ラベル 快楽原則 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 快楽原則 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年1月6日木曜日

快楽の条件 その9  行動の完結そのものに快感がある

もし私が食事を開始したら、よほど途中で満腹になったり食欲を失ったりしない限りはそれを終わらすことに専念するだろう。また映画館に入り始めた映画鑑賞を、残り5分を残して中断して出てきてしまう人も珍しい。また何らかの文脈で自分の名前を書き始めて、途中でやめるということなどあるだろうか? 皿に盛られた食品を全て食べないと必要なカロリーを摂取できないから、映画の最後のシーンに秘密を解く鍵が隠されているから、書きかけの署名は用をなさないから、という理由以上に、私たちはものを完結させたいという欲求から、それらを最後までやり通す。完結それ自体が快楽的だからだ。だから私たちはあまり面白くない仕事でも、やり始めたら最期まで続けるのである。やり始めるまでは散々迷っても、いったん始めたとしたら、それを完結したいという欲求が突然増すとしか言いようがない。 ゲシュタルト心理学は、このような人間の性質に注目した学問であるといえよう。全体としてまとまったものがドイツ語でいうゲシュタルト(Gestalt)だが、それを試行するという人間の脳の性質に注目した心理学がこのゲシュタルト心理学である。
さてこれと深く関係しているのが、解離理論における「離散行動モデル」であると私は考える。人はどうして異なる自己状態を有する傾向にあるのか?どうしてスイッチングを起こすのか。それは行動がひとつの完結を見ることで次に移るような間隙が生まれるからであろう。ということで続きはあす。

2010年11月23日火曜日

快楽の条件 8. おそらく最も理想的な快楽としての「創作」

私の患者さんに非常に、手先の器用な男性Aさんがいた。某有名時計会社で、長年修理技師をしていたAさんは、引退したのちも年金暮らしをしながら仕事をもらい、持ち込まれた時計のうち、在職中の技師が治すことのできない難物をただで自宅で修理し、若い技術者を驚かせながら時間を過ごした。しかし不幸なことに時計のデジタル化とともに仕事がなくなり、彼の楽しい日々は去り、その後は空虚な日々を過ごすことになり、うつ病を発症してしまった。
Aさんの不幸なところは、時計を直すという、彼にとっては非常に楽しい作業が、その注文がなくなるという外的な条件に翻弄されてしまったことである。もし作業が誰に左右されることもないものであり、それに熱中できるのであれば、そしてそれにより生計を立てることができるなら、これほど幸せなことはないであろう。その一つは創作である。仕事として創作にかかわることのできる人生は、人間が人生を持続的に燃焼させ、最も快楽的に送ることのできる人生といえる。
もちろん創作にかかわり続けることで人生を終えることはできない場合が多い。創作した者はたいがい金にならない。創作するのには、材料に金がかかるかもしれない。(指輪職人、などという例を考えればいいだろうか?)創作したものを置く場所がないということもある(捨てられた割りばしをもらてきて束ねて固めて、それを削って創作をするおじさんをテレビで見たことがある。「作品」はもちろん飛ぶように売れる、ということはなく、もらってくれる人の数も限られているだろう。「作品」に埋まっていく部屋に複雑な表情の奥さんの顔が忘れられない。)創作するためには体が動かなくてはならない(石像作りを創作する人は、材料費はあまりかからないだろうが、ハンマーを握れなくなったらおしまいだ)。ユーミンのように出せばヒットするようなCDを気長に作り続けるような人生は、だから最高といえるのだ。

実はひそかな私の趣味は「本づくり」だが、これは実はすごい追い風が吹いている。書いたものが原稿用紙の束として置き場所を求める時代は過ぎた。電子化すればよい。鉛筆やペンを握る力がなくなっても、キーが打てれば大丈夫だ。そうして書いた駄作を出版してくれるような出版社を探す努力も、これからはあまり要らないかもしれない。ただの自費出版である「E出版」がある。実に恐ろしいことだ。半身不随になっても、寝たきりになっても、パソコン(スマートフォン?)さえあればこの趣味を続けることができる。
ところでネットを散歩していたら、この上なく幸せな人を見つけた。創作の材料は何と鉛筆。カッターナイフや縫い針が材料。作品が場所をとることは決してない。それは鉛筆の先の大きさにすぎないからだ。そしてその作品の素晴らしいこと。

ブラジル出身の米国在住のダルトン・ゲッティDalton Ghettiさんのことをご存じだろうか?本業は大工であるという彼はこの作業を、一説では裸眼で行うというのだ。私が一番感心したのは、上の「のこ切り」。私は彼はこの世で一番幸せな人の一人ではないかと思う。題材は無限。材料はタダ。使う体力はわずか。後は気力と忍耐力、そして創造性だけで人生を楽しむことができる。
彼のため息が出るような作品をいくつか。(http://kronikle.kidrobot.com/pencil-tip-micro-sculptures-by-dalton-ghetti/より)






2010年10月30日土曜日

快楽の条件 5-1. 人から与え続けられる恩恵は時とともに快楽的要素のほとんどを失う

大型の台風14号が今関東地方を直撃しつつある。10月の台風が列島を襲うのは珍しいそうだ。こういう日は私の妄想が膨らむ。「決して雨が降らない、そして決して寒すぎることのないところで暮らしたい。」そしてこれは案外簡単に「引きこもり願望」へと繋がる気がする。

