが興味本位でそれを吸ってみると、たちまち強烈な多幸感に襲われる。「性的オーガズムの数万倍の快感を全身の隅々の細胞で行っているような」と形容される快感を初めて味わった時、おそらくあなたは通常の仕事には戻れない。戻ったとしても
ボーっとして、先ほどのブレークタイムで自分の身に起きたことを考えて過ごすかもしれない。そして翌日もまた雲に乗ったようなあの強烈な快感を味わう。こうして何日かを過ごすうちに、あなたは自分の心や体に異変が生じていることに気が付く。まずあなたはブレークタイムのことが頭にこびりついて離れなくなるからだ。気が付くと翌日のその時間が待てなくなっている。他のことが考えられなくなっているために、仕事に戻ることが難しくなっている。そうしてさらに不幸なことが起き始めていることを知る。それはヘロインやコカインによる快感が過ぎ去った後、不思議な苦しさが訪れるようになることだ。特にヘロインの離脱症状は過酷なものである。身体中に起こる関節痛、とてつもない倦怠感や吐き気。しかも時と共にそれが増していくのである。そしてその苦しさは、次の日に再びヘロインを使用する時まで続くのだ。

 さらにもう一つの問題が起きる。それは同じ量のヘロインやコカインで得られる快感は明らかに前回よりは減っている。それは苦しさを一時軽減してくれるだけで、恐らく快感としてすら体験されない。こうして報酬系は最初の甚大な快感をそっくりそのまま苦痛へと変質させてしまうのである。いわば報酬系は私たちに奉仕するどころか、最悪の事態を引き起こし、私たちを裏切るのだ。これはこういって差し支えなければ報酬系という器官は途方もないバグを有している。それは一定以上の快の刺激で、快感どころか災厄をもたらすのだ。そしてその人をおそらく二度と立ち上がれない廃人のようにしてしまうのだ。
 筆者が嫌悪の病理としてこの報酬系の暴走状態を取り上げるのには理由がある。確かにヘロイン吸引により、人は「一生で経験する快感の総和以上の快感」を得るかもしれない。しかし離脱による症状は「地獄そのもの以外の何でもない」とまで言われるのだ。
 ここで私たちの心にひとつ疑問が生じていいだろう。過剰な快に対する報酬系の振る舞いは、神がそう設計した結果だろうか。人(実は動物も同じである)は一定以上の快を味わった際にその人を廃人にするべく設計されたものだろうか?それとも自然がそのような快の源泉を想定していなかったのだろうか? たしかに生命体がこのようなバグを有する報酬系を抱えながら生き延びてきたのは、生命体がそのような強烈な報酬刺激に自然界では滅多に出会わなかったからであろう。例えばケシの実からとれる白い汁に含まれるモルヒネの濃度が極めて高かったとしたら、動物の多くはケシ畑を離れられなくなり、食べ物を探したり繁殖をしたりせずにケシの実を齧り続けて廃人(廃物?)になり餓死してしまうだろう。(ちなみに自然界で精神変容作用を起こす植物に動物が翻弄される例は数多く知られている。)
 すなわち私たちの文明が、自然界ではほとんどありえないような報酬刺激を作ってしまったのがいけないのか?その理由は分からない。ただしこのバグの本体は少しずつ解明されつつある。そしてそれに従い、薬物依存をいかに治療するかについてのヒントも与えられつつあるのだ。

報酬系が狂うプロセス

 快についてはVTAからNAccに投射されるドーパミンニューロンが関与していることについてはすでに述べた。ここでいわゆる長期増強、長期抑圧という現象が生じることが依存症の形成に関係している。長期増強とは二つの神経細胞を同時に刺激することにより両者の間の信号伝達が持続的に高まるという現象である。その際エンドソームから次々とりセプターが繰り出されてシナプスを強化する。わかりやすく言えば、報酬系の中枢の部分の回路がより太く、強力になるのだ。この長期増強は、例えば一回のコカインの使用ですでに最大限にまで達するという。そしてこの長期増強が薬物依存に関係していることは、その長期増強を抑える薬物、たとえばMK-801 で前処理されたラットではこの依存症が起きないことにより証明されている。ただしこの長期増強はアルコールやニコチンでも一回で生じるというのだ。ところが依存症はたった一度の使用で起きるわけではない。

そこで強烈な依存症の成立には別の仕組みが関与していることになるが、それがGABAによる長期抑制という仕組みである。GABAニューロンは報酬系を抑制する働きがある。それの抑制、すなわち抑制の抑制による増強という現象が、薬物の使用回数が上がるにしたがって高まっていくという。これが依存症の成立に絡んでいるという。

依存症による脳の変化はさらにドーパミンの投射先であるNAccや背側線条体、前頭前皮質のシナプスにも変化が生まれる。NAccの中型有刺ニューロンの棘の数は格段に増えて刺激をよりキャッチしやすくなるが、この変化は永続的であるという。また海馬、前頭前皮質、偏桃体から側坐核に情報を届けるグルタミン酸システムの長期抑制が起きる。これらの変化は全体として、とてつもない快感を再び期待して報酬系が悪魔的な学習diabolical learning (Stahl, 2012)を起こしてしまい、これが初期の耐性と依存性のもととなっている可能性があるという。しかもこの脳の変化はほぼ不可逆的であり、薬物依存者は再び正常の脳を取り戻すことは出来ないのだ。


2021年7月25日日曜日

嫌悪の精神病理 推敲 3

  このように報酬系は、報酬刺激や嫌悪刺激が軽度~中等度の場合は、きわめて合目的的に働くことが分かる。適度に心地よい刺激ではドーパミンが放出され、嫌悪刺激では主としてアセチルコリンが働き、私たちは主観的な快や苦痛を覚える。すると体はそれらをさらに求めたり、それを回避、軽減したりするという衝動を生むのである。そしてそれは私たちの生存の可能性をより高めるのだ。
 また嫌悪刺激については、私たちの脳は周到な用意をしている。ドーパミンやアセチルコリン以外の物質も関与して、それを軽減しようと試みるのだ。例えば脳内では鎮痛剤に似たような物質が分泌され、みずから痛みを和らげようとすることが知られている。それがいわゆる「内因性オピオイド」であり、それ自身が報酬系に働きかけることで痛みを軽減する効果を発揮する。そうすることで尋常ではない痛みに対処する力を私たちの脳は備えているのだ。だから極度の苦痛に襲われた際、むしろ至福に近い体験が生じるという現象が知られている。溺死寸前で救出された人などの語る臨死体験の多くがDMTなどの脳内麻薬物質と関連しているという研究もなされている。

星名 洋一郎 (2009)シグマ1受容体の内因性アゴニストは幻覚剤であるDMTだった ファルマシア 4511025-1036

 過剰な快と報酬系の暴走

 では報酬刺激が過剰な場合には何が起きるのだろうか。その場合にこそ問題が生じるのだ。すでに述べたように私たち祖先は過剰な快楽を体験する機会を通常は持ちえなかった。そして報酬系はそれに対する対応能力を持っていなかったのである。その結果として快感が一定限度を超えた場合、報酬系は暴走し、私たちに快楽を体験させてくれるのではなく、逆に極度の苦痛与えることになるのだ。

2021年7月24日土曜日

嫌悪の精神病理 推敲 2

 ここで問題なのは、私たちはそのような報酬刺激に対してきわめて脆弱であるということである。私たちの脳は、脳はそのような過剰な報酬を安全な形で体験するようには設計されてこなかったのだ。その代わりに脳は過剰な快が結果的に耐え難いほどの嫌悪刺激をもたらすのである。ここに嫌悪の精神病理の核心部分があるのだ。

報酬系の機能と快、苦痛

ここで報酬系についてその働きを見てみよう。それを単純化すれば、それは報酬刺激を与えられることで興奮し、私たちに快感を与えてくれるのである。報酬系は先に述べた中脳の側坐核や中核野の周辺に広がる領域である。そこで特に重要なのが内側前脳束(medial forebrain bundle、以下BFB)という部位で、特に腹側被蓋野、ventral tegmentum, 以下VTA)から側坐核に向かって投射しているドーパミンニューロンである。VTAにはそのドーパミンニューロンの細胞体があり、そこから側坐核に軸索を伸ばしており、その興奮により側坐核にドーパミンが放出される。私たちが身体的に得られる快、精神的に得られる快がすべて、このMFBにおけるドーパミンニューロンの興奮に関わっているからだ。
 ただし報酬系は快感のみではなく、嫌悪刺激とも深く関係している、極めて複雑なシステムであることが分かっている。そして嫌悪刺激はアセチルコリンの放出にも関連しているが、同時にドーパミンも放出されることが分かっている。そして放出されるトーパミンとアセチルコリンの比(D/A比)が大きいと快感に、小さいと苦痛を生むという事が知られている。

2021年7月23日金曜日

嫌悪の精神病理 推敲 1

  私たちは、生命を維持するうえで極めて重要な原則に従っている。それは快を伴う報酬を希求し、不快を起こすような嫌悪刺激を回避する傾向である。私たちは生命維持にとって必須な食料や安全な環境は快と感じて追い求め、生命の維持を危うくするような危険や侵襲は嫌悪刺激として回避することで生存の可能性を高めるのだ。フロイトはこれらを「快原則」と「不快原則」と名付けたことはよく知られるが、この原則は精神分析理論を超えて普遍的な妥当性を持つように思われる。
 本稿では特に嫌悪aversionについての精神病理学的な理解を試みるが、現代の心理学や脳科学が示すのは、快ないし報酬rewardと不快ないし嫌悪は深い関連性を有し、両者を切り離すことができないということである。そしてそこに快が嫌悪の病理につながるようなメカニズムの存在も解明されつつあるのである。
 嫌悪と報酬の性質を理解するうえで、近年の脳科学的な研究はきわめて重要な手掛かりを与えてくれる。そしてその端緒となったのが1953年のオールズとミルナーによる報酬系の発見であった。彼らはラットの脳に電極を刺し、スイッチとなるレバーをラット自身が押すことで自己刺激を行わせる実験を行った。そしてたまたまある部位に電極が刺されると、ラットは狂ったように、それこそ食事も忘れてレバーを押し続けることが分かった。それが中脳の腹側被蓋野、側坐核、内側前脳束、中核、視床、視床下部の領域からなる部位で、後に「報酬系」ないしは「快感中枢」と呼ばれるようになった部位である。
 脳のある部位を電気刺激すると著しい快感が得られるという彼らの発見は、当時は大きな議論を呼び起こしたという。興味深いことに当時は、脳の刺激は常に嫌悪を生み出すという考えが支配的であったという(リンデン、p19)。脳のいたるところがいわば「嫌悪中枢」である一方では、報酬系や快感中枢の存在は想定されていなかったということになる。快楽はいわば不快を回避することで間接的に得られるものとしか考えられていなかったのだ。それはどうしてだろうか?
 一つ考えられるのは、人類はこれまで深刻な不快や痛みに常に直面していたからであるという可能性だ。私たちの祖先は自然や人災がもたらすあらゆる苦痛に翻弄され、麻酔も鎮痛薬もない状態で耐え忍んだ。一方で人類は強烈な快感を味わう機会には恵まれていなかった。すべを従来は持たなかったのだ。古代人にとって考えられる限りの大きな快楽や享楽といっても、せいぜい飢餓状態に置かれた後の飽食、性的なエクスタシー、あるいは特別の機会に限られた飲酒程度だったのであろう。だから古代人はもっぱら苦痛を回避することに腐心し、快原則はいわば不快原則に従属的にならざるを得なかったのだ。
 ところが近代になり科学技術の高まりとともに生産性が上がり、人々の暮らしは急に豊かになった。そして口当たりの良い食糧品やアルコール飲料は安価でほとんどいくらでも手に入る世の中になった。また純度の高いモルヒネやアンフェタミン、コカイン、大麻成分などを精製できるようになった。これらの薬物は人類がこれまで経験したことのない強烈な快感を体験させてくれる。純度の高い依存物質を、静脈注射や肺からの吸入によりきわめて急速に摂取することによる快感は、オールズとミルナーのネズミがレバーを夢中になって連打した時のような至福の体験に匹敵するだろう。さらに現在の私たちの身の回りにはギャンブルやゲームなどの報酬系を手軽に刺激できるような手段にあふれているのだ。

2021年7月22日木曜日

嫌悪の精神病理 11

 トラウマにおける忘れられない病理

本稿が嫌悪の精神病理について論じるという目的を持つので、ここで特に「仮想的」な苦痛について目を転じなくてはならない。仮想的な苦痛もまた時間をかけて緩徐に体験されていくものである。その典型が、何かを失う、という喪失体験である。ここで喪失の対象となるものは人やペットや物かもしれないし、能力や健康、身体機能、地位や名誉などの抽象的なものかもしれない。
 ここで理解しておかなくてはならないのは、これらの喪失による苦しみの主たる部分は「仮想的」であるということだ。何かを失ったと知った時、私たちはそれが自分にとって何を意味するかを一挙には体験できない。例えば愛犬を事故等で突然失った場合、その苦しみは直接的、生理的なものを含んでいたとしても、さほど大きくはない。愛犬を撫でたときの手の感触が失われることは直接的、生理的な喪失と考えるかもしれない。しかし旅行でしばらく家を離れるので愛犬を撫でられないからと言って耐え難い寂しさや禁断症状は普通は起きない。その意味で生理的な喪失の上には何層もの「仮想的」な部分が積み重なっているのである。
 喪失の痛みの基本部分が「仮想的」である以上、それは一度に受け入れることが出来ないのが普通だ。時間をかけて喪失されることになった様々なものをその都度受け入れていくことになるだろう。ただし幸運なことに、その喪失は時間とともにその痛みが失われていくのがふつうである。もちろん愛する人を失った悲しみや喪失感はいつまで経ってもいえないかもしれない。このように考えるといわゆる「日にち薬」という表現の意味が分かる。
 ところでこの「仮想的」な快や不快の体験に記憶が関連していると述べたが、これは通常の意味での記憶とは異なる。日常的な出来事に関するいわゆる「通常のエピソード記憶」と呼ばれるものについては、それは基本的には一回の体験で形成されてしまう。ただし当初は即時記憶や短期記憶の形で形成されたものは、それを繰り返し思い出すことで固定化され、長期記憶の形に変わっていくわけであるが、その詳細はおそらくその体験を持った直後が最も鮮明であるはずだ。つまりそれは出来事として私たちの脳に一挙に刻まれるはずだ。例えば件のオリンピックの水泳選手であれば、彼はその競技中のこと、レースを終えて電光掲示板の記録を読んだ時の視覚イメージなどを極めて鮮明に覚えているであろうし、それ自身は一挙に情報として脳に刻印される。最初はぼんやりと覚えたことが翌日以降に徐々に明らかになるという形はふつう取らないのだ。
 その記憶が徐々に不鮮明になっていくのはエピソード記憶が基本的にはいわゆる「エビングハウスの忘却曲線」を描くからである。





2021年7月21日水曜日

嫌悪の精神病理 10

  私たちの現実の生活を考えると、そこで得られる快や苦痛は「仮想的」な部分と「現実的」な部分がかなり入り混じって体験されていることが分かる。私たちの求める快も、私たちが回避する苦痛も、その多くについて私たちはそれがあらかじめ予想され、想像された時点で接近ないしは回避という行動を開始する。読者は例のウォルター・ミッシェルの「マシュマロ・テスト」をご存じだろうか。子供は目の前に出された一つのマシュマロを15分間我慢して食べずにいたら、2つのマシュマロをもらえる、と言われる。そしてその後の子供の行動を観察するわけだ。自分の衝動をコントロールできる子供は目の前の、あるいは直接的に体験される快を延期して、最終的に得られるより大きな快を獲得する。フロイトが唱えた「現実原則」はそれを端的に表現しているといえるだろう。
 私たちの現実生活は、このマシュマロテストを常に行っているようなものだ。私たちは直接的な快を求めて生活を営んでいるわけではない。将来の快を求めて現実の苦しさに耐えることもある。さらに言えば、私たちの快や苦痛の多くは、現実的な部分を伴わない、実質上仮想的な部分のみによって構成されているものが多いのである。
 例えば私たちが求める地位や名誉はどうだろうか? 達成感や自尊心の満足でもいい。 あるいはそれらが失われた場合の苦痛はどうだろうか? これらの快や苦痛に含まれる「現実的」な部分はおそらくわずかであろう。地位や名誉は直接生理的に体験することができない部分が大きい。「社長の椅子」の座り心地は普通の椅子の感触以上のものは与えないだろう。しかしそこに「仮想的」な部分(「俺は社長だからここに座っているのだ」という認識など)が加わることで一見生理的な満足に近いものが味わわれるだけである。そして突然社長の地位を追われた人が体験する苦痛もまた「仮想的」な部分が大半であろう。ここでこの「仮想的」部分に深く関係しているのが記憶のメカニズムである。それはそれらの快、苦痛が「仮想的」なものであるために必然的に生じてくる性質である。そしれそれゆえに、これらは時間をかけて、徐々に体験されていくという性質を有する。
 もうひと昔になるが、オリンピックで金メダルを獲得したある水泳選手が、レース後の会見で「チョー気持ちいい!」と叫んだ。金メダル獲得は彼にとって考えられないほどの喜びをもたらしたのであろう。しかし金メダル獲得は「仮想的」なものに過ぎない。メダリストたちがよくやる「金メダルを齧る」というポーズは決して生理的な快感を与えるわけではないのだ。そしてその喜びは一挙に、その場で体験されることはない。ほとんどの受賞者は「にわかには信じられない」「実感がわかない」と心境を語るのだ。そして次の朝目が覚めて、改めて「やった!金メダルとった!」と、より実感を持つようになっていくのだろう。そしてその逆のプロセス、すなわち喪失の場合も同様である。何事かを失ったとき、おそらく私たちはその瞬間にはその全体を体験することが出来ず、実感が持てないという感覚を、それが喪の作業ということになるのだ。