さて今日のテーマ。これは快楽の条件 5. 「自分が持っているものは、もはや快楽的ではない」の補遺のようなものだ。
これが典型的な形で見られるのは、やはりなんといっても親子の関係だろう。親は成人した子に、自立するまでは生活費を援助するのが普通だ。子はそれを当然のものとし、特に恩に感じることもない(ように見うけられる)ことがしばしばである。不幸なのは、恩を与えている側がそれを自分の当然なすべきことと割り切っているうちはいいが、時には「どうして感謝されるべきことをしていて、当たり前と思われるのだろう? 電話一つよこさないとはケシカラン!」となる場合だ。しかし5-1で、人はそもそも快楽を体験する上で、そのような性質を持つ、という提言を行っている通り、それが人間の心に備わった性質である限り、これは致し方ないことなのだ。子どもをけしからんと怒っている親だって、実は自分の親に対して多かれすくなかれ似たような忘恩行為をしているものである。(ヒエー、私のことだ!)
もちろん5-1は親子関係に限らない。配偶者の一方が他方に与える恩恵も、国家が国民に与える恩恵も同じである。ただ親子関係が一番例としてわかりやすいのだ。
この5-1の恐ろしい点は、恩恵を与える側は、感謝されないだけでなく、その恩恵を与えることを中止した際には明白な怒りや恨みを向けられるということである。
このような現象が起きる原因は、快楽の条件5に示した通りだ。自分がすでに得たものは快楽ではない。快楽とは、自分の持っているものの、時間微分値がプラスの場合である。得たときにしか心地よくない。
さて恩恵を与えていた側が恨みを買うといった不幸が生じないためには、彼が感謝を一切期待しないという覚悟をするしかない。あるいはその恩恵を与える行為を一切止めてしまうことだ。マア、当たり前といわれればそれまでだが。
大体援助を継続している側は、たいてい一度は援助を止めてしまいたいと考えるものだ。しかしそれはなかなか出来ないことである。それはそうすることへの後ろめたさ、あるいは恩恵を受ける側からの恨みの大きさへの恐れからである。それほど援助される側の「当たり前感」は大きいのだ。ただしそれを思い切って行ったとしても、それは本人が思ったほどには、極悪非道のことには思えない。そう、援助する側が勝手にうらまれることを恐れているに過ぎない。
ただし親子の関係には、もう一つ深層があると思う。それは出生をめぐる親の後ろめたさ、あるいは負債の感覚だ。生まれたばかりの子どもを胸に抱いた親は、その子が独り立ちするまで面倒を見ることは当然だと思うだろう。それは一方的に(まさにそうである)断りもなく(これもその通り)この世に送り出した親としては当然のことと思うだろう。
親は身勝手な行為の結果として子を世に送る。その時点で子供にまったく罪はない。すると子に降りかかるすべての不幸は、親の責任ということになる。これは考え出すと実に恐ろしいことだ。そうやって人類は生命を受け継いできたのだ、実は自分自身も親の勝手な行為の結果だ、ということを忘れても、この感覚を持ち続ける親は多いように思う。特に日本の親についてそれはいえるのだ。

2010年10月20日水曜日

快楽の条件 7. 反復は基本的には快楽である

明日からは学会である。私にとってはかなり非日常の3日間となる。

これまで明示したことはなかったが、これまで繰り返されてきた刺激は、それだけでも快感の源泉になる。特に今現在も繰り返されている、という点がポイントである。住み慣れたうちの使い慣れたベッドと枕の感触。それがことさら不快感を生む原因が生じたというのでなければ、基本的には快感につながる。
それを示すような日常的な例。決まったパターンを何らかの形で破る必要が生じた場合に、不本意ながら用いた代替物に慣れてしまうと、「どうしてあんなものを毎日続けていたのだろう?」と感じるということがある。私の場合は例えば一時期フォントといえば、HG丸ゴシックM-PRO を用いていた。論文を書くにも、スライドを作るにも、である。使い続けるのは快感だった。でもある時あるフォーマットにあわせる必要があり、仕方なくHG正楷書体-PROを使っていたら、今度はこれにはまってしまっている。ゴシックM-PROを使っていたときの快感は、まさにそれを使っていたから得られていた、ということが出来るのだろう。
似た例としてはスナック。恥ずかしいから書けないが、夕食後に必ず食べていたスナックがあった。もう3年間ほど続けたのだが、一時期それがしばらく手に入らないという時期があった。そこで別のものを食べ始めたのだが、そちらになれると、なぜあんなものを毎日食べていたのかと思う。おんなじ仕組みである。
同じことを続けたいというこのプレッシャーは、実は新奇なもの、というもう一つの種類の快感によりピリオドが打たれ、移り変わっていくというわけだ。そしてもちろん慣れによる不快感ということも起きる。どうして反復による快が、ある場合には不快か、快の逓減を生むのかはよくわからない。反復することの危険性を知らせるための安全装置だろうか?確かに同じものばかり食べていると健康を害しやすいということもあるだろう。この二つの要素があるからこそ、人は同じことを一生繰り返さないで済む。
あのイチローが例の黒いバットを使わなくなるとしたら、余程のことがあるだろうが、ありえないわけではない。極度の打撃不振に陥り、偶然握った白バットでヒットが生まれる。ヒットが続く限りは使ってみよう、と。それからクロバットには見向きもしなくなるかも知れない。
反復の快楽。これがあるから人はこうも変わらないのだ。

2010年9月18日土曜日

快楽の条件 6. 楽しくない愛他性はない

この天気を待っていた。いいねえ。暑くもなく寒くもなく。毎日毎日こんな天気だったらなぁ。
快楽については、このブログでは動因の心理学と題して、最初の頃から扱っている。「快楽原則」とか言うと、やたらと小難しい議論に聞こえるかもしれないが、きわめて日常的な体験をもとに議論しているつもりだ。そのためにいくつかの原則を「快楽の条件」としてあげているのであるが、今日は愛他性に関する誤解について述べておく。
愛他性は、私たちが持つ貴重な属性だ。ある意味では人としての価値は、どれだけ愛他性を発揮できるかということになる。だって、愛他的な人はそれだけ他者の幸せに貢献できるのだから。これほどわかりやすい「人としての価値」の見極め方はないだろう。
ところが多くの人が誤解しているのは、愛他性とは自らを犠牲にして他者に貢献する、という捉え方だ。しかしこれは違う。愛他性とは、他人の快、不快が自分のそれと同期化するような性質だ。ここで間違ってはいけない。他人の快、不快と自分の不快、快が、ではない。これじゃ逆だ。これだと羨望が強い、あるいは極端な自己愛をもった人間ということになってしまう。でもこういう人も結構いるんだなぁ。
他人の快、不快が自分のそれと同期化するというのは、本当に幸せな性格である。楽しみつつ人を幸せに出来るのだから。表題にあるように、楽しくない愛他性はあってはならないのだ。
私たちは普通は愛他性を病理としては捉えない。愛他性は自我心理学的には「最も成熟したレベルの防衛機制」ということになる。ある種の適応的な性質として考えているのであるから、愛他的な行為が無意味にその人自身を傷つけたり滅ぼしたりしては元も子もない。愛他的な人が愛他的な行為を続けるためには、その人が元気で生きていなくてはならないのである。となると結局その人が「愛他的な行為を楽しむ」という形でしか愛他性は発揮できないのである。それにもしある種の愛他的な行為がその人の身体の損傷とか痛みをともなうとしたら、それさえも快楽的に感じられないと、そのモティベーションは継続できないだろう。するとこれは病的なマゾヒズムということになってしまう。
私たちはリストカット等の例で、自傷行為が快楽的な要素を持ちうることを知っているが、通常はそのような行為に「それにより他者を救う、癒す」という視点は入ってこない。もうその行為に浸ってしまい、他人どころではなくなってしまうのだ。
さて、愛他性は楽しい、という命題についてである。これは愛他性とは愛他的な行為をすることが、そのまま同時に自分にも快楽的になるということだ。子どもを持つ親だとこれはより身近に経験されるだろうが、きょうだいの間でもそれはいくらでも起きるだろうし、恋愛対象に対してもそうだ。もちろん愛他感情だけがそれらの関係を支配するわけではない、ということは言うまでもないが。愛他感情はいろいろな関係性に時々チラ、チラ、と現れて、癒しをもたらしてくれる。
「ぶらぶら買い物をしていて、どこかの店に立ち寄り、何かの商品を目にしたとき、嬉しくなった。その瞬間、それを買って帰り、夫にプレゼントして喜ぶ顔を想像している。その楽しさは、その商品を自分が使うために探していたときのそれと、質的に変わらないのだ。」これを読んで、「なーんだ、自分も楽しんでるじゃない。どこが愛他性なの?」という人もいるだろう。でもこんなのよりましだ。

「私は妻を愛する。だから買い物をしていて偶然彼女の好きな『●●チョコレート』を目にした時、特に喜びは感じなかったが、そのかわりにある思考が湧いた。「このチョコレートは確か彼女が好きなチョコレートだ。ということはこれを買って帰ると彼女が喜ぶ。彼女が喜ぶということは、私がなすべきことだ。なぜなら私は愛他的だからだ。そこで私はそれを買って帰ることにした。」

これじゃまるで義務でプレゼントをしてるみたいじゃないか!! こんなの全然愛他的という感じがしないだろう。
私にだってこれは経験がある。先日ずいぶん久しぶりにデパートのおもちゃ売り場に足を踏み入れた。そこでふとむなしさを覚えたのは、以前だったら体験していたこと、つまり「これを買って帰ったら息子は喜ぶかもしれない」と思うことが今では意味をまったく失っているということに気がついたからである。何しろ息子はとっくに成人してしまっているのだ。
贈り物を好む人は、儀礼を重んじる事の他にもシンプルな愛他性の表現であることが多い。
徒然草に兼好法師が述べている。「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師・・・・・」

2010年9月12日日曜日

快楽の条件 5. 自分が持っているものは、もはや快楽的ではない

名古屋への出張(日帰り)。予想していたとはいえ、やたらと暑かった。
アマゾンの電子書籍「キンドル」を使い始めた。早速試しに本(キンドル版)を一冊買ってダウンロード。帰りの新幹線の中で使ってみる。絶対に読書に入っていけないと思っていたが、なんとアンダーラインが引く機能がある事がわかって、線を引きながら読む感覚がすこし味わえた。

快楽原則の5として、私が挙げたいのが、人間の持つ性(さが)とも言える性質である。それは自分たちが持っていることに決して感謝することが出来ず、持っていないことの不幸をもっぱらかこつということだ。私たちはA、B、Cを持っていても、それを持つことに感謝するのではなく、D、E、Fをもっていないことを悔やみ、自分が不幸である根拠とする。それはA、B、Cを持つことの快感はもう既に体験し終えているからだ。私たちが自分の持てるものを感謝する能力があれば、どれだけ幸せになれることだろう。私は「寡黙なる巨人」(多田富雄)のことが頭を離れないということを以前に書いたと思うが、脳梗塞に襲われた彼は、「ものを飲み込む事ができる」人がとてつもなく幸運であると感じられる境遇になってしまった。(さっそうと世界を飛び回っていた彼は、68歳のその日から、ひとりで歩くことも出来ないだけでなく、一匙の水にも「溺れて」しまうようになったのだ。)それも人生なのである。人の幸せはまったくの相対的なものである事がわかる。人は失った瞬間から、それを持っている人を羨み、持っていた時の自分に戻ることを熱望する。

2010年7月4日日曜日

快楽の条件4 揺り戻しはかならずある

大阪から戻った。(っていうか日帰りだった。)千頭先生、大変お世話になりました。(自分の知らないところに自分を知って理解してくれる人の存在はとても嬉しい。本を書く事の大きなメリットである。私は金銭欲、名誉欲はおそらく人並み以下だが、製本(広い意味での)欲だけは見苦しいほどある。そこにはモノづくりの面白さも加わる。小学生の低学年から、夏休みの課題だけはほめられていた。毎夏意表をつく制作をして、それが9月の登校日に陳列されてクラスメートに受けることを喜んでいた。)

帰宅して早速テレビを付けてワールドカップのアルゼンチンードイツ戦を見ていると、アルゼンチンの意外なほどの大敗。メッシ無得点。いろいろな番狂わせのあるワールドカップである。そういえば岡田監督ほどワールドカップの前後で毀誉褒貶があった人もいないのではないか?これまでは監督としての能力が疑問視されていたにもかかわらず、ワールドカップで一勝すると、急に雰囲気が変わってきた。今ではもちろんかなり世論は好意的である。年齢も名前も似ている私としては、自然と彼の体験をより身近に感じるが、そこで思うのは、「私だったらこんな体験はまっぴらだ」である。