2021年7月20日火曜日

嫌悪の精神病理 9

 嫌悪の病理として、依存症に関連したトピックについて論じたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは快や嫌悪と記憶との関連だ。まずそのことの前提として私たちの体験する快や不快には二つの種類があることを理解しよう。一つは生理的、直接的な快ともいうべきものであり、もう一つは仮想的なものである。
 動物実験ではサルを使ってトレーニングをすると、最初は果物などの報酬を与えたときに興奮していた報酬系が、それをもらえるとわかった時点での興奮に前倒しされることが分かっている(Schultz 1993

Schultz W, Apicella P, Ljungberg T1993Responses of monkey dopamine neurons to reward and conditioned stimuli during successive steps of learning a delayed response task. J Neurosci 13:900-913.

この実験で示された報酬系の興奮は、果物を口にした時に生じるものと、果物を将来口にできるとわかった時のものの二種類があると考えることが出来る。ただしこの両者は決して同一のものではない。
 もう少し身近な例として渇きに耐えて砂漠を歩く旅人のことを想像しよう。彼ははるか先にオアシスを見つける。その時点で旅人は歓喜にふるえるだろう。それはおそらく報酬系の興奮を伴う。しかし実際にオアシスにたどり着き、ひと掬いの水を口に入れ飲み込む時の快感は、それとは別の種類のものである。このときオアシスを見つけ、将来水にありつけることが分かった時の快をあえて「仮想的な」快と名付けよう。なぜならそれは実際に水を飲んでいることを想像したときのかりそめの快感にすぎないからだ。そして実際に水を飲んだ際の生理的、直接的な快とそれらは明らかに異なるものでなくてはならない。私たちはその違いを知ることで、「仮想的な」快を現実的な快につなげようとする行動が生まれる。
 フロイトはその本能論の中で、生下時にはこの「仮想的な」快を現実的なものと混同し、幻覚的な快と称したことは知られる。精神の発達とともにそれが現実には起きていないと知るようになり、一次過程から二次課程に進むというプロセスを明らかにしたのである。
 同様の区分はもちろん嫌悪刺激についてもいえる。将来の鞭打ち刑を知らされた囚人は、実際に鞭打たれる前から苦痛を感じるだろう。しかしそれは「仮想的」なものであり、実際に身体的に鞭打たれた時の苦痛、すなわち現実的な苦痛とは全く性質が異なるといわなくてはならない。

2021年7月19日月曜日

嫌悪の精神病理 8

 こうして快が記憶に関係することは比較的容易にわかる。では苦痛はどうか。これもその応用でわかることだ。カエルが目の前に差し出されてもう九分九厘自分の口に入ったと思ったコオロギをほかの個体に横取りされたらどうか? これは報酬をほとんど手に入れたときの快のネガティブ、すなわち苦痛に他ならないだろう。だから失ったときの苦痛は、それを全体として一気に失ったときの記憶を少しずつ切り崩していく。こうもいえないか。生命体は獲得も喪失も、一挙に行うことが出来ない。そこには記憶のメカニズムが働いていて(ということは時間のかかるタンパク合成が絡んでいて)、一挙に処理をすることが出来ないからだ。だからオリンピックで金メダルを獲得した人は、それが予想外で、にわかには信じられないという人の場合は、その瞬間は現実感がわかないはずだ。そして次の朝目が覚めて、改めて「やった!金メダルとった!」と、改めてまだ実感がわかなかった分を少しずつ取り込んでいく。喪失の場合も同様で、それが喪の作業ということになるのだ。
 ここまでの考察で、私はこれを記憶のプロセスと関連付けているが、本当に記憶の問題かどうかは私にはよくわからない。例えば「金メダルを取った!」という記憶は、それを取った時点ですでにしっかり形成されているとは言えないか。しかしでは実感の伴わない記憶はそれでも記憶なのか。外傷記憶で、情緒的な部分とエピソード記憶の部分のうち前者だけが切り離されるということが言われる。同じように情緒部分は金メダルについてもいえることなのだ。だからここは「記憶の情緒部分」と言い換えればいいのだろう。
 すると嫌悪の病理で問題となるのは、外傷体験を忘れられないという問題と同じではないだろうか。あるトラウマを体験する。それは通常の喪失、ないしは嫌悪の体験とは異なる。それを体験してもその全体量が切り崩されて行かない。それどころかいつも同じ痛みでよみがえる。
 両側の海馬を失った症例HMの話を思い出す。彼は父親を亡くしたことを母親から何度聞かされても、初めて聞いたのと同じ効果を及ぼす。HMは泣き崩れる。しかしそれも一時で、すぐ父親を亡くしたことを忘れる。すると再びそのニュースを母親から聞かされて泣き崩れる。これはトラウマのフラッシュバックを繰り返すことと少し似ている。痛みは決して減殺されて行かない。喪のプロセスでは、情緒部分がエピソード記憶とつながっていることで進んでいく。トラウマは両者の関連が失われることで半永久的に苦痛を与え続ける可能性があるのだ。

2021年7月18日日曜日

嫌悪の精神病理 7

 この問題はおそらく記憶に関係している。カエルより高等な生物が記憶の機能を備えると、以前餌を捕まえた時に味わった記憶はそれを思い出すこと自身がある種の快感を伴うのだろう。では先取り嫌悪はどうだろう? それは天敵から襲われるという体験がなくとも、恐らく先取り報酬と同時に体験されるだろう。コオロギが口に入る寸前に逃げてしまったら、想定していた快が奪われたことを知ったカエルは相当なダメージを味わうだろう。それはおそらく先取りされた快の分だけの苦痛のはずだ。こうして手に入る見込みのコオロギによる快、手に入るはずだったのに逃げられたコオロギの喪失による苦痛、という仮想的な体験による快、不快が体験されるが、より高度な生命体では、これらは抽象的な物事に関する快、不快へと容易に拡張される。お金などはその最たるものだが、名誉も、プライドも、叱責もすべて報酬系を刺激して、快、不快を体験させることになる。

なお動物実験ではサルを使ってトレーニングをすると、最初は果物などの報酬を与えたときに興奮していた報酬系が、それをもらえるとわかった時点での興奮に前倒しされることが分かっている(Schultz 1993)。

Schultz W, Apicella P, Ljungberg T1993Responses of monkey dopamine neurons to reward and conditioned stimuli during successive steps of learning a delayed response task. J Neurosci 13:900-913.

実は報酬が得られる可能性ですでに反応することがとても必要であり、だからこそそれを実際に得ようとする行動が生まれる。おそらく生体にプログラムされているのは、近くにある報酬の源(についての記憶)の際にそれに接近するというほとんど自動的ともいえる行動であり、この報酬予測の時点でその報酬の先払いを受けていると考えていいだろう。まとめるならば、生命体の報酬系は、報酬の予測に対しても、あるいは嫌悪の予測に対しても反応することで、その生命体の生命維持に貢献しているのである。

ここで容易に気が付くことだが、先取りされた快や嫌悪は、おそらく直接それを(予想外に)与えられた、ないし被った時の快ないし苦痛と積分値が一緒であるということだ。つまりカエルがコオロギを目の前にして「やった!」と喜んだ時の快は、それを実際に食べているときの快を減衰させることになる。何しろトータルで同じ値のはずだからだ。(そりゃそうだろう。じゃないと、ちょうどいくら食べても決して減っていかないケーキのようなものではないか。)

2021年7月17日土曜日

嫌悪の精神病理 6

 もっと下等な生物の体験に置き換えよう。同様のことは彼らに起きるだろうか。おそらく。例えばカエルが餌となるべきコオロギを至近距離で目にしたとする。彼は目の色を変え、コオロギにとびかかり、捕まえて口に入れてむさぼるだろう。しかしカエルはコオロキをむさぼる前に「やった!」と喜んでいるはずだ。実際にむさぼっていないわけだから、この快は仮想的であり、カエルはコオロギという報酬を「先取り」している。するとカエルは得るべき快をまた実際には手にしていないという認識を持つ。仮想的な快は渇望を呼び、行動を可能にする。カエルにとっては、「先取り報酬」という仮想上の快楽の体験と、それを実現するための行動の必要性の認識が合わさり、それを渇望として体験するだろう。ここでカエルにとってはコオロギに飛びつくという実際の行動を起こすことは決定的に重要であり、渇望はその強い動因となる。おそらくかなり下等な生物の段階でこのメカニズムをしっかり有しているのではないか。仮想的な快→そのために必要な行動→現実の快の獲得という一連の流れである。もちろんそれの逆のバージョンもある。カエルが天敵である蛇ににらまれたらどうか。一目散に逃げるであろう。そこには仮想的な苦痛→それを避けるために必要な行動→現実の苦痛の回避。この二つのルートはもう生命体が生存するために決定的に重要なので、これらのメカニズムを有しない生命体はほぼ考えられないのではないか。