私にとってサッカーはかなり蓋然性の高いスポーツだが、たまたまホンダのシュートが上手くゴールの枠に入り(というか、たまたま彼のところにボールが飛んでいき)、試合に勝利すると「さすが本田」と言われる代わり、ボストに嫌われてそれ以外だったら申し分のないシュートが得点に結びつかないと、事実上忘れ去られてしまう。今回たまたま幸運が何度か重なり、岡田ジャパンはすごい、ということになった。私は岡田さんが本当はダメだ、と言っているのではない。それ以前にワールドカップの前の国際試合に負け続けたことも、どちらかと言えば不運であったということだ。だから岡田さんは、ワールドカップ以前は実際いかに評価され、以後は実際より高く評価されているということだろう。そしてその噂が彼の自尊感情を決定的に揺り動かしているであろうという理不尽さが我慢出来ない。だから「私だったらこんな体験はまっぴらだ」となる。もちろん岡田さんの人生を追体験すれば、ワールドカップのあとの高揚感も味わえることになり、その結果彼を「羨ましい」と感じるかも知れない。私も彼の今の状況を羨ましく感じていないわけではないが、無理やり喜びを味わされるのもまた迷惑なのだ。なぜなら喜びのあとには必ず「揺り戻し」が来る。かならず、である。これがたまらなく嫌である。

おそらく岡田さんはある程度達観していて、ワールドカップ以前にはさほど落ち込むこともなく、それ以後も過剰に舞い上がることなく、日々を過ごしているであろう。しかし一般人はかなり違うはずだ。その日上司になんと言われるか、その日自分の責任をもっている人や物がどのようなパフォーマンスを披露するか、に一喜一憂して毎日を送っているはずである。そしてこの種の感情の大波にさらされることなく毎日を過ごすためにしなくてはならないのは、ほとんど決まっていることになる。「その時その時の毀誉褒貶とは遠く離れたところに自己イメージを温存せよ。」そのためには新聞や雑誌をことさら見ないということすら必要かもしれない。ことによったらインターネットもいけない。何しろニュースのたぐいのサイトに行ったら、たちまち見出しに自分のことが描いてあるのだから。でもそうするしかない。確か麻生太郎氏だったか、あの国民からさんざん揶揄された数カ月間、彼は自分に対する報道を目にすることを避けたと言うが、この途方も無い不自然で防衛的な行動も必要になるのかも知れない。

では快の揺り戻しとは何か。いつか書いたことだが、快不快は一種のバランスシート上の数値のようなものだ。絵画刻まれた後には、急速に、あるいはゆっくりとそれが減衰し、あるいは揺り戻される。それは基本的には深い、苦痛体験だ。快の体験を瞬間瞬間の心地良さの時間積分の値だとしたら、その量が今度は不快体験の時間軸上の積分値が釣り合うまで揺り戻される。そしてこれは本人によって否応なしに行われる。唯一の例外は、快の体験の後に時間の流れが止まること、すなわち死が訪れることであろう。しかしそれが生じることで、苦痛の揺り戻しによる快が味わえないということにもなりうる。(続く)。

2010年7月3日土曜日

快楽の条件3

痛み、苦痛刺激。これらが快楽に変換されることもあるから、ややこしい。性的マゾヒズムもそうであるし、精神的なマゾヒズムもそれに当てはまる。(マゾヒズムを、性的sexual、精神的 moral に分けたのはフロイトだったが、わかりやすい分類だ。)
私にはまったくわからない世界だが、鞭にうたれてキモチがよくなってしまう人がいる。その場合痛み刺激は「入力」としての意味しか持たず、あるいは痛みとしてと同時に快感中枢も刺激することでキモチ良くなる。なぜかは誰も分かっていないが、「誰に鞭打たれているか」という認知が関与しているということは、前頭葉からのインプットが大きな役割を果たしている。鞭打ってくれるのが、若いお姉さんだからいいのであり、ふと見たら、髭面のおじさんが自分に鞭打っているとしたら、気持ちイイどころが腹がたつだろう。このように快感は精神的な影響がそのまま即物的な快楽につながる。その場合快感はほとんど性的な性質を帯びる。

精神的なマゾヒズムの場合、遥かに複雑な性質を持つ。精神的な意味での苦労(鞭打ちみたいな即物的な痛み刺激じゃなくてね。)が快につながるからだ。ただしこれも性的なマゾヒズムと似ていて、「ある現象」が起きていることになる。それは、痛み刺激が、快感中枢にも信号を送るという現象が起きるということだ。(わかったような、わからないような。)

今日は午後から大阪にいく。

2010年6月30日水曜日

快感の条件2

私たちは、「あ、そうか!」体験を大概心地よく感じる。そしてその体験とは、ある思考ともう一つの思考がつながった状態なのだ。映画や推理小説でも、話が展開していくうちに、前に出てきた伏線となるシーンが思い出され、「ああ、あそこがこう繋がっているんだ。」と感じることがある。たいがいはこれは快感である。
繋がる体験とは、どういうことか? それはわかりやすく言えば、脳の活動が「同期化」することである。心理学の実験で、二つの異なる棒A,Bをスクリーン上で動かすと、視覚野で、A,Bに相当する別々の部分が興奮する。そしてそれらの相はばらばらなはずだ。別々の体験だから。ところが二つの棒は実は連動していて、その細い連結部分Cが覆いで隠されていたために、それらは別々のものとして認識されていたとしよう。そこでその覆いを取り去ると、被検者は、A,Bは一つの全体の別々の部分であるとみなすようになる。するとA,Bに相当する視覚野の二つの部分は、相変わらず興奮し、その細い連動部分Cに相当する部分も興奮を見せるのだが、以前と違うところはA,Bに相当する部分は同期化している。つまりサインカーブの層が一致していることになる。層が一致している体験は、一つの繋がった体験なのだ。
生物の脳はおそらくこのとき大部分は快感を覚える。それは彼らの自己保存本能に合致するからだ。全体をわかること、一部の動きから全体を知ること、それは敵から身を守るために必要なことだからだ。サバンナの草むらで、ライオンが身体の大部分を隠している。頭と尾の一部だけが別々に見えているとしよう。それを見ただけでライオンの全体を把握する能力のあるシマウマは生存の可能性が高くなるだろう。だからその種の能力は、快楽原則的に保証されている必要がある。人間が物事を「わかる」能力も同様だ。では一番大きな「つながり」を脳が実現したらどうだろうか? AもBもCもDもEもFも・・・・・みながひとつであるという体験。それは一種の悟りの境地に近く、宇宙といったいとなった状態といっていい。それは狂気のきびすを接していて、同時に・・・・カイカンでもあるのだ。

2010年6月29日火曜日

快感の条件1

快感の条件の一つは慣れと、新奇さの微妙なバランスである。例をあげよう。私たちはよほど音楽的な才能に恵まれていない限りは、初めて聞く楽曲に心を動かされることは少ない。たいてい何度か聞いて、サビの部分のメロディーを覚え始めるあたりから、それが気になるようになる。楽曲はおそらく20~30回くらい聞いたころが旬になる。一番感動する時期だ。涙を流すこともある。このころは、曲が半ば頭に再生可能で、しかし細かい部分はまだ不確定な状態だ。つまり十分に慣れてはいずに、その曲の「新奇さ」が残っている状態だ。そのうち聞き飽き始める。かなり聞き飽きそうになったら、半年くらい「寝かせておく」とまた感動がよみがえってくる。しかし再び聞いても、飽きるのも早くなってくる。ということで私は好きな曲はなるべく聞かないようにしているのが得策だ(?!)。
ちなみにこんな内容を、去年の春、NHKのFM番組に北山修先生に呼んでいただいた時に話した。その流れを追ってもう少し書くと・・・・

ところで曲を好きになることと、恋愛とは似ている。親しみが増し、でも慣れ切っていないような相手が一番「好きな」相手なのだ。ただし好きな相手の場合、飽きないように何年も「寝かせておく」わけにはいかない。相手も古くなるし、こちらも古くなるからだ・・・・。

とにかく慣れと新奇さのバランス、である。言い方を変えれば、全く自分の血肉化して、新鮮さのないものは、私たちを惹き付けることはない。完全に知ってしまえばおしまい、ということだ。これは人に当てはまるだろうか?性的な意味ではそうかもしれない。しかし人間として、という意味であれば異なる。人は毎日姿を変え、新鮮でいられることができるからである。<これから、2,3,4と考えなくては。>

2010年6月28日月曜日

何が快感かは、人により全く違う

何が美人の基準化には様々な議論があるが、それは何らかの形での調和性を備え、快感中枢を刺激するのであろう。その調和性としては、例えば左右対称であるという点は重要だったりする。美人や美男の顔をコンピューターで操作して、片側だけ拡大した顔を作ってみればすぐにわかるだろう。また美形の基本が「平均顔」であるといわれるのもよくわかる。

快感原則について考える上で極めて重要なのは、それには大きな個人差があるということだ。といっても大雑把な共通点はいくらでもある。いくつかの共通点と個人差との組み合わせが、快感の大きさを決定する。
人の顔を見る際の心地よさを考えよう。整った顔の若い女性の写真が週刊誌の表紙をこれほど飾るのはなぜか?ニュースキャスターやアナウンサーやお天気お姉さんが、美人であるのはなぜか?これらは人の整った顔を見て私たちが快感を得るという原則におおむね沿っている。一般的に美形と呼ばれる人たちがいて、彼女たちがキャスターの役を射止めるのには理由がある。もし番組改編で、新しいお天気おねえさんになった人が、この美系に属していないのであれば、たちまち物議を醸すだろう(ただしNHKの場合は別という説あり。でも最近はほとんど民放並みだぞ。)さて、ではだれが特別人気があるか、という話になるとたちまち個人差が出てくるということになる。
(平均顔については瀬山淳一郎さんのブログより拝借しました。)
例えば目と目の感覚、鼻と口との距離などが「平均的」であることは、それを見た際の抵抗が少なく感じるという意味では調和性に寄与するのである。(でも何が調和性を備えているかと言えば、実はそれが快感中枢を穏やかに刺激するもの、と逆に定義されるのかもしれない。快感中枢の性質が、調和性を定義する、というわけだ。私達がド、ミ、ソ、の和音を心地よく感じるからこそ、それが和音となるのだ、など。
ところで全員音楽に関係しているM1のOゼミ生に出題。ワールドカップの例のブブセラ。あれを少しでも耳触りのいいものにするためにはどうするか?オカベ君、どう? ヒント:もし三種類の長さの違うブブセラを…・・

2010年6月27日日曜日

Win-win の原則 -快楽原則的な人間関係の基礎

私は3年余り前から、「教師」となったわけだが、これも結構悪く無いと思うようになってきている。それまだはもっぱら「主治医」だった。主治医としてあることには慣れているが、「教師」には時間が少しかかった。しかしわかったことは、患者さんも学生も同じだ、ということである。これはもちろん聞き捨てならないかも知れない。もちろん学生さん達が精神科的な問題を抱えているというわけではない。そうではなく、同じような心構えで対面すればいい、ということである。それは一言で言えば「お客様」だということである。いや・・・・・・、少し違うか?彼らがあって私がある、という関係というべきか。彼らがこなければ(治療に来る、教室に授業を受けに来る、という意味で)、あるいは彼らが満足しなければ私もつまらないしやりがいがない。仕事が苦痛になるだろう。ということは彼らと私がwin-win (相手も特をし、自分も得をするという意味の英語的表現)になる状況を探すことになる。逆に言えば、それを考えてさえいれば、あまり仕事上で迷うことはない。
このwin-win の原則は、しかし案外忘れられがちなのである。それは自分が遣っていることが当たり前である、と思い込むことであろう。患者が来て当たり前。授業には生徒が出て当たり前。でも向こうが受診や受講をして直接win するものがなく、ただ単位をとるため、薬をもらうため、ということになるとお互いに不幸になるだけだろう。
このwin-win の原則は意外に便利だ。少なくとも人間関係でどうもしっくりこない時、実は自分の思っているwin-win と相手のそれが食い違っている場合、ないしは自分のwin が相手のwinよりいつの間にか大きくなりすぎて、事実上 win-lose の関係になっている場合である。その理由を一つ一つ検討すればいいわけである。つまりは人間関係がうまく行かないとしても、「私が悪い」からではなく、win-win 状況の把握が間違っている、計算違いをしている、ということになる。自分を過剰に責めなくてもいい、ということだ。(続く)