このように生命体は快の源泉と嫌悪刺激の源泉に対してどのような行動を起こすかを常に考えておく必要がある。快の源泉は遠ければ一生懸命追う必要があるし、嫌悪の源泉は常にそれを遠ざけておく必要がある。その実現の近さと行動の迅速さとは常に結びついているはずである。快の約束は、それをもう一生懸命追わなくてもいいだけ、その獲得が約束され、行動への動因が下がる。嫌悪の源泉はそれが近づくと一生懸命逃避をし、遠ざかるとその分だけもう逃げなくてもよくなる。「慣れ」とはそのような現象に関係しているのではないか。

2021年7月16日金曜日

嫌悪の精神病理 5

 嫌悪の病理として、依存症に関連したトピックについて論じたが、本稿でもう一つ論じるべきテーマがある。それは快や嫌悪と記憶との関連だ。

このテーマでは以前このようなことを書いた。私たちは例えば10万円の入った札入れをある日どこかになくしてしまう。ほぼ出てくる見込みはない。そして心の中で叫ぶ。「アイター」。これは明らかな嫌悪刺激と言えるだろう。あなたは体にどこか痛みを覚えたわけでもないが、苦痛を体験する。ところが不思議なことに、「10万円失った!」という事を再び思い出したとき、確実にその痛みはより小さく体験されるはずだ。喪失に慣れてくる!そして思い出すごとに衝撃は小さくなっていく。これはなぜだろう?

そして同様のことは、逆に10万円拾った、という時も同様である。体のどこにも(口の中にも、指先にも)生理的な心地よさの刺激は感じていないが、心地よいことは確かだ。しかしこちらも時間が経つと以前のような感激は薄れる。快に慣れていくわけだ。この二つの現象に関係はあるのだろうか。

そもそも10万円自体は単なる紙切れだ。それ自身は心地よさや嫌悪刺激を与えてくれない。でも将来の具体的な快感(おいしいものを食べる、など)や苦痛(お金がないために必要な食料が買えない、など)を約束する。具体的な苦痛や快感を想像して先取りしてくれているという意味で、「先取り報酬」、ないしは「先取り嫌悪」と呼ぶことが出来るだろう。これはそもそもどのようなメカニズムとして理解できるのだろうか。

2021年7月15日木曜日

嫌悪の精神病理 4

 では報酬刺激についてはどうか。それが一定限度内であれば、VTAのドーパミンニューロンが適度に刺激され、人は心地よさを覚える。それは時とともに和らいでいくが、それは自分にとって良い体験となり、また同じような快感を味わってみたくなるだろう。たとえば毎日決まった時間にある心地よさを体験しているとしよう。それは午後のおやつタイムかも知れないし、好きなゲームで過ごすひと時かもしれない。あなたは再び仕事に戻り、明日のその時間を楽しみにしてはいても、そのことをあまり考えないだろう。
 ところが毎日得られる快感が一定限度を超えた場合、報酬系は正常な機能を放棄してしまうだけでなく、私たちに極度の苦痛を与えることになるのだ。例えばヘロインを吸入して著しい快感を初めて味わった時、人は自分の身に何が起きたかわからないだろう。それほど大きな快楽は通常は体験することはないからだ。雲に乗ったような不思議な気分かもしれない。しかしやがてあなたはそれが、単なる心地よさではないことに気が付く。なぜなら何回かヘロインを使用しているうちに、あなたはその時の体験が頭にこびりついて離れなくなるからだ。気が付くと翌日のその時間が待てなくなっている。他のことが考えられなくなっているために、仕事に戻ることが難しくなっている。そうしてさらに不幸なことが起き始めていることを知る。それはヘロインによる快感が過ぎ去った後、不思議な苦しさが訪れるようになることだ。しかも時と共にそれが増していくのである。そしてその苦しさは、次の日に再びヘロインを使用する時まで続くのだ。
 さらにもう一つの問題が起きる。それは同じ量のヘロインで得られる快感は明らかに前回よりは減っている。それは苦しさを一時軽減してくれるだけで、恐らく快感としてすら体験されない。こうして報酬系は最初の甚大な快感をそっくりそのまま苦痛へと変質させてしまうのである。いわば報酬系は私たちに奉仕するどころか、最悪の事態を引き起こし、私たちを裏切るのだ。これはこういって差し支えなければ報酬系という器官は途方もないバグを有している。それは一定以上の快の刺激で、快感どころか災厄をもたらすのだ。そしてその人をおそらく二度と立ち上がれない廃人のようにしてしまうのだ。
 ひとつ疑問がある。報酬系の振る舞いは神がそう設計した結果だろうか。人(実は動物も同じである)は一定以上の快を味わった際にその人を廃人にするべく設計されたものだろうか?それとも自然がそのような快の源泉を想定していなかったのだろうか? たしかに生命体がこのようなバグを有する報酬系を抱えながら生き延びてきたのは、生命体がそのような強烈な報酬刺激に自然界では滅多に出会わなかったからであろう。例えばケシの実からとれる白い汁に含まれるモルヒネの濃度が極めて高かったとしたら、動物の多くはケシ畑を離れられなくなり、食べ物を探したり繁殖をしたりせずにケシの実を齧り続けて廃人(廃物?)になり餓死してしまうだろう。
 すなわち私たちの文明が、自然界ではほとんどありえないような報酬刺激を作ってしまったのがいけないのか?その理由は分からない。ただしこのバグの本体は少しずつ解明されつつある。そしてそれに従い、薬物依存をいかに治療するかについてのヒントも与えられつつあるのだ。

2021年7月14日水曜日

嫌悪の精神病理 3

 報酬系の機能と快、苦痛

 ここで報酬系についてその働きを見てみよう。報酬系は先に述べた中脳の側坐核や中核野の周辺に広がる領域である。そこで特に重要なのが内側前脳束 medial forebrain bundle という部位で、さらに重要なのが、VTA(腹側被蓋野)から側坐核に向かって投射しているドーパミンニューロンである。VTAにはそのドーパミンニューロンの細胞体があり、そこから側坐核に延びる軸索の興奮が快と一致する。私たちが身体的に得られる快、精神的に得られる快がすべて、このMFBにおけるドーパミンニューロンの興奮に関わっているからだ。ただしドーパミンは嫌悪刺激でも放出されることがあり、また嫌悪刺激はアセチルコリンの放出にも関連している。つまり報酬系は快感のみではなく、嫌悪刺激とも深く関係している、極めて複雑なシステムであるということだ。ちなみにVTAから放出されるトーパミンとアセチルコリンの比(D/A比)が問題とされるという(後に詳述する)。いずれにせよ報酬系は報酬刺激にも嫌悪刺激にも深くかかわっていることになる。
 さてこの報酬系は、報酬刺激や嫌悪刺激が中等度な場合は、そこで前者ではドーパミンが放出され、後者ではアセチルコリンが放出され、それが快と苦痛の体験につながる。それは生体に心地よさと苦痛を味わわせ、同時に前者を求めて、後者を回避するという行動を生み出す。それはその生体が生存していくために重要となる。その意味で報酬系は合目的的に働く。
 ここで特に嫌悪刺激について考えよう。例えば私たちが毎日一定の時刻になると頭痛を覚え、それは一時間でおさまるとしよう。あなたはこの一時間を耐えれば通常の生活を営める。つまり痛みの体験は特に後には引かないことになる。しかしこの頭痛がかなり深刻であれば、話は少し違ってくるかもしれない。あなたはその時間が来ることを恐れ、また鎮痛剤を使って痛みを軽減させようとするかもしれない。その際報酬系ではアセチルコリンとともにドーパミンも放出されることはすでに述べた。この際のドーパミンが放出されることも、痛みをいやすことに貢献している可能性がある。また脳内では鎮痛剤に似たような物質が分泌され、みずから痛みを和らげようとすることが知られている。それがいわゆる「内因性オピオイド」であるが、報酬系でいずれにせよ嫌悪刺激については、報酬系は合目的的な機能を果たしていることになる。このように苦痛を体験するときの報酬系は極めて合目的的に働いていることになる。