2010年5月24日月曜日

よくある疑問

ブログの設定をいじって、シンプルなものにしたら、写真や自己紹介文がどこかに消えてしまったぞ。まあどうでもいいや。
話を続ける。
「すべての行動は、快楽査定システム(PES)を経て行われる、つまりはすべての行動は快楽追求的(苦痛回避的)である」という言い方は、即座にある批判を招く。それは「人間の行動はそれだけではない。何も考えずに反射的にふるまってしまうこともある。」というものだ。また「人間は時には苦痛を招くような行動も選択するではないか。」という批判も多い。私の仮説はかなり前から口にして、結構批判も受けているから、この種の問いには慣れている。そして前者は比較的容易に処理できるが、後者はすこしややこしい。
まず確かに私たちの行動は無反省的 non-reflective に行われることがある。これは「行動」に含めないとするしかない。あえていうならば、一種の反射か。私たちの行動はそれが意図や計算を含む分だけ、大脳皮質の関与を必要とする。例えばコンピューターゲームの、テトリスを考えよう。はじめはブロック図形をどちらの向きに回そうか、どこに収めようか、などとあれこれ考え、大脳皮質を忙しく働かせる。ところが慣れてくると大脳皮質は「青くなって」いく。(つまり光トポグラフィーで見ると、活動が低下している。)つまり行動は、それに慣れてくると、前もってあまりプランせずにその時々の状況に合わせて反射的に行われるようになる。「これをしたらキモチええやろか、得するやろか、」などとPESを働かせなくても済む。無反省的にできるようになったことが、それが思ったような結果を招く限りにおいて、それはPESでいちいち先取り評価を受けなくなる。ただしそうやって一度でも失敗したなら、次回から大脳皮質を働かせて、次なる行動を想像し、PESに諮ってみてOKならそれを再び徐々に自動化させていく。だからこの第一の批判は正しいのだ。PESそれを働かせない行動はちゃんとある(というより離れている行動はおおむねPESをスルーして行われる)ということができる。だから詳しくは「すべての意図的な行動は、PESを経て行われる」と言い直さなければならないのだ。
後者の批判は、それに比べれば少し複雑である。確かに私達は意図的に苦痛を招く行動を行うこともあるようである。たとえばあなたが少し体重を落とすために腹筋を50回やろう、などと決めて、実行する際を考えよう。49回までやり終えて、もうあと一回がとてつもなく苦しくても、私たちはそれをやることがある。そんな時、最後の腹筋運動を行うことを想像してもPESは快楽を少しも予測しないように思えても不思議はない。
そのような時に私たちの脳はどのようなプロセスを経るのか。一つの仮説を示す。あなたは最後の一回の腹筋をやることを想像し、Aという苦痛を予測する。(ここでは不快査定システムもまだあまり区別していないから、このような言い方をしておく。)次に最後の一回をやらないことを想像する。それもまた耐えられない。その量をBとする。そしてすばやくA<BかA>Bかの判断がなされる。最後の一回をあなたが遂行するならば、かならずA<Bが起きているはずなのである。

2010年5月22日土曜日

(承前)
この食行動と食欲の分離というテーマについては、その典型がアノレキシアの患者さんである。彼女たちの中は、もはや食べたいから食べる、というパターンが崩れてしまっている人たちが多い。時間が来たから決まった量を食べる、という感じであり、決しておなかがすいたからそれを満たすだけの適量を、というわけには行かない。それでいて唐突に食欲がよみがえって、パン屋で売り物のパンをつかんで夢中で頬張ってしまい、警察が呼ばれたりする。
彼女たちの例は極端で病的だと思われるかもしれないが、こんな研究もある。アメリカでベトナム帰還兵を対象に(うろ覚え、要出典)、半分は通常の食事の半分にカットして与え、対象群と比較した。するとこのグループは、通常の量の食事を与えられたグループに比較して、実験が終了した後もはるかに多くの食行動異常がみられたという(要出典)<← お前は Wikiか?>。
これは授業でも結構出す例なので恥ずかしいが、それでもこの研究が面白いのは、食べるということについて意識しだすと、食欲というのがわからなくなるということが、一般人でも起きうるということである。
私自身の例。大学時代に70キロ近くなってしまい、短時間に60キロまで落としたが、医師国家試験を控えてナーバスになっていた時期でもあり、この現象が起きた。食べてもおなかがすかない。というよりいの中のものが消化されずにずっと残っているという感覚があった。お腹がすかない、という現象が、こんな具体的な形で起きるのが面白かった。(私の場合は、これは「常に何かを食べていたい」の裏返しとして起きた、ということと関係あるだろうか?)
えーっと、何でこんな話をしていたのかわからなくなった。そうだ。欲望や願望は、認知により変わる、ということだった。何か食べたい、という願望は、実は「食べたいという願望を持ってもいいのだ」「食べたいと願うことは安全なのだ」という認知を前提としているところがある。そしてこれが、先ほどの「快感査定システム」の話につながる。行動に先立ち、私たちはそれを起こした際の快、不快を査定する。これは認知的なプロセスだ。そしてここには、あらゆる認知の偏向やゆがみが反映される。ここで食べるということへのゴーサインが出ないと、私たちは空腹になってものを食べるという自然な行動ができなくなってしまうということだ。

2010年5月20日木曜日

(承前)
私が興味深く思うのは、私にとっては夜食は、一種の権利のようなものになっているということだ。たとえば自分は夕食後に、200キロカロリー相当のスナックを食べる権利があるとする。カロリーメート2本分というわけだ。そしてこれは、それだけの量を「食べたい」というのと少しばかり違う。権利を行使する、そうしないともったいない、という感じだ。満腹でも食べるのだから、食欲を満たすのとは明らかに違う。
だからたまに旅行に出て、ホテルで食事をした後に、どこにも夜食を買いに出られないとなると、すごく損をした気がしたりする。それに200キロカロリーのうち、100キロカロリーしか権利を行使していないと、どうしてもあと100キロカロリー分のものが食べたくなる。そして200キロカロリーに到達したという認知とともに、その後は食べなくても我慢が出来るのである。
さてリセット期間になると、この200キロカロリーが、100キロカロリーに変更になるわけだ。これははじめはつらいが、それは実際のカロリー摂取が減少したことによる生理的な反応というのとはおよそ違う。どうせその日のカロリー量など、カミさんがその日に作ってくれた夕食の量によってバラバラなのだ。摂取できるカロリーが減ってしまったということが辛いのだ。しかしそのうち自分は100キロカロリーの権利しか行使できないのだ、という考えに慣れてしまえば、今度は新たな認知パターンが出来上がる。そして100キロカロリーを消費した時点で我慢が出来るようになる。いったいこれは何だ? 食欲が認知に依存し、空腹の満足という本来の生理的なプロセスとはかけはなれている。いわば食行動と食欲の分離とが起きているということで、そこが食行動異常的なのだ。
私は酒を飲まないせいもあってか、甘いものが好きである。常に何か口に入れていないときがすまないということも少なくない。すると非常に稀に体調を崩したりして、何も食べてくないときは非常に不思議な気がする。
私の場合は体が欲するのに従って食べる、という自然なパターンはかなり崩れていることになる。幸い正常範囲内の体重であるが、食べるという体験は食行動異常のそれといっていい。常に食べたい。かといって過食嘔吐は経験ない。だから食べたい、というより、口さみしい、という感じだ。<意地汚い、という表現のが近いんじゃない?>結局常に食べたいのを我慢しているということになる。
私が困るのは、お腹がいっぱいになっても「別腹」が存在することだ。満腹でも、甘いものが欲しくなる。それに任せて食べたいままに食べていると、次第に太ってくる。(だからその自覚がなかった小学生の頃は肥満児だった。)<たしか浪人中も70キロに近かったぞ。>いつも「このぐらいはいいだろう」と自分に甘いから、日頃から食べる量を制限していても、じわじわとそれが増えていき、それにつれて体重が増え、何年かかけて65キロを超えていく。すると大変だ、ということになり、気持ちのリセットを図り、数ヶ月間かけて体重を減らして60キロ付近に持ってくる、ということをこれまで10年単位で何回も繰り返している。
さてその数ヶ月の「リセット期間」は、最初は辛いがすぐに慣れてしまう。そしてそのプロセス自体が、快感中枢の問題を考える上で興味深い。それで私のつまらない食行動について書いているというわけだ。

2010年5月18日火曜日

快感中枢と生命

ところでこれまでに、私は快感中枢と、快感査定システムの区別をつけて論じてきた。両者を分けてきたのは、両者が脳内でおそらく異なる存在だからである。片方は実際に快感をあじわうという体験に関係し、もう片方は、ある体験が快感を味あわせてくれるであろうことを知らせてくれる機関である。前者はおそらくノルアドレナリンという神経伝達物質により支配され、後者はよく知られるようにドーパミン経路である。
もう少し専門的な話になるが、快感中枢の位置は知られている。それはMFBと呼ばれる部位、中脳の側坐核と被蓋野を結ぶ一帯であり、後者は不明であるが、快感査定システムはむしろ連合野が関わっているだろう。それは次のような理由による。
似たような例としてあげられる運動野と、運動前野。運動野が興奮すると実際に体が動き出す。運動前野はその運動をしていることを想像するときに興奮する。運動前野は運動野のすこし手前にあり、大脳皮質の他の部位との連絡を持つ、連合野といわれる部位に位置する。両者は異なるのだ。
それにしても不思議な快感中枢。生命活動の源は快感による。それが導き手となり、生命活動が維持され、生殖活動が繰り返される。カマキリのオスは交尾のあとにメスに食べられる。<わかったふうに書くが、そんな話を聞いただけである。>おそらくカマキリのオスはメスに頭をかじられながら、強烈なエクスタシーを味わっているだろう。私たちはよく、下等動物に心はあるのだろうか、などという議論をする。しかし心が存在するためには、その内実が必要であり、それを保証するのは神経ネットワークの大きさである。神経細胞が数千というプラナリアの脳のネットワーク<ここら辺もうろ覚えでだろう?>を考えても、そこに存在しうるのは、遥かに希薄な自己意識、とも言えないような心なのだろう。しかしそれでも強烈な快楽を体験する能力は否定出来ないのだ。場合によっては単細胞のゾウリムシでさえ、極小のピペットに体をいじられて身をよじらせるときは明らかに不快であろうし、開放されたら快感なのであろう。もちろんそれを確かめようがないのであろうが。
快感について考えることは、生命を突き動かすのものは何か、what makes the living creatures tick を考えることでもあるのである。