2021年7月13日火曜日

嫌悪の精神病理 2

 一つ考えられるのは、人類は従来甚大な不快や痛みに常に直面していたからであるという可能性だ。自然や人災がもたらすあらゆる苦痛にさらされ、麻酔も鎮痛薬もない状態で私たちの祖先は耐え忍んだ。一方で人類は強烈な快感を味わうすべを従来は持たなかったのだ。古代人にとって考えられる限りの大きな快楽や享楽としては、せいぜい性的なエクスタシーや飢餓状態に置かれた後の飽食、あるいは特別の機会に限られた飲酒程度だったのであろう。すなわちいかに享楽を求めても、その手段や機会はきわめて限られていた。だから古代人は常に苦痛を回避することに腐心し、いわば快原則は不快原則に従属的にならざるを得なかったのだ。
 ところが近代になり科学技術の高まりとともに生産性が上がり人々の暮らしが豊かになった。そして口当たりの良い食糧品やアルコール飲料は安価でほとんどいくらでも手に入る世の中になった。また純度の高いモルヒネやアンフェタミン、コカイン、大麻成分などを精製できるようになった。これらの薬物は人類がこれまで経験したことのない強烈な快感を体験させてくれる。純度の高い依存物質を、肺からの吸入によりきわめて急速に摂取することによる快感は、オールズとミルナーのネズミがレバーを夢中になって連打した時のような至福の体験に匹敵するだろう。さらに現在の私たちの身の回りにはギャンブルやゲームなどの報酬系を手軽に刺激できるような手段にあふれているのだ。
 ここで問題なのは、私たちはそのような報酬刺激に対してきわめて脆弱であるということである。私たちの脳は、脳はそのような過剰な報酬を安全な形で体験するようには設計されてこなかった。その代わりに脳は過剰な快が結果的に耐え難いほどの嫌悪刺激をもたらすのである。ここに嫌悪の精神病理の核心部分があるのだ。

2021年7月12日月曜日

嫌悪の精神病理 1

  私たちは、生命を維持するうえで極めて重要な原則に従っている。それは快を与えてくれるような報酬を希求し、また不快を起こすような嫌悪刺激を回避する傾向といえる。確かに生命維持にとって必須な食料や安全な環境は、私たちはそれを快と感じて追い求め、生命の維持を危うくするような危険や侵襲は嫌悪刺激として回避される傾向にある。フロイトはこれらを「快原則」と「不快原則」と名付けたことは周知のとおりである。そしてこの原則は精神分析理論を超えて普遍的な妥当性を持つように思われる。
 本稿では特に嫌悪刺激についての精神病理学的な理解を目指すが、現代の脳科学が示すのは快ないし報酬と不快ないし嫌悪は深い関連性を有し、両者を切り離すことができないということである。そしてそこに快が嫌悪の病理につながるようなメカニズムの存在を示唆している。そしてそれが本稿が主として解き明かしたいテーマである。
 嫌悪aversion と報酬 reward の性質を理解するうえで、近年の脳科学的な研究はきわめて重要な手掛かりを与えてくれる。そしてその端緒となったのが1953年のオールズとミルナーによる報酬系の発見であった。彼らはラットの脳に電極を刺し、スイッチとなるレバーを押すことで自己刺激を行わせる実験を行った。そしてたまたまある部位に電極が刺されると、ラットは狂ったように、それこそ食事も忘れてレバーを押し続けることが分かった。それが中脳の腹側被蓋野、側坐核、内側前脳束、中核、視床、視床下部の領域からなる部位で、後に「報酬系」ないしは「快感中枢」と呼ばれるようになった。
 脳のある部位を電気刺激すると著しい快感が得られるという彼らの発見は、当時は大きな議論を呼び起こしたという。興味深いことに当時は、脳の刺激は常に嫌悪を生み出すという考えが支配的であったという(リンデン、p19)。脳のいたるところがいわば「嫌悪中枢」である一方では、報酬系や快感中枢の存在は想定されていなかったということになる。快楽はいわば不快を回避することで間接的に得られるものとしか考えられていなかったのだ。それはどうしてだろうか?

2021年7月11日日曜日

嫌悪 16

オピオイド

 ストレスフルな刺激で、ドーパミンと同様 μ(ミュー)オピオイドの伝達も高まる一方では、慢性的な嫌悪刺激では μ のダウンレギュレーションが起きる。後者については、慢性疼痛などで内因性オピオイドがずっと出続ける結果であるという。ある研究ではそこに κ(カッパ)オピオイド・ダイノルフィン・システムが関与しているということだ。こちらの方は興奮することで μ と違い不快感を生むという。だからこの拮抗物を用いると不快刺激による効果が軽減されるという。
 そこでダイノルフィンは何か。内因性オピオイドの一種で、最近これが脊髄から出て痒みを抑制すると報告されている。ダイノルフィンは κ オピオイド受容体に結合する物質であり、ドーパミンニューロンを抑制するという。だからこれが多くなるとドーパミンを抑制することで抑うつになる。鬱や「学習性の寄る辺なさ learned helplessness」ではこのダイノルフィンが上がるという。だから嫌悪状態を治療するためのターゲットとなっているというのだ。それとは逆に鬱ではμが不活発になっている。ということは両者は拮抗関係にあるということらしい。ということで今度は「μ/κ 比」なるものが問題になるらしい。おいしいものの無茶食いで起きることは、島皮質における β エンドルフィンの低下とμ受容体の結合能の低下であるという。そしてμの拮抗剤であるナロキソンは無茶食いを抑制する。そしてある研究では無茶食いの際には側坐核におけるエンケファリンの遺伝子表現が低下しているという。また無茶食いの逆の拒食症の場合には、β エンドルフィンのレベルが低下しているという。そしてそれが示しているのは、過食や拒食による嫌悪状態では、オピオイド系の失調が考えられるということだ。
 およそあらゆる違法ドラッグは、内因性オピオイドの失調をきたす。コカインやアルコール依存症では、節制によりμ受容体の上向き制御が起きるが、その程度はまさに渇望に比例する。これは薬物を使用することで内因性オピオイドの伝達が低下したことを代償しているのだという。たとえば動物にアルコールを与えると、最初は β エンドルフィンが上がるが、何度もアルコールを与え続けるとそれが下がってくる。
 薬物の使用により、側坐核や関連した線条体の部位にダイノルフィンの活動を誘発する。そしてそれが薬物使用による不快を生むという。オピオイドの作動薬や拮抗薬は「D/Aバランス」に影響を与えることで快感や不快感に関与している。μの作動薬であるモルフィンは側坐核のドーパミンを上昇させてアセチルコリンを減少させるが、μ の拮抗薬であるナロキソンはそれと逆の結果を生み出す。同様に、オピウムの拮抗薬はアルコールによる側坐核のドーパミンの放出を抑制する一方ではアセチルコリンの量を高める。このようなドーパミン系の影響は、報酬状態における腹側被蓋野におけるドーパミン細胞の μ によるGABAの抑制の抑制(つまり脱抑制)によるものである。それとは逆に、中枢のアセチルコリンは線条体へのダイノルフィンの注入により上昇し、μ の急激な刺激により減少する。まとめるならば、急激な嫌悪刺激はオピオイドシステムを活性化させるが、慢性の刺激はダイノルフィンを介して μ を下げ κ を上げるということである。そしてそれが「D/A比」に影響を与えるというわけだ。

2021年7月10日土曜日

嫌悪 15

 アセチルコリン

 アセチルコリンは少し複雑な動きをする。ネズミの足へのショックを与えると、アセチルコリンの量は海馬では増えるが、側坐核では減るという。側坐核でアセチルコリンが増えるという現象は、ゆっくり開始する嫌悪に関係しているらしい。摂食により徐々に放出されるときは、どうやら胃の膨満感に関係しているらしく、それが食事の快感を抑えるそうだ。だからブリミアの様に吐く場合には、報酬だけになるので、むちゃ食いがそれだけ嗜癖になりやすいというわけだ。そうか。という事は昔の貴族は吐き出すことでいくらでも食を楽しめたわけだ。