2010年5月17日月曜日

対人関係におけるバランスシート <合いの手入り>

もともと無計画なブログだったので、もうきつくなってきた。そこで続ける工夫をしてみた。合いの手(突っ込み)を入れるのである。こうすると、少し楽に書けることがわかった。
  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
このバランスシートの関係で興味深いのは、私たちはしばしば、人との間でこの種のバランスシートを構成し、それを几帳面にもきちんと脳内で維持するということである。<まだ続けるのね。もう三日以上は経っているみたいだけれど。>
皆さんはこんな体験をしたことはないだろうか? 誰か(Bさんとしよう)とちょっとした仲たがいをして、その人に恨みを持ったとする。そして鋭い言葉の交わしあいの挙句、ある言葉を投げかけられ、それを許せないと感じ、口をきかない関係になったというわけだ。するとBさんとの間のバランスシートには、負債の欄に、ある値が書き込まれることになる。すると次にBさんと顔を合わせた時、あなたは実に明確で興味深い反応をする。その口論の前までは、笑顔を会えば笑顔をかわしていたBさんを見ても、顔がこわばり、あたかも他人のような冷たい視線を投げかけることしかできない。Bさんに対して笑顔で声をかけるという行動に耐えられなくなっているのだ。そのような際、私たちは決して頭の中で計算をしてそうしているわけではない。体が(脳が)自然とそう反応しているのだ。<ここら辺、夫婦げんかの時のことを思い出して書いているんやないか?>
そこに関係しているのが、「快感査定システム」というべき部分である。これから行う行動を査定して、それが不快であるならその行動を起こせない。そしてその査定はほぼ瞬間的に、非意識的に行われる。<また大げさな表現やな。まあ許したるわ。>
そこでいつものようにBさんに気軽に声を掛けることは「それは苦痛である、やってはいけない」という結論が自動的に算定され、したがって行動に移せないのだ。
ところがバランスシート状の数値は、実に瞬間的に書き変わる可能性がある。たとえばBさんが例えば「ゴメンね。私のほうが間違っていた。」という簡単だが明確な謝罪のの言葉を投げかえるだけで、そのような冷たい態度は一気に氷解する場合もある。すなわち他人との貸借対照表に書き込まれた数字は、謝罪という行動により瞬間的にも解消する類のものである。(しかしこういったからといって、謝罪が心のこもっていないものであってはならない。謝罪が心のこもった本物であるかどうかを、私たちは実に注意深く見ている。そして謝罪が本物であるということは、そうする人間が苦痛を味わっているということに他ならないのである。すなわち謝罪をすることとは、謝罪者のバランスシートにある種の負債を作ることに他ならない。)
<それで足利事件の菅谷さんのことを思い出した。裁判官が心底謝っていると感じた瞬間に、許すという気になったのは、その謝罪の態度や重みにより、バランスシートが、一時的にではあれプラマイゼロの状態にまで戻ったということだね。あれも瞬間的な現象だったと言えるわけだ。それはそうと、あれほど気をつけろと言ったのに、変換ミスが一つあるぞ。>

2010年5月16日日曜日

昨日、5月15日のことだ。民主党の小沢さんは、地検からの3回目の事情聴取で政治資金の虚偽記載に関する関与を改めて否定したあと、書面で「率直に事実経過を説明しました。これからも誠実に対応してまいる所存です。」とコメントをして、逃げるように車に乗り込んでしまったという。心証は・・・・・ 残念ながら真っ黒である。このような行動は「後ろめたさ行動」などと言えるのだが、この行動面からの明らかな特徴について、どうして心の専門家はコメントを求められないのだろうか?
政治家がウソをついているときの行動はかなり特徴的である。それについての直接の言及を避け、秘書かだれかを通じて形ばかりの釈明をし、それ以後は取材を極力避ける。もし小沢さんが本当にシロなら、無実の罪を着せられたことへの怒りを表明し、自らの潔白をそれこそ週刊誌へ寄稿するなりして晴らそうとするはずだろう。
動因の心理学からこのパターン化された行動を説明するならば、それは嘘を並べて自己正当化するという行為を、自然な感情を交えて行うことは不可能だと感じるからだ。いったんそれをやりだしたら、限りなく嘘をつき続けなくてはならないという状況に身を置くことになることが予測されるから、ノーコメントにしてしまう。もちろん巧妙に言い逃れるだけの方便があるのならそれを選ぶのかもしれないが、それもないのであれば、ああするしかない。
しかし小沢さんの振る舞いに関して、心理学者や精神科医が意見を求められることは皆無ではないか?私なら「動因心理学的には、そのふるまいから、小沢さんの説明は虚偽に満ちていることはかなり高い確率で言えることです。」などとコメントするだろうが、もちろんそんな事を一介の精神科医に聞く人はいない。

2010年5月15日土曜日

(承前)
 ここで私たちは、もう一つのタームを設けなくてはならなくなる。先程IPA(生得的に快感を生む行動)という概念を紹介したが、その快感を「検出する」ような脳内の器官である。それを仮にPES pleasure evaluating system (快感評価システム)と名づける。また同様に不快を評価するような器官としてDES Displeasure Evaluating System も考えることになる。現在の脳科学は、両者が別々の器官であることを教えているので、この両者は区別しておく必要がある。このDESに関しては、実はPain Evaluating System 苦痛評価システムという名称の方が妥当であろうが、それだと両方ともPESになってしまって具合が悪い。
 さて当面は快感について、すなわちPESについて述べるが、その議論のかなりの部分は、DESについても同様に当てはまるであろうことを了解していただいて、議論を進めよう。
ここで重要なのは、PESは、快感中枢そのものではない、ということだ。快感中枢(FBMなど)は快感を体験する場所、PESは快感を「検出」する場所である。それが快感中枢により兼務されている可能性はあるが、そうとは限らない。
 実際のところこのPESが脳のどこに存在するのかは不明である。でも確かに存在し、それが私たちの行動を生んでいる。ある行動を起こすことをイメージする。PESがある種の値を示すことにより、その行動にゴーサインが出される。このプロセス自体はおそらくあらゆる生物にある程度共通しているのであろう。行動の大半が本能により導かれる生物でさえ、あるいはそのような生物であるからこそ、そのPESにより導かれる行動がより大きな位置をしめる。本能に基づいた行動においては、それが快感を予測するような行動のパターンがある程度出来上がっていて、そこに試行錯誤や行動を創出するプロセスが必要とされていないのである。