 一般に側坐核でのアセチルコリンの増加は、摂食を抑制するというデータは得られている。そして食欲を抑制する薬も側坐核のアセチルコリンを増加させることで効果を発揮するという。という事は「もうお腹いっぱい!」という時におこっているのは、報酬系におけるアセチルコリンの放出なわけだ。それに関して重要だが、かなりあいまいさを含んだ記述がある。「摂食と同時に塩化リチウムにより吐き気を催させると、側坐核のアセチルコリンが増えてその味が嫌悪刺激になってしまう。だから食べ物は状況次第で側坐核にドーパミンを出させたり、アセチルコリンを出させたりして、好きになるか、嫌いになるかを決定してしまうという。」また側坐核にアセチルコリンを増やすような薬は、薬物中毒の治療にも使われるという。そしてどうやらここで重要なのは、アセチルコリンやドーパミンの絶対量ではなく、両者の比が決め手ではないかという事になる。これが例の「D/A比」の話につながる。
 側坐核にアセチルコリンを増やすような薬は、薬物中毒の治療になる。ヤクをやりたいという気持ちを低めるからだ。ナロキソン、すなわちオピオイド遮断物質は、側坐核でドーパミンを減らすこととアセチルコリンを増やすことを同時に行うという。アルコールやニコチン離脱でもこのような状態が起きる。そして次の記述が面白い。「急にニコチンやコカインを与えると、アセチルコリンが上昇するが、それよりもっと大きな上昇がドーパミンでみられる。」結局「D/A比」が大きくなるので快感を生むのである。
 抑うつ状態ではおそらくアセチルコリンの量は高いままでドーパミンが減少し、この比が小さくなるらしい。抗うつ剤はこのアセチルコリンの値を減らすという効果があるらしい。そしてセロトニン1A受容体を介する薬はこの効果を生み出すという。

 

2021年7月9日金曜日

嫌悪 14

 ドーパミン

 まず側坐核(NAc)や線条体、内側前頭皮質でドーパミンが放出されることが快感に結びつく、という事はよく知られている。ところが、中脳辺縁系でのドーパミンは、不快を回避する行動にも関わっているという。なになに?
 これはCabibらの実験と符合するという。ネズミは不快刺激から逃れた時にはドーパミンが放出されるが、逃れられない状態ではむしろ放出されなくなるという。

この急性の嫌悪刺激を逃れる時にはドーパミンが出るというのはわかる気がする。だって嫌悪刺激を逃れることは、やはり快感であろうはずだからだ。あるいは嫌悪を和らげるためにドーパミンを出しているとも考えられないか。なぜなら論文の別の個所では、急激な痛みはそれ自身がドーパミンの値を高めるとも書いてあり、ここら辺はその理由が分かっていないらしい。
しかしこれが慢性の嫌悪刺激になると、話が違ってくる。というのもその場合にはドーパミンは低下するといっているからだ。線維筋痛症の患者は、急な痛み刺激に対してあまりドーパミンは増えないという。しかしそれでも痛みの感覚は正常人より大きい。そこでこんな仮説があるという。
 急な嫌悪刺激によりドーパミンが上がるのは、それにより痛みを抑えようとしているからだ。つまり報酬とドーパミンの関係は確かなものであり、嫌悪刺激はそれに耐えられるように反応性にドーパミンが放出されるというのがこの仮説である。3ページ、下段)

 さてここでどうして肥満やむちゃ食いが慢性の嫌悪状態と関係あるのかについても書いてある。要するに砂糖を繰り返し与えるとドーパミンが繰り返し分泌されて、ダウンレギュレーションが起こり、ドーパミンの放出量が落ちてしまうというのだ。という事は肥満の人はそれだけ不幸という事か? いやいや、ネズミの実験ではそうなったというだけのことである。
 その次に書かれていることも同様だ。急性の嫌悪でドーパミンは出る。ところが飢餓などではドーパミンシステムがダウンレギュレーションを起こす。なぜなら脳内オピオイドが出されて、それにより何度もドーパミンが放出されるからだという。結局快でも不快でもドーパミンが出されて、結局ドーパミン放出が鈍化するというシステムになっているのだ。

2021年7月8日木曜日

嫌悪 13

 結局嫌悪についてあれこれ書いているうちに、本当は一番やらなければならないことを避けずに、受け入れることにした。地道に文献を読むことである。幸いネットでダウンロードできる素晴らしい論文を発見。「嫌悪状態aversive state の神経生物学」Umberg, EN, & Pothos, EN.2011Neurobiology of Aversive States. Physiol Behav. 25: 69–75.
 ちょっと読んだだけでも知らないことばかりである。この世界では、Bart Hoebel らの研究が先駆的だったらしく、その解説がなされている。彼らの研究は報酬系についてのものだが、実は嫌悪状態aversive states の問題も深く関与しているので、こちらの方の説明を主にしたいと書かれている。そこでは報酬と嫌悪は必ずしも両極ではなく、環境からの刺激によっては、両者は連続体をなすという。<本当だろうか。私はこれまで快のスイッチと不快のスイッチは別だ、と主張してきた。そうでないと「イタキモチいい」状態を説明できないからだ。しかしここに書かれていることはその考えへの再考を迫られる可能性があるという事だ。> そこでキーとなるのが、報酬系における伝達物質であるドーパミンの活動とアセチルコリンの活動の比(ドーパミン/アセチルコリン比)であるという。一応D/A比」という書き方をしておこう。そして嫌悪は、この「D/A比」の高まりに関係しているという事、そして脳内オピオイドは、この二つの伝達物質の関係に関与するのだという。<こんな基礎的なことを全く知らなかった。しかしここでも私の見解と一致する可能性が残される。つまり報酬系のスイッチ自体がプラス要素とマイナス要素の混合体であるという事だ。つまりスイッチを正方向に押す力と逆方向に押す力があるという事である。>

 ところでこの論文のありがたいことは、嫌悪aversion は報酬reward の対概念だ、と言ってくれていることだ。だから嫌悪についてのこの論文は報酬の逆の概念であるとして進めることが出来ることになる。ところで嫌悪の研究は、その定義があいまいなので、報酬に比べて研究が少ないとも書いてある。これも使えそうだ。
 ネズミを対象にした研究は多くなされ、閉じ込めたり、尻尾にショックを与えるなどの刺激を与える。またオピオイドを与えてその後の離脱を体験させる(これが苦しいのだ)などの方法も用いるらしい。そしてその鳴き声の周波数がその嫌悪の表現として用いられるらしい。<これって、かなり残酷な話である。>Hoebel先生たちは電気ショックを与えてネズミの様子を観察したが、興味深いのは視床下部hypothalamus への電気刺激もよく用いられるが、外側視床下部は報酬を与え、内側になるに従い、嫌悪刺激になるということだ。さらに食事を与えないという事で、慢性的な嫌悪と報酬を求める傾向の両方を調べることになる。
 さてここらへんで私が分からなくなるのが、急性の嫌悪と慢性の嫌悪の差である。この違いが重要な意味を持つらしい。そんなに重要な事かいな、と思うのだが、よく出てくるのだ。そこでゆっくりと勉強してみたい。
 時々与えられる嫌悪刺激に対しては、動物はその都度回復する。しかし繰り返されると別の状態になる。それが「慢性的な嫌悪」の状態というわけだ。まあそれはいいのだが、その例として出来るのがよく分からない。
 慢性的な食事制限。これはわかる。薬物からの離脱、抑うつ、慢性疼痛、これらもわかる。しかし肥満obesity 、ブリミア、もそうであるというのがよく分からない。どうして肥満と過食が慢性的な嫌悪状態なのだろうか。ともかくもこれらは中枢のモノアミンの失調 central monoamine aberration が起きている、としてそれが以下に説明されるという。よく分からないながらも、鬱の状態と肥満、ブリミアの状態は神経科学的には類似しているという事らしい。まあそう理解して進めよう。

2021年7月7日水曜日

コロナ禍と心理臨床 (1K)

 コロナ禍における臨床を余儀なくされるようになってから久しい。すでに昨年のこの事例研究の巻頭言において、西見奈子准教授は書いている。「今年がこのような年になるとは、だれが予想したであろうか?」そしてその予想しなかった状態は、一年経った今も継続しているのだ。この春から始まったワクチン接種が今後普及することにより将来に多少の明かりは見えているのかもしれない。しかしこの災厄の終息の目途はいまだに立っていないのだ。この間に私たちの心理臨床のあり方も様変わりしている。一年以上もこれまでのような対面のセッションを持つことができていないケースもあるかもしれない。
 このように新型コロナの蔓延は間違いなく私たちにとっての試練となっているが、試練は私たちから様々なものを奪うばかりではなく、新たな体験の機会も与えている。コロナの影響下にある私たちがどのように臨床を継続できるのか、どのように継続していくべきかという問題は、おそらく世界中のセラピストたちがこの一年半の間に直面し、そこから大きな学びの体験をも与えているはずだ。その結果としてセラピストの多くはそれぞれが創意工夫のもとに対応を行っているのである。
 一つ私たちの日常臨床を変えたのが、電話、ないしオンラインによるセラピーのさらなる活用である。ソーシャルディスタンシングの重要性が強調される中で、セラピストとクライエントが面接室という密室の空間を共有することは、それ自体が感染のリスクを高めるのではないか、という懸念は、このコロナ禍が始まって当初に私たちが持ったものである。昨年4月に初めて七都道府県に緊急事態宣言が出された折は、対面による面接を全面的に中止した相談室も多かったであろう。すると残された手段は電話ないしオンラインということになる。そして当面はセッションを持たないよりは電話やオンラインという代替手段を用いることを検討し、また実行したセラピストも多い。その機会に私たちの多くは改めてオンラインによるセッションの持つ意味を考え直すことになったはずだ。
 私たちの多くはそのような機会に、実はコロナ禍の始まる前から、オンラインを治療の主要な手段として用いる試みが始まっていたことを知ったのではないか。よく挙げられる例として、2000年代の初めから、中国とアメリカの間でもっぱらオンラインによるトレーニングを行っている団体がある。CAPAThe China American Psychoanalytic Alliance,米中精神分析同盟)という組織で、2001年にエリーズ・スナイダー Elise Snyderというアメリカの分析家が中国の北京と成都に招かれたのが始まりであるという。その後米国と中国の関係者が協定を結び、それに北京と西安のメンバーが加わった。その後成都の分析家たちがアメリカの分析家たちに、オンラインでのトレーニングを申し入れ、コロンビア分析協会のDr.Ubaldo Leli がそれを受け入れ、事実上CAPAが始動したことになる。2008年には2年のコースが作られ、現在では400人の生徒と卒業生がCICCAPA IN CHINA)という団体を構成しているという。(http://www.capachina.org.cn/capa-in-china より。)

 私自身が一つ学んだのは、ZOOMskypeなどによるオンラインの体験であり、実際に人と対面した時の存在感 (presence、プレセンス)とオンラインでのお互いの存在感(telepresence,テレプレゼンス)違いである。オンラインでは同じ地理的な空間を共有していないにもかかわらず、傍にいるように感じるという矛盾した体験が可能になる。それはこれまで慣れ親しんでいた対面でのセッションに置き換わる手段となりうるのだろうか? それとも結局はそれの出来損ないの代替物poor substitute に過ぎないのだろうか?
 もちろん対面に勝るものはないと考えるクライエントがいて当然である。しかし複雑なのは、ZOOMの方がより抵抗なくセラピストと出会える、という一部のクライエントの存在である。そしてセラピストもオンラインにより新たな自由度を獲得したと感じる場合があるかもしれない。その場合はコロナ禍が去った後もオンラインを継続するべきなのだろうか?それともそれはより生きた接触を互いに回避するためのセラピストとクライエントの共謀を意味するのだろうか?
 以上の問いにはおそらく正解はないのであろうが、考えあぐねた末に私自身が至った結論は、対面による存在感プレゼンズ、すなわち対面による存在感と、テレプレゼンス、すなわちオンラインによる存在感は別物であるということだ。それらはどちらが優れているという問題ではなく、互いに異なり、それぞれの長所と短所を持っているということである。そしておそらくどちらを今後選ぶかはセラピストとクライエントが様々な要素を勘案して一緒に決めることである。その中には、時間的、経済的な利点も当然含まれるであろう。
 一つ言えることは、私たちは今後このようなパンデミックに見舞われても、少なくとも出来損ないのバックアップは手にしていることであり、私はこの文明の利器に感謝すべきではないかと思う。

2021年7月6日火曜日

パーソナルセラピー 5

  私は以上のプロセスを「取り入れのプロセス」として描いたが、それはあなたがおおむねその教育機関での方針を受け入れ、実際に取り込んでマッサージ師になっていくだろうからだ。しかし次に論じる「離脱のプロセス」はこの「取入れのプロセス」においてはすでに静かに始まっていた可能性がある。 先ほどすでに述べたことだが、あなたは教育マッサージを受けつつ、その上級者のマッサージのやり方をそのまま受け入れ、受け身的にその施術を受け続けるとは限らない。というのも時々その上級マッサージ師とのすれ違いが、より頻繁に起きるかもしれないからだ。「そこ、もっと力を入れてやってくれませんか?」とあなたは要求するかもしれない。すると上級マッサージ師は「わかりました。ではそうしてみましょう」と言うかもしれないが、「いや、ここはこのくらいがいいんですよ。私の経験上そうなんだから」と言うかもしれない。また教育マッサージ師が次のように言ったとき、あなたの反応は込み入ったものになるだろう。「今は少し痛いかもしれませんが、きっと後で効いてきますよ。」「本当は気持ちいいはずですよ。あなた自身がそれに気が付かないだけです。」何しろあなたはそれを受けている張本人であるから、「どうしてあなたに私の気持ちがわかるの?」と疑問に思ってもおかしくない。(以下略)

2021年7月5日月曜日

パーソナルセラピー 4

 従来教育分析には、教育する、という意味と治療するという意味が両方含まれていた。実際に自分自身がある意味では実験台になって、上級者にお手本を示してもらえるという意味では、実に分かりやすく効率の良い学び方と言える。人によってはこれこそが究極の学び方と考えるであろう。

精神分析には、一つとても興味深い慣習がある。それは教育分析を受けた被分析者は、その分析家の学派に属するようになることが多い、というものである。もちろん例外はたくさんあろうが、私たちはそのような形である高名な分析家が後継者を育てていくことをあまり疑問に思わない。それだけそのような例を私たちはたくさん知っているのである。

例えばフロイトに分析を受けた(ただしそのことはあまり公にはされなかったが)アンナ・フロイトは、フロイトの死後は彼の精神分析理論の守護神のようになったことはよく知られる。あるいはメラニー・クラインに分析を受けたハンナ・シーガルやジョアン・リビエールは当然クライン派になるし、ウィニコットに受けたマスッド・カーンはウィニコッチアンと目される。フェレンチに教育分析を受けたバリントはフェレンチアンである。コフートに分析を受けた人たちでコフート派にならなかった人は例外的であろう。

2021年7月4日日曜日

嫌悪 12

 少しずつ嫌悪についても見えてきたような、そうでもないような。こんなことが起きているらしい。まずゲーッとなる際に扁桃核は重要な意味を持つ。蛇でそうなるとすれば、蛇細胞が扁桃核にできている。蛇を目の前にして、扁桃核の蛇細胞が「ゲーッ」という反応を起こしてアラームを鳴らす。すると脳のいろいろな部位が反応する。快感のように一か所ではない。おそらく嫌悪反応は、生命体にあまりに重要なために、脳全体が反応するようにできているのだろう。その意味で「嫌悪中枢」というのは考えにくいのだろう。そして脳の様々な部位のうち手綱核と前帯状皮質、脳下垂体なども関与していることが研究の結果わかってきた。そしてこの嫌悪反応には一種の記憶のようなものが関与している。一度嫌悪刺激があると、それが重なることを記憶している部位があり、前帯状皮質などはその蓄積を行動に反映させているわけだ。でも「だから?」という感じ。脳の嫌悪系の仕組みの全体像を知りたくても、ジクソーパズルのピースがいくつか見つかっただけで、依然としてその全体像は見えてこないという印象を持つ。

もっとほかの研究はないかな、と探しているうちに、報酬系の研究も見つけた。

「私たちの行動や運動における“やる気”は、予測されうる報酬の量により、強く影響を受けます。しかし、これまでの研究では、脳のどの部位が報酬の量を予測して、行動・運動に結びつけるのか、よく分かっていませんでした。自然科学研究機構生理学研究所の橘 吉寿助教は、米国NIH(国立衛生研究所)の彦坂 興秀博士と共同で、サルを用いた研究によって、大脳基底核の一部である腹側淡蒼球と呼ばれる部位が、この過程に強く関わることを明らかにしました。米国神経科学誌NEURON(11月21日号電子版)に掲載されます。」 

 つまり淡蒼球という部位は、サルがやる気を出すとより強く興奮するという研究。「淡蒼球はやる気スイッチだ」という話の意味が少しわかった気がする。大脳基底核は系統発達的にかなり古い部位だ、ということは同様のシステムは進化の過程でかなり早くから備わっていたということであろう。

この所見は、いわゆる快の先取りの問題に関係しているだろう。私たちは将来得られる快の大きさを前もって査定する。その大きさに従って行動を決める。ABの両方の選択肢が快を保証してくれるとしても、Aの方が大きければ、そちらの方を選ぶような行動を起こすだろう。そのようなシステムが脳の古い部位に備わっているということか。すると当然ながら嫌悪に関しても、それを予想してより強く回避するようなシステムが存在していることになるだろう。それはこの淡蒼球とは違う部位なのだろうか? うーん、結局謎が深まるばかりだ。

 

2021年7月3日土曜日

コロナと心理臨床(3k) 2

  コロナ禍が始まってからすでに一年半が経過している。ワクチン接種の普及により将来に明かりは見えているものの、いまだに終息の目途は立っていない。その間に私たちの心理臨床のあり方も様変わりしているあれから一年以上、これまでのような対面のセッションを持つことができていないケースもあるかもしれない。新型コロナの蔓延は間違いなく私たちにとっての試練となっているが、試練は私たちから学びの機会を奪うだけではない。新たな体験の機会も与える。コロナの影響下にある私たちがどのように臨床を継続できるのか、どのように継続すべきかという問題は、おそらく世界中のセラピストたちがこの一年半の間に直面し、そこから大きな学びの体験をも与えているはずだ。その結果としてセラピストの多くは何らかの対処を迫られ、それぞれが創意工夫のもとに対応を行っている。

一つ私たちの日常臨床を変えたのが、電話、ないしオンラインによるセラピーである。ソーシャルディスタンシングの重要性が強調される中で、面接室という密室の中でセラピストとクライエントが面接を行うことは、それ自体が感染のリスクを高めるのではないかというのは、私たちがこのコロナ禍が始まって当初はまず考えたことである。昨年4月に初めて緊急事態宣言が出された折は、対面による面接を全面的に中止した相談室も多かったであろう。すると残された手段は電話ないしオンラインということになる。対面による面接がしばらくは安定して継続的に行えない可能性に直面した私たちの多くは、当面はセッションを持たないよりは電話やオンラインという代替手段を用いることを検討し、また実行することとなった。そして改めてオンラインの持つ意味を考え直す機会を得ることとなった。
 そのような私たちの中には、コロナ禍の始まる前から、オンラインを治療の一つの手段として用いる試みが始まっていたことを知ったのではないか。よく知られる試みとして、2000年代の初めから、中国とアメリカの間でもっぱらオンラインによるトレーニングを行っている団体がある。その名前はCAPAThe China American Psychoanalytic Alliance)米中精神分析同盟?という。
 2001年にエリーズ・スナイダー Elise Snyderというアメリカの分析家が北京と成都に招かれたのが始まりであるという。その後米国と中国の関係者が協定を結び、それには北京と西安のメンバーが加わった。その後成都の分析家たちがアメリカの分析家たちに、スカイプでのトレーニングを申し入れ、コロンビア分析協会のDr. Ubaldo Leli という人がそれを受け入れて、事実上のCAPAが始まったという。2008年には2年のコースが作られた。現在では400人の生徒と卒業生がCIC (キャパチャイナ CAPAINCHINA)という団体を構成しているという。

2021年7月2日金曜日

コロナと心理臨床(3K) 1

 ある事情で「コロナと心理臨床」について書く必要が生じた。トホホ。3000くらいを目指すことになりそうだ。

コロナと心理臨床

コロナ禍での臨床が始まって久しい。もう一年これまでのような以上対面のセッションを持つことができていないケースもあるかもしれない。新型コロナの蔓延は間違いなく私たちにとっての試練となっているが、試練は私たちから学びの機会を奪うだけではない。新たな体験の機会も与える。コロナの影響下にある私たちがどのように臨床を継続できるのか、どのように継続すべきかという問題は、おそらく世界中のセラピストたちがこの一年半の間に直面し、そこから大きな学びの体験をも与えているはずだ。

私自身が一つ学んだのは、ZOOMskypeを通した体験であり、実際に人と対面した時の存在感presence、プレセンス) とオンラインでのお互いの存在感telepresence,テレプレゼンス)違いである。 一緒にいないのに傍にいるという矛盾した体験がオンラインでは可能になる。というよりはそれを余儀なくされる。それはこれまで慣れ親しんでいた対面でのセッションの代替手段となりうるのだろうか?もちろん対面に勝るものはないと考えるクライエントもいるだろう。しかし厄介なのは、ZOOMの方が抵抗なくセッションを持つことができる、という一部のクライエントの存在である。ZOOMに慣れてしまうのはよくないことだろうか?このままにしてはいけないのか?という気持ちを一抹の後ろめたさとともに感じるクライエントも、いやそれだけでなくセラピストもいるのではないか。

いろいろ考えあぐねて私自身が得た結論は、プレゼンスとテレプレゼンスは別物であるということだ。それらはどちらが優れているという問題ではなく、互いに異なり、それぞれの長所と短所を持っているということである。そしておそらくどちらを今後選ぶかはセラピストとクライエントが一緒になって決めることである。そしてその中には、時間的、経済的な点を考慮してオンラインを問題はあるが我慢できる代替手段として選ぶケースもあれば、オンラインの独特の気楽さ(?)のために率先してそれを選ぶケースもあるということである。
 一つ言えることは、私たちは今後このようなパンデミックに見舞われても、少なくとも出来損ないのバックアップは手にしていることであり、私はこの文明の利器に感謝すべきではないかと思う。

ここまでで0.9Kである。


2021年7月1日木曜日

パーソナルセラピー 3

  ちなみに私はちょうどこのテーマについて、かつて発表したことがある。それは2018年の分析学会で、「精神分析をどのように学び、学びほぐしたか?」というテーマで発表し、その後原稿化したものである。そこで書いたことを復習しよう。以下はその発表の内容である。
 私はかつてあるセミナーで、患者からのメールにこたえるかどうか、という話題が持ち上がった。そのセミナーは複数の講師が担当していたが、先生によりその問いに対する答えが異なっていた。そのセミナーでは私が答えるべしと言って、別の先生が答えるべきでないと言ったのか、その逆だったかはわからない。しかしそれを聞いていた聴衆の方から苦情があった。講師が違うことを言っているので混乱をしたという苦情があった。
 私はこの苦情を聞いた時一瞬「しまった、受講生を混乱させてしまった」と焦った気持ちを、別の自分が突っ込みを入れているのを感じた。「ホラ、こここそ皆さんに学ぶという事の意味を伝えるときじゃないか。」と。そこで私はこの苦情について、次のような言い方をした。
 「異なる先生が違うことを言うというのは日常茶飯事です。臨床の場でも起きることです。そして異なる専門家が違う意見を言うという事は、そこに正解はないという事を表している。これからのみなさんの課題は、どちらの言い分がすんなり来るかを判断し、ご自分で判断することです。もちろんどちらに決めなくてもいい場合も少なくありません。意見が分かれるのはほとんどがケースバイケースのことですから。」
 そしてこのプロセスが「学びほぐし」と言われるものだと思う。ちなみに似ている概念として、フロイトの学習 learning と事後学習 after-learning という区別があり、少し関連性がある。ともかくも精神療法家になるために必要なのは、この学びほぐしの典型的なものなのだ。学びほぐしという言葉は、哲学者である故鶴見俊輔さんがかつて作った言葉である。ヘレンケラーが沢山学んでは learn 脱学習した unlearn と言ったのを聞いて、即座に「学びほぐし」という言葉が浮かんだのだという。ちょうど編まれたセーターの毛糸をほぐして自分自身のセーターを編む、というニュアンスをそこに込めたようだ。

そもそも物事を学ぶという事はいくつかの「ABである」とか「●●はしてはならない」などの決まり事を頭に叩き込むプロセスと言える。しかしそれを深く学んでいくうちに、「ABであるという教えはこのような根拠から生まれたのだ」とか「●●はしてはならない」とはあのような意味が込められていたのだ、と知ることで、逆にでも「ABではないこともあるよね」とか「●●はしていい場合もあるよね」という考えが生まれ、これらの決まりごとが常に正しいわけではないことが分かる。そこから先は自分にとっての決まり事を作っていくというプロセスに入っていくべきであり、それがこの学びほぐしだと言える。
 ではそもそもどうして学びほぐしが必要かと言えば、ある理論はそれを作った人の思い付きや気まぐれがかなりの部分を占めているからだ。ここではとくに精神分析を考えよう。
フロイトの理論には素晴らしい概念や発想と、それほどでもなかったり明らかにフロイトの気まぐれではないかというものもある。フロイトは天才だったが、天才はいくつもの真実を発見するだけではない。いくつものミスショットもあるのだ。霊能力者と言われる人たちでも、その発想や直感のいくつかは真実であってもその他の多くが誤っているのと同じである。そしてフロイトの理論の中にも、無意識や転移や抵抗と言った優れた概念もあれば、リビドー論、死の本能などのように構成の分析家にあまり受けなかった概念もある。そしてその中間にある多くの概念がケースバイケースとしか言えないものもある。フロイトが治療原則として掲げた、匿名性とか禁欲原則、受け身性などもいずれも相対的なものであるとギャバード先生が喝破している。だからフロイト理論を学ぶことは、必然的にその理論のどれを自分のものとするかにおいての取捨選択がどうしても必要になるのである。
さて学びほぐしは、師弟関係でも、バイザーバージ―関係でも起きる。フロイト全集を何度も読んでまずは学び、それを学びほぐしていくことはできるが、多くの場合私たちは誰かから何かを学ぶ。そしてその学んだものをほぐしていく過程で、師とのバトルは当然生じてくるものなのである